希望
本館に続く渡り廊下を、僕はずかずかと歩いていた。
日は傾きはじめ、廊下の手摺は影を長く伸ばしつつある。足を止めてちらりと後ろを見ると、調整施設が西日を浴びていた。
あの後、ルーミィは姿を消してしまった。
デイモンメイルの調整に関して、彼女の言葉を鵜呑みにはできない。命がけの仕事では何事も慎重にすべきだ。
いや、あの様子ではむしろ普段より危険になったかもしれない。ポールが用心するといいのだが。
「隊長、お戻りですか?」
本館側からカリウスがやってきて、崩れた敬礼をした。
どうやら彼の方はこれから調整施設に行くらしい。
「ああ、ちょっと疲れたよ。お前は?」
「これからクルスクの最終調整です。お陰で夕飯を食い損ねました」
最終調整には時間がかかる。終わるのは夜半近くになるだろう。
「悪いな。終わったら夜食を届けさせるよ」
「ありがたいですな。ところで――先ほどの会議ですが」
「あれからなにかわかったことでもあったか?」
「いえ、隊長が退席してすぐにお嬢ちゃんもいなくなっちまいましたから、特に新しい情報はありません」
さきほどのやり取りを思い出し、胸がざわついた。
くそ、ことによっては本当に祓ってやろうか、あの――
「そう邪険にすることもないでしょう。綺麗な娘じゃないですか」
「目つきも性質も悪い。僕は基準が厳しいんだ。統括本部にどう報告したものか、頭が痛いよ」
「公爵様に任せちまったらどうです? どの道、今の状況じゃまともな指示は返ってこないでしょう。実際問題、ティーガーを戦線から外すわけにゃいきませんしね。それより、ウルクのことですよ」
声を潜め、彼は僕を見た。
「あのお坊ちゃん、やり込められてだいぶ参ったみたいですぜ。メイルライダーとしては大した腕前ですが、まだ若いですからね。せめて、隊長がなにか言ってやれば良かったんですが……」
「それはお前がしただろ」
「隊長の口から言うことが重要なんですよ。そうすれば意味合いが全然違うんです。ウルクにとってはね」
カリウスの口調に混じる非難の響きに、僕は驚いた。あれは別に僕が責められるようなことではないだろうに、今日に限ってカリウスまで絡んでくるとは。
「どう取り繕ったって、状況は最悪だ。その意味じゃルーミィは正しいさ。カリウス、事実は動かないんだぞ。精神論で戦況は変わらない。軍人が幻想に逃げてどうする」
「――隊長。では、この戦いは無駄ですか? 軍統括本部は我が隊にダンワース回廊の死守を命じていますが、無駄だと思うなら隊長はどうしてここにいるんですか?」
ダンワース回廊とは、ナルーヴァ河東岸の敵中に飛び地のように残された帝都と西岸を繋ぐ帝国側の支配地域の名称だった。
他の場所は連合軍に制圧されており、この細い回廊を失えば、帝都は完全に包囲されてしまう。補給や避難民の脱出のためにも、ダンワース回廊の保持は帝都防衛の絶対条件だった。
真摯な眼差しでカリウスは言った。
「確かに戦争は負けでしょう。この辺で逃げ出した方が賢い生き方かもしれない。それこそデイモンメイルを持って投降すりゃ、連合軍は大歓迎するでしょうな。だけど、それじゃ我々が守ると誓った人達はどうなるんです?」
抑えた口調ではあったが、そこには揺ぎ無い決意があった。
「時間を稼げばその分脱出できる人が増えます。誓いは果たせずとも無辜の人々を助けるための戦いなら、立派に意味がある。だから勝ち目がないのにまだ留まって戦っている。そうでしょう、隊長」
こいつは――カリウスは本当に立派に成長したのだ。眠っていた僕が子供扱いされても仕方ないかもしれない。
それでも僕は素直に頷けなかった。
僕はそもそも勝敗など度外視している。そして、その理由はカリウスが言うような立派なものじゃない。
「負けても滅亡するとは限らないさ。少しだけど、望みはある」
「――それは?」
「敵に損害を与えることだ。とても容認できないほどの大損害を」
「しかし、それだけで連合軍が諦めますか? 奴等にとっちゃ、帝国を打倒する千載一遇の機会だ。幾ら損害を与えても、なりふり構わず徹底的に攻撃してくると思いますが」
戦術的にはカリウスの指摘は正しい。
始めた以上、容赦なく叩き潰すのが当然だ。相手が強敵なら尚のことである。
でも、ヒトは戦争の後も生きていく。恨みを晴らせれば後はどうでもいい、と言うわけにはいかない。
「連合軍は決して一枚岩じゃない。考えてみろ、数百のオーガスレイブを運用するのにどれだけのコストがかかると思う? 駆動するための生贄、支援部隊、詠唱艦に母艦、曳航艦。一方でデイモンメイルをのぞけば得られるものは大して無い。帝国への復讐を果たしても破産したんじゃ意味がないだろ」
連合軍の勝利は高くつき過ぎており、経済的にはまるで引き合わないはずだ。
本当は戦争をする必要すらない。各国は帝国圏からの決別を宣言し、勝手にやれば良かったのだ。
積年の恐怖と怒りが割に合わない開戦へ彼らを踏み切らせてしまったのだろう。
そして戦争自体の勝敗はもう決している。
となれば、さらに莫大な損害を覚悟で帝都を陥さずとも降伏を迫ればいい。そう考える国が必ず出てくる。そこに交渉の余地が生まれるのだ。
「既に水面下で双方が動いているはずだ。外交上の選択肢は多い方がいいからな。もう数週間帝都を防衛するか、詠唱艦を何隻か沈めて連合軍の攻撃衝力を奪うんだ。そうなれば、交渉は具体性を帯びてくる。領土は削減され、軍備も制限されるだろうが、エルミナは田舎の弱小国家として生き延びることができる……かもしれない」
デイモンメイルの引渡しを餌に、連合軍の結束を乱すことも可能だろう。どの国も『本物の巨人』が欲しいに決まっているのだから。
いずれにせよ、最後にはティーガーを取り上げられる。
僕はそんな国には用はない。そもそも今語った内容にしても、実現の確率は夢物語に近い。帝都攻撃が始まれば、数週間どころか数日耐えるのが精々かもしれない。
だが、ごくまっとうな愛国心を持つカリウスは光明を見出したようだ。
「なるほど。確かに――まだ望みはあるってわけですか」
「ああ。だから別に悲壮な決意でやっているわけじゃないんだ。本当にヤバくなったら、僕はさっさと逃げるからな」
カリウスは苦笑して、表情を緩めた。
「よく言いますよ。まぁ隊長は色々あってひねちまったみたいですが、性根ってのはそうそう変わらない。自分はそう信じてます。信じて最後までお供しますよ」
僕はうろたえた。彼の信頼は真っ直ぐ過ぎて、僕の深いところまで届いてしまう。こんなの脅迫と変わらないじゃないか。
「よせよ、カリウス。もっとクールに行こうぜ」
「なに言ってんですか。アンタ、人一倍アツい性格のくせに。ま、あてにしてください」
軽く笑ってカリウスは歩み去った。




