記憶
開いて頂きまして、ありがとうございます!
本作は私にとって七作目の連載小説となります。少しでも気に入って頂けたようならブクマ&ご評価をよろしくお願いします~。
とても長い時間、生暖かい羊水の中を僕は漂っていた。
上も下も右も左も前も後ろもない。
一つの悩みもなく、僅かな進歩もない。
停滞した平穏が世界を満たし、僕はただ緩やかな対流に身を任せていた。
だが、幸福とは往々にして長続きしないものだ。
ある日、僕は予告抜きで水中から吊り上げられ、冷えた石畳の上に放り出されてしまった。どれだけ混乱したか、ちょっと想像して欲しい。寝覚めとしては、多分最悪から数えて三番目くらいには入るだろう。
「――っ!」
喉がえづき、僕は盛大に薬液を吐き出した。ひどく苦しい上に無作法な振る舞いだったが、構ってはいられない。肺に満たされた薬液がすっかりなくなるまで、呼吸することもままならないのだ。マナーに気を回す余裕なぞありはしない。
おまけにこの味! 濁った緑色の液は妙な酸味があり、口中にまとわりつく。思わず余計なモノまで吐き出してしまいそうだが、実際にはその心配はない。薬液に漬かる前の数日間、断食行をしたお陰で、僕の胃袋はとっくにからっぽだった。
そう――断食行をした――と思う。
よく覚えてないが、かなり厳しい儀式だった。
そんなにまでして僕は眠りたかったのだろうか? 確かに深くは眠れたけれど。
ようやく大気から酸素を取り込める状態になった時、僕は自分がガウンを羽織っていることに気付いた。床に跪いて僕の髪を乱暴に拭い始めた誰か――視界がぼやけてよくわからないが、多分中年の女性――が持ってきてくれたのだろう。
なにか話しかけようと思ったが、どうにも頭が回らない。言葉を探している間に彼女はまだ滴る髪を放置して、さっさと立ち去ってしまった。どうせならもう少しちゃんと拭いて欲しいものだが。
まぁ、そんなことはどうでもいい――はずだ。
全身が脱力していて、動く気になれない。床に尻を落としたまま、のろのろと周囲を見渡す。視力は回復しきっていなかったが、辺りには他にも大勢の人間がいるようだ。いささか気色の悪い水音や悪態をつく声。どうやら苦しい思いをしたのは僕だけではないらしい。そう思うと、幾らか気分が良くなった。
さて――ここは――どこだ?
いや、そもそも僕は――誰だ?
なにも思い浮かばない……って、そんな馬鹿な。
懸命に記憶を探るが、頭の中には霧がかかったままだ。まいったな。哲学的な意味ならともかく、自分は誰か? なんて疑問にはそうそうぶち当たるものじゃない。
当惑を断ち切ったのは、せかせかした調子の足音だった。
「こっちも無事蘇生したか。なかなかの成功率だ。君、大丈夫かね?」
僕は瞼を瞬かせ、話しかけてきた男の顔を見定めようとした。
やっと目が外界に慣れてきたのか、徐々に焦点が合ってくる。似合わない軍服を着たこの冴えない中年男は――誰だ? どうやら軍統括本部付き技官のようだが。
ところで〝軍統括本部付き技官〟ってなんだっけ?
「混乱しているね。なに、記憶はすぐに戻るよ。一応検査は必要だが、君の場合、欠損率は僅かなはずだ。まぁ、知覚連結の仕方とか大事なことさえ覚えていればいい。だから問題ないよ、うん。忘れたことなんて忘れてしまえ、なんてね」
なんか、気楽な調子で聞き捨てならないことを言ってないか、このおっさん。最後の部分は冗談を言っているつもりらしいが、それが面白いと思うなら検査が必要なのはそっちの方だぞ、おい。
――と、言い返してやりたかったが、やはり言葉が出ない。手足には徐々に力が戻ってきており、もう少し待てば立ち上がれそうだ。こいつの胸倉を掴み上げるのはその後ってことになる。
「ああ、無理に喋らなくていい。君が一番短いとは言え、十年も眠っていたんだからね。うん、まだ無理だ。とにかく目は覚めた。それが肝心なところだ。そうじゃないかね?」
男は鷹揚に手を振ったが、こっちには情況がさっぱり掴めていないのだ。そう聞かれたってわかるもんか。だが、よく見るとこのおっさんは僕より階級が上らしい。ふてくされて無視するわけにもいかないのが、宮仕えのつらいところだ。
待てよ、階級だって?
……ああ、そうだった。僕は一応、軍人なのだ。
「よろしい、よろしい。お待ちかねの時が来たのだからね。存分に楽しむといいさ」
「……お待ちかね?」
技官は嬉しそうに掌をこすり合わせた。
「決まっているじゃないか、君。戦争の時間だよ!」




