治療符
「ちょっと、兄様! 塩つけすぎよ!」
フィアナは僕の手から円筒形のチーズを奪い取った。
掌でチーズの表面を払って余分な塩を取り、棚に並べる。季節にもよるが、こうして十日間ほど放置すると熟成されたチーズとなるのだ。半地下式の室の中には四つの棚があり、熟成段階の違うチーズが鎮座していた。
「もう、なにぼうっとしているのよ」
「ん――いや、まぁね」
僕は語尾をにごした。せがまれて手伝いをしているものの、心の中は早朝に受領した書状のことで一杯だった。ナジールに言われたお陰である程度心の準備はしていたものの、いざ選抜が現実となると話が違う。
聖堂とは、本来は帝国のために戦い散った英霊達の霊廟を指す。
歴史上、生あるうちに選ばれ、聖堂入りを果たしたメイルライダーは六人しかない。彼等は俗世と縁を切り、聖堂の中で眠りについている。帝国が危機に瀕した時に目覚め、デイモンメイルを駆って戦うために。
遥かな憧れに過ぎなかった英雄の列に、僕が加わるのか。
僕を蔑んだ奴。妹を侮辱した連中。
同じメイルライダーの中にも、そういう輩は多かった。
――奴等の頭を飛び越えて、僕は選ばれたのだ。
そう思うと、身が震えた。なにかが報われた気がした。
一応、そこに含まれる政治的思惑も理解している。このところ外交での失点が重なっていることもあり、枢密院は諸外国に対して帝国の威信を高めたいと願っているらしい。新たに聖堂入りするメイルライダーの誕生は、まさにうってつけのイベントだ。
おまけに僕が移民の子というのもこの際都合が良いだろう。帝国の移民差別を非難する者は多く、これは彼等を黙らせる格好のアピールとなるに違いない。
それにしても少し前には考えられなかった選定だ。
帝国上層部でも異論は多いだろうが、彼等にとって所詮メイルライダーは道具に過ぎない。使いでがあれば誰であろうと構わないし、もはや構う余裕もないのだろう。適合者は年々減少する傾向にあるのだから。
帝国への忠誠心などないが、ロドネイ家の恩に報いたい気持ちはある。僕が聖堂入りすれば、フィアナとナジールのことがあるにせよ、一応の恩返しにはなりそうだ。
なにより、僕はティーガーを取り上げられるのは嫌だった。
聖堂入りするということは、家族、友人、その他一切の繋がりを捨てて、残る生涯のすべてをデイモンメイルに捧げるということでもあった。
代償として、デイモンメイルは死す時まで己のものとなる。いつ現れるとも知れない、新たなメイルライダー候補生達と適性を争った挙句、デイモンメイルを奪われる悪夢から解放されるのだ。
目覚めて戦い、また眠りにつく。余計な時間も感情もない。
自分とティーガーと任務。
ただそれだけの純粋な生き方だ。それはきっと悪くない。むしろそれこそが、僕が望む人生では――
だん、と床を踏み鳴らす音で僕は物思いから覚めた。
「に・い・さ・ま? ちょっと、あたしの話、聞いているの?」
「あー……いや、聞いてなかった」
「夕方までは家事を手伝ってくれるって言ったくせに! いいわよ、もう一人でやるから!」
「悪い。ごめんな、フィアナ」
完全に機嫌を損ねてしまったらしく、彼女は黙々とチーズを並べている。
たった一歳違いなのに、妹の背丈は僕の胸の辺りまでしかない。同い年の娘達と比べても、フィアナは小さい方だ。それなのに、背から滲み出る迫力だけで僕は気圧されてしまいそうだった。これだから女は怖い。
どうしようか。今日は見慣れないエプロンドレスを着ているから、それを褒めてみるか。でも今更な感じもする。服を褒めるなら今朝会った時にしろと言い返されそうだ。
まあどっちにしても、あからさまなご機嫌取りは逆効果だろう。
「ええと、勉強の方はどうだ? 資格は取れそうか?」と僕。
「……わかんない。ラスロさんは大丈夫って言ってくれたけど、難関だもん」
背中を向けたままではあったが、一応返事をしてくれた。
ラスロさんはこの近辺で一番と言われている治療法術士で、軍属として海外の紛争地帯に赴いた経験もある。そのせいか移民への偏見がなく、フィアナは見習いとして彼の診療所で働いていた。
「きっと大丈夫だよ。実力を出しさえすれば合格できる」
フィアナは腰に手を当てて、くるりと振り返った。濃い目の眉を逆立て、なにやら剣呑な目付きをしている。
「へー、左様ですか。で、その根拠はなんでしょうか、お兄様? 口先だけでいい加減な気休めを言われても仕方ないんですけど」ふん、と鼻を鳴らすフィアナ。
実に可愛くない。今日は普段にまして手強い気がする。
もしかすると試験のプレッシャーがきついのかもしれない、と僕は思い当たった。治療法術士研修生の資格試験は確かに難関で、一度で合格する人は滅多にいないのだ。
一瞬返答に困ったものの、たまたま腰にやった手が良いものを探り当てた。
「根拠はこれさ」と、それを差し出して開く。
「なに……護符入れじゃない」
メイルライダーはどんな時でも護符を持ち歩く。それは浄化符が緊急時に触手から自分を守る最後の手段だからだ。常に身に着けていないと落ち着かず、僕も腰から護符入れを下げていた。
「これがどう――え? これ、って……」
十数枚の護符が挟まった護符入れの中に、一枚だけある古びた色の護符。
僕は護符入れを開いてそれをフィアナに見せた。
「ほら、お前の作った治療符だよ。僕がメイルライダーの養成所に行くことになった時、何枚か渡してくれただろ?」
「え、え、えーっ! 兄様、これまだ持ってたの? 捨ててって言ったじゃない!」
フィアナはうろたえているようだった。それも無理はない。
「実は養成所に入ってすぐ、訓練で怪我してね。ちょっと擦り剥いただけだったけど、試しに使ってみた」
「う、うん……」
「ちゃんと効いたよ。怪我は綺麗に治った」
「ええっ、本当!?」
ただしその後僕はぶっ倒れ、丸二日寝込んだ。治療符は基本的に本人の治癒力を前借して傷を治すものだ。フィアナの符はその辺りの調整が過激な方へ振られていたらしい。
だが当時十歳そこそこだった少女が見よう見真似で書いた符は、きちんと効力を発揮した。それは術者の底知れない才能を伺わせる出来事だった。
「だから、きっと試験にも受かるさ。自分の力を信じろよ」
「うん! そっか、アレでも効いたんだ。良かった……後から考えてみると、色々ヤバ……、ま、まぁ、いいよね。とにかく効いたんだし」
えへへ、とフィアナは頬をかいた。どうにか機嫌は直ったようだが……もしかすると、僕は運が良かっただけなのかもしれない。あの驚きようは気になる。すごく気になる。
「ねぇ、ちょっと見せて。これって軍標準符よね?」
フィアナはさっと手を伸ばして護符入れを奪い取ると、ぱらぱらとめくり始めた。
「へぇ、浄化符に結界符――うわぁ、ひどい符紙使ってるわねー。確かに頑丈だけど、これじゃ効率が……え、なにこの術式? 駄目よ、こんなの。もう古いもの」
「そうなのか? まぁ、軍用品は信頼性が一番だからな」
「ふーん。それはわかるけど、守りに入り過ぎっていうか、呪紋はもう少しエレガントに組まないとね……そうだ! 兄様の護符、あたしが全部作り直してあげるわ」
「えっ?」思わず声が出た。
「ちょっと。その「えっ?」はなにかしら?」
たちまちフィアナは目を細めた。まずい兆候だ。
「いや、ありがたいよ。ありがたいけど、お前は忙しいだろ? そう、試験勉強があるし! 妹の大事な時期に無理をさせるわけには……」
「なんだ、そんなこと気にしてたの? 大丈夫よ、心配いらないわ。護符作りは復習になるからちょうどいいもの。あたしに任せて、兄様。ね?」
そう言われては、僕は逆らえない。
思えば、僕は昔からフィアナに『駄目だ』というのが苦手だった。実のところ人種的特徴を除けば僕等はあまり似ておらず、本当に血が繋がっているかは怪しい。
ただ物心つく前から同じ救貧院にいて、彼女が僕を『兄様』と呼んだから、僕は兄として彼女を守ってきたのだ。
それももうすぐ終わる。
まだ彼女の口から直接聞いてはいないが、フィアナは一人の女性としてナジールの妻たることを選んだ。そしてナジールはメイルライダーを辞め、僕は聖堂に入る。
僕とフィアナとナジール。
三人で過ごした季節は、いつの間にか終わりを迎えていたのだ。
この先、フィアナを守るのは僕の仕事ではないんだな。
ひどく寂しいのは確かだった。
だけど、僕等はいつまでも子供ではない。同じ関係、同じ場所にしがみつくべきではない――のだろう。そう考えれば僕が聖堂に入る今、フィアナを安心して託せる相手がいたのは、この上ない幸運だったと言える。
「フィアナ、後でちょっといいか?」
「……どうかしたの?」
なにか感じたのか、フィアナは表情を戸惑いに変えた。
「大事な話があるんだ。きっとお前の方からも話すことがあると思うし」
「なによそれ、もったいぶって。あたしから話すことって、なんのこと?」
「だから、その話は後で。まず上に行ってお茶にしよう」
僕はフィアナに手を差し出した。彼女は怪しむように僕の手と顔を交互に見た。
「妙に優しいのね。なんか、変だけど……まぁ、いいわ」
ようやくフィアナも手を伸ばす。僕は小さく柔らかな手をそっと握った。いつも身近にあったこの指先が、二度と届かない場所に僕は行く。
せめて感触だけは忘れないようにしよう、と僕は思った。
□
数日後、僕は休暇を切り上げて帝都に戻った。
帝国全土を揺るがせる事件がおきたのは、僕が聖堂に入ってから二週間後のことだった。
その日、ナジールはフィアナを連れて、帝都にある帝国魔導院に現れた。
安置所に移送されたヴァルヴァラを、解体前に婚約者に見せたいという彼の要望は、同情と共に許諾された。引退を目前に控えたメイルライダーの複雑な心境を、誰もが察していた。
ところが彼の目的は、フィアナをデイモンメイルの生贄にすることだった。手首を斬られ、ヴァルヴァラの操術腔内に押し込まれて喰われる彼女を、警備兵が目撃している。
ナジールはヴァルヴァラを奪取して帝都から逃亡し、行方をくらました。帝国は大陸中を捜索したが、彼を捕らえることはできなかった。
そして十年後。
真紅のデイモンメイル・ヴァルヴァラはロアン諸国連合軍の先鋒としてエルミナへ帰還したのである。




