巫子
対岸は異様な静寂に満ちていた。
敵兵どころか他のイキモノの気配すら感じられない。夜行性の動物や幻蟲の姿さえなく、夜の森はしんと静まりかえっていた。
妙だな、と思った時、砲撃音が轟いた。カリウスが陽動をはじめたらしい。
少し離れてはいるが、充分に遠くはない。時間がなかった。
詮索を打ち切って走り出す。薮を掻き分けて強引に進むと、黒々とした木立の先に月明かりに照らされた街道が見えた。ティーガーはこの街道沿いに遺棄されているはずだ。
僕は足音を殺し、警戒しながら慎重に進んで行った――が、その必要はなかったのだ。
街道には兵士が大勢いた。それは別に驚くにはあたらない。
予想外だったのは、彼等が誰一人として息をしていないことであった。街道の周辺は折り重なって倒れている死体で一杯になっていたのだ。恐らくは、連合軍の先遣部隊だろう。少なくとも中隊規模と思われた。
「このせいか、オーガスレイブがやってきたのは……?」
例え残骸となってもデイモンメイルは危険だが、当然彼等もそれは承知していたはずだし、触手にやられたようには見えない。むしろ、兵士達は互いに殺しあったようだった。恐怖に歪んだ死相からすると、なにかの幻影を見せられたのかもしれない。
想像を巡らす余裕はない。僕は死体の間を通り抜けて、巨人に駆け寄った。
擱座したティーガーは、座り込んだ無力な子供のように見えた。
夜露に濡れた装甲に触ると、胸が高鳴った。至近距離から見上げるティーガーの圧倒的な量感に心が震える。カリウスとの約束までもう数分しかない。僕は認証プレートに掌をあて、胸部装甲を開いた。
一刻も早く内部に潜りこみたかったが、用心しなくてはいけない。操術腔の結界は切れているのだ。僕は浄化符を取り出した。また触手に喰いつかれては堪らない。
「――浄化されている? どうして……?」
驚いたことに、僕の血を浴びた筈の操術腔内は清浄になっていた。
撃たれた時、僕は浄化符を発動させ損ねている。それに浄化符だけでは汚染を完全に除去できるものではない。床や座席には血痕一つなく、信じ難いことだが、汚損した護符まで元に戻っている。
「回収部隊が前線で浄化儀式を行ったのか……?」
連中にそんな余裕があったとは思えない。操術腔内で浄化符を発動させればティーガーにもダメージを与えてしまうから、使わずに済めばそれに越したことない――のだが。
どうにも納得がいかない。あまりに不審すぎる。
このまま乗り込むのは危険だ。時間はないが、もう少し調べようと思った時、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「――!」
振り返ると、ぼんやりと光る人型の群れが辺りを埋め尽くしていた。彼等はさわさわと囁き合いながら徐々に包囲を狭めてくる。
僕は反射的にティーガーの胸部装甲を閉じた。デイモンメイルの最大の弱点を曝したままにはできない。
「お前達はこの森の地霊か? 僕になんの用だ」
返答はなく、どろりとした邪気だけが返ってきた。
「止まれ!」
大声で命じると、人型は動きを止めた。強い意思を込めた言霊はこうした地霊に多少は影響を及ぼせる。一時しのぎではあるが。
さらなる対処を考える間もなく、真後ろから声がかかった。
「邪魔はいかんよ、お若いの」
ティーガーと僕の間に立ち塞がるようにして、皺深い老人が立っていた。身にまとっている端の擦り切れたボロ服は、何百年も前に貴族達が好んだパディニ風だ。
「新たな眷族を迎えている最中でな。今夜は遠慮して貰いたい」
老人はそこら中に転がっている死体を指し示した。死体から霧のような粒子が漂い出ている。粒子はゆっくりと渦を巻き、段々と人型に固まりつつあるようだ。
「この死体の山は君達の仕業か?」
「そうならどうするね?」
「別にどうも。僕等にとっては敵だしね。だが何故だ? 帝国のためとも思えないが」
老人は肩を震わせ、乱杭歯を剥き出しにした。笑っているらしい。
「ヒヒヒ、まさかな。ヒト同士の戦争など、我等には無関係よ。こやつらは生贄だ。血肉を我が主に捧げる生贄とし、霊魂は我等の眷族にする。それだけのことよ」
主? こいつらは誰かに仕えているのか。
老人の落ち窪んだ眼窩に、不気味な光が宿る。枯れ木のような指を僕に突き付け、はっきりした脅しを含んだ声で言った。
「だが、生きているヒトはここにはいらぬ。さっさと森から出て行って貰おうか」
「出て行くさ。僕のデイモンメイルと一緒にね」僕は浄化符をかざした。
地霊達は一斉に退き、声ならぬ声でおののいた。
退きこそしなかったものの、老人も額に汗を浮かべ、僕を憎々しげに睨んだ。
「小僧、隣人への礼儀も弁えぬか! 巫子なればこそ、見逃してやろうと思うたのに」
「僕は巫子じゃない、メイルライダーだ。いいからどいてくれ」
浄化符を眼前に突き付けられても老人は引かなかった。それどころか僕をティーガーに近寄らせまいと両手を広げ、口から泡を飛ばして恫喝する。
「ならぬ! ならぬぞ、小僧! この地に追い払われた我と我が眷属の復権には、この祭壇が必要なのじゃ! ここにおわす神を主神に奉じ、我等眷属が再び神の座に返り咲くためになぁ!」
理解不能だが、説得の通じる相手ではないことだけはわかった。
時間がない。僕は浄化符を――
「な――あ、くっ!」
腕が動かない。いや、肘から先の感覚が失せている。
闇よりもなお暗い影の塊。
地面から伸びた黒い手が、僕の腕を捕らえていた。見る間に手は増殖して絡みついてくる。掴まれているところから氷のような冷気が浸透し、全身が麻痺した。
浄化符が僕の手から離れた。ひらひらと地面に舞い落ちる途中で、符は火花を散らして燃え上がった。ようやく安堵したのか、地霊達はうめきを漏らし、にじり寄ってきた。
「ふん、たわいもないのぅ。それでも神薙ぎ衆の末裔か?」
老人はじろじろと品定めするように僕を見て、にんまり笑った。
「巫子の資格を持つ生贄なぞ、そうは手に入らぬ。心臓を抉り出して我が神への捧げ物としよう」
老人は狂気を孕んだ声で哄笑した。地霊達も嬉しげに唱和する。
ぬるり、と地面から一際大きな手が伸び上がった。手が僕の頭を鷲掴みにし、鶏を絞めるように首を捻ろうとした時――唐突な怒声が響いた。
『ああもう、やっかましいわーっ!』
ティーガーの胸部装甲が一気に開くと、中から凄まじい突風が噴出した。
意表を衝かれたのか、老人は悲鳴を上げて転がっていく。僕を捕らえていた手も風に切り裂かれるように砕け、細切れの塊となって消滅した。支えを失う格好になり、僕は地面に倒れ伏した。
なにが起こったのか、全然わからない。
痺れる体を動かそうとしたが、どうにか仰向けになるのが精一杯だった。見上げる夜空に浮かぶ、巨人のシルエット。開いた胸部装甲の上に誰かがいる。
それは、子供と呼んでいい年頃の少女だった。
月光を弾いて煌く、繊細な金の髪。
燐光を放つ、澄んだ紅玉の瞳。
闇に浮かぶ、気品を湛えた白皙。
間違ってこの世界にいるような、どこか隔絶した美貌。
本当に――美しい少女だ。
それは確かだ。それは認めよう。だが、しかし。
「黙っておればぎゃあぎゃあと騒ぎ立てよって! せっかく気持ちよく寝ていたのに、どうしてくれるのだ、この慮外者共! ああ、まったく不興だ……散々だ、台無しだ!!」
呆然とする周囲を他所に、少女はやや寝乱れた髪を振り乱し、わめき散らしていた。
寝起きが悪いのは確かのようだ。実に剣呑な感じだった。
顔をしかめ、悪い目つきを一層悪くすると、彼女は僕を糾弾した。
「お前が悪い!」
「なに――」
「なにもかにもないわ。待たせ過ぎだ、愚図め。お陰でうっとうしい連中が寄ってきてしまったではないか!」
一方的に言い立てると、彼女は軽やかに跳躍して僕の足元へ舞い降りた。手足は長いがほっそりしている。長い髪が小さな背を覆い隠していた。
僕を守るように立った少女を見て、老人は狼狽した。
「な――何故――あ、あなた様は……」
「たわけ。捧げ物だと? これは初めから我のモノだ」
これ? これって僕のことなのか?
こちらの疑問に構わず、少女は言葉を続けた。
「そもそも我が本質も見極められず、生贄を捧げようとは愚かの極み。地祭神も堕ちて歪めばそんなものか。例え我が力を貸したとて、己が資質を見失い、厄神にも成りきれぬ半端者なぞ誰も祭らぬわ! 何よりも!」
『我が眠りを妨げたこと、万死に値する! 己等に生きる価値はない!』
脳髄を抉るように突き刺さる少女の声。
『見よ! 祭壇は地に埋まり、詣で人も途絶えた。もはやこの地にお前達の居場所はない!』
これはただの言葉ではない。魔力を込めた呪詛だ。
『消えよ! 砕けて消えよ! 消えよ、消えよ、消えよっ!』
地霊達はオーオーと慟哭を上げて身を震わせ、次々と霧散した。
なんの躊躇いもなく彼等を殲滅していく少女を止めようと、老人は叫んだ。
「やめ、やめてくだ――」
『お前達はいらぬ!! 塵と化して、散華せよ!』
一際大きく響く呪詛。老人はあっさりと砕け散り、眷属達の後を追った。
すべてが終わるまで、ほんの数秒。
「――君、君は……」
「ルーミィ。お前がつけてくれたんだぞ。忘れたか? レイモンド」
確実に、彼女はヒトではなかった。魔方陣も呪符も詠唱もなく、ただ言霊をぶつけるだけで地霊を滅する術者などいるわけがない。
「我はお前と共にある者。お前と命を一つにする者だ。お前が我を呼び、我はそれに応じた。祭壇に捧げられた血をもって、すでに契約は結ばれている」
少女は振り向くと愉快そうに微笑んだ。
淫靡で不吉な美貌の影に、斬れるような純粋さを覗かせて。
「さぁ、祈りを捧げよ! 我を祭るがいい、巫子よ!」




