仮説
静かな口調に情熱のたぎりを込めて、ナジールは語った。
「素体の制御がどうなっているのか、わからない部分は多い。だけど神堕ろしの道具にわざわざヒト喰いの特性を与えるのはおかしいじゃないか。魂がないんだから本来なら自由に設定できたはずだ」
「うーん……単に本能的な捕食行動じゃないのか?」
「デイモンメイルは魔力で動くんだぞ。魔力なら境界炉から使い切れないほど汲み出せるし、肉を喰っても魔力は得られない」
確かに捕食としては成立しなさそうだ。
そもそもデイモンメイルがヒトを喰ってもたいして腹の足しにはならないだろう。
「俺が思うに触手がヒトを襲うなんてデイモンメイルを作った古代人にも予想外だったのさ。つまり」
一旦言葉を切って、ナジールは断言した。
「デイモンメイルは失った魂を取り戻そうとしているんだ。ヒトを喰い、血肉を得ることで得た情報を再構成し、自我を形成する。どうだ、あり得ない話じゃないだろ?」
「――死から精霊が生じるって言うのか?」
「精霊とは『カタチのある現象』だ。戦場跡に現れる集合霊も、寄り集まってカタチを成そうとするじゃないか。大抵、集まる端から崩れて消滅しちまうけどな。だがデイモンメイルという器があれば、効率良く蓄積を繰り返し、やがて確立した存在となれる」
途方もない仮説ではあるが、一定の説得力もあった。
神堕ろしの道具が新しい神を生む苗床になっているとすれば――とんでもない話だ。デイモンメイルがどれほど強力な神になるか、考えるまでもない。
神はヒトを求める。ヒトに祭られることで神は力を得るからだ。
もしこの仮説が正しければ、いずれデイモンメイルから生じた神の前にロアン大陸は屈服し、また神がヒトを支配する時代が来るのかも知れなかった。
「証拠は? まさか、ヴァルヴァラが……?」
「実は――ない。綺麗さっぱり、なにもな。全部俺の想像だよ」
ナジールは子供のように相好を崩した。
がっくりと力が抜ける。くそ、やられた。
「おい、なんだよ……冗談だったのか?」
「まぁそういう可能性もあるってことさ。どうだ、これはこれで楽しそうだろ? 魔導院の連中、ガードが固くてなかなか見せてくれないが、あそこには面白い資料が沢山あるしな。それに、メイルライダーを辞める理由は他にもあるんだ」
「ちぇっ。また法螺話なら聞かないぞ」
「いや、真剣な話だ。その、驚くとは思うんだが……しかし、やはり先にお前の承諾を貰っておきたいからな」
珍しく彼は口篭る。僕は先を促した。
「なんだ、はっきり言えよ」
「――フィアナと結婚したいんだ」
彼が「実は俺は女だったんだ」と告白したとしても、これほど驚きはしなかっただろう。僕はぽかんと口を開いた間抜け面をさらしつつ、ナジールをまじまじと見つめた。フィアナと言えば、僕の知る限りでは一人だけだ。
そう、僕の妹のフィアナ。チビでガリガリの。
まさか――いや、わざわざ確認するまでもないじゃないか。ナジールが僕から事前に承諾を得たい相手で、フィアナと言えばあのフィアナ以外どんなフィアナが――えい、くそっ。僕はすっかり混乱してしまったようだ。
確かに二人は仲が良かった。
だけど僕等三人は子供の頃からずっと仲が良かったのであって、つまりは身内ってことだ。ナジールとフィアナがお互いを異性として意識していたなんて、僕は想像もしていなかったのだ。
「実は、一昨年の春からつき合っているんだ」
「……」混乱はますます深まった。
「きっかけは春到祭の休暇の時さ。きっと断られるだろうと思っていたんだが、気持ちを打ち明けたら彼女は受け入れてくれた」
「そりゃ……ちょっと待ってくれ。一昨年だって?」
ようやく思考が巡り出した。メイルライダーの休暇は短いから、二人の逢瀬は付き合っている期間と比して少ないはずだが、それにしても一昨年とは。もしかしたら、僕は本当に間抜けなのかもしれない。
「もちろん、誓って不埒な真似はしていないぞ! 彼女を汚したくないし、黙ったままじゃお前にも悪いから」
少し慌てたように言うナジール。端正な顔に薄っすらと赤みが差しているのは、アルコールの影響ではあるまい。
「おい、本当かよ――信じられない。二年間も気付かなかったなんて……」
「フィアナから内緒にするように頼まれたんだよ。彼女、治療法術士の修行をしているだろう? お前には資格を取って一人前になってから伝えたい、って言われてな」
それはフィアナの言いそうなことではあった。彼女は変に意地っ張りなところがある。
僕は混乱したまま、踏み込んだ質問をした。どうしても聞かなければならなかったのだ。
「ナジール。結婚、って言ったよな。旦那様はなんと言っているんだ?」
「まだ話してないが、反対されるだろうな。だからあの館から出て、家督も放棄する。大した領地があるわけじゃなし、別に惜しくもないさ」
当然だろう。曲がりなりにも貴族であるロドネイ家の跡取りが移民の子――それも救貧院出の、両親すらわからない娘を妻に娶るなど許されるわけがない。
僕とフィアナはバスク姓を名乗ってはいるが、これはナジールの父親が手配してくれたものなのだ。本物のバスク家はとうに途絶えた家系で、当然彼等は黒い髪に茶色の瞳ではない。
本気かどうかを聞く必要はなかった。
幾ら鈍い僕でも、もう気付いている。一見普段通りだけど、ナジールは不安と恍惚に揺れていた。いつも自信に満ちて冷静沈着だった、あのナジール・ロドネイが。
彼は本気だ。
心からフィアナを愛しており、本当に結婚するつもりなのだった。
「お前にはすまないと思っている。俺達だけじゃなく、お前もあの小屋から追い出されることになるだろうな」
「……そんなことはいいよ。どうせこの数年、休暇の時に帰るだけだったし」
あの小屋。ロドネイ家の敷地内に立つ、庭師の小屋。僕とフィアナとルーミィが暮らした家。故郷と呼べるものがあるとしたら、僕にとってはあそこだけだ。
だけどそれはいい。そんなことはいいのだ。
「聖堂入りを辞退する本当の理由はそれか。フィアナと一緒になるために……?」
「ああ。こう言ってはなんだが、ヴァルヴァラの件は渡りに船だった。無理に辞退すれば牢獄行き、下手すりゃ死罪だったろうから」苦笑いするナジール。
確かにそうだ。いや恐らく今でも枢密院への侮辱、帝国への義務の放棄であるとして、ナジールの処分を唱える者もいるだろう。そういう人間は、メイルライダーがどのような人種かまるでわかっていないのだ。
「本音を言えば両方手にしたかった。だけど、それは無理だろ? それなら俺は……」
苦悩の末、彼はデイモンメイルよりフィアナを選んだ。
ナジールの選択。彼と同じ選択を僕ができるかはわからない。だが、そこにたどり着くまでにどれほどの葛藤があったのかは、手に取るように理解できた。
ならばその選択を支持してやるべきだ。
僕は彼の友達なのだから。
ナジールの背を叩くと、僕はできるだけ下世話に笑ってやった。
「あいつは世間にはしおらしく見せているけど、家の中じゃ、暴君だよ。デイモンメイルよりよほど手ごわいぜ、きっと」
ナジールは笑い返した。
「わかっているさ。長い付き合いだし、一応恋人になってからだって二年もたっているんだ。あの娘はこう――なにか内に秘めた強さがあるよな。上手く言えんが」真剣な顔になって、「この休暇中に正式に結婚を申し込むつもりなんだ。婚約だけでもと思ってさ」とナジールは打ち明けた。
僕はおおげさに首を振った。
「君が僕の弟になるのか? ぞっとしないね」
「そりゃ、お互い様だ」
僕等は笑い合った。
今でも僕等は兄弟みたいなものだった。兄はナジールの方で僕は弟役だったが、入れ替わるのもいいかもしれない。
店主に新しい樽を開けさせ、店の客全員に一杯振舞った。祝杯は大勢であげる方が良い。僕等もさらにジョッキを干していった。
「ったく、他人の人生で楽しみやがって。レイ、次はお前の番だぞ」
「んー、僕? 僕がどうしたって?」
僕は問い返した。我ながら少々呂律が怪しい。
ナジールは呆れ顔で指摘した。
「馬鹿、わからないのか? 俺が辞退したんだぞ。次は誰が選抜対象になると思う?」
「……あ」
僕はやっと合点した。僕の技量がナジールに次ぐものであることは、自他共に認めるところだ。ならば彼の代わりに聖堂入りの候補として選ばれてもおかしくはない。
だが、本当にそんなことがあり得るのだろうか。
聖堂入りするメイルライダーの選抜は定期的に行なわれるわけではない。選抜者が辞退したらといって、次点の者が代わりに選ばれるとは限らないのだ。事実、ここ数十年は適格者が現れていない。
「元々俺とお前のどっちを選抜するかで、枢密院と軍統括本部でもめたらしいからな。休暇が終わり次第、打診がくるぜ、きっと」
彼は間違っていた――帝国枢密院はそれほど気が長くない。
僕等がロドネイ家に戻った翌日。後を追うように、帝都からの書状が届いた。




