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翡翠は苦笑して答える。
「殿下、部屋はすぐそこです。そこまでしていただくわけにはいきません。では、またあとで」
そう言うと、カーレルの手を離そうとした。が、カーレルは翡翠を離さなかった。
「殿下?」
「翡翠、私はもう二度とこの手を離さないと決めたんだ」
真剣な眼差しで見つめられ、翡翠は一瞬たじろんだ。絶対に逃がさないという強い意思を感じたからだ。
これ以上断れば、要らぬ誤解を招くだろう。翡翠は気を取り直すと微笑んだ。
「ありがとうございます。あの、そこまで仰るならよろしくお願いいたします」
そう答えて手を握り返した。
部屋に戻ると、先ほどのカーレルの反応からかなりこちらを警戒しているのだと考えた。
一昨日からカーレルが翡翠に対しての態度を変えたのも、それが原因だろう。そう答えがでると、酷く落ち込んだがいつまでもそうしているわけにはいかなかった。
なぜなら、次に行くティヴァサ国を訪問すれば、その先は最後の『スタビライズ』を残すのみとなるからだ。
なんとしてでもその前に力をとりもどさなければ、その手前でとらえられ尋問されるかもしれない。そうなれば、目的を果たすことができなくなる。
とにかく、『ジェイド』のある場所を怪しまれずに見つけ出し、最後の『スタビライズ』へ行く前にそこに行くよう誘導しようと考えた。
このあと出発は午後と言っていたが、急遽正午を回る前に出発となった。
翡翠もエミリアたちもあらかじめすぐに出発できるように準備しているので、慌てることはなかった。
だが、先日から朝早く出発かと思えば次の日はゆっくりしようと言われたり、突然出発すると言ったり、なにかあるのだろうかと不思議に思いながら馬車に乗り込んだ。
先ほど、カーレルがなんとなく翡翠を疑っているような素振りをみせたので、翡翠は馬車の中でなるべく普段通りに過ごした。
そんな中、カーレルは相変わらず翡翠をとても気づかう素振りを見せた。
翡翠はカーレルに優しくされればされるほど、なんとも言えない気持ちになっていった。
ティヴァサ国の国境までは六時間、休むことなく馬を走らせれば着く距離であった。
だが、流石に魔具を装備させ治癒魔法をかけていると言えど、途中で馬を休ませなければならないため、国境より少し手前にあるクルという村に泊まることになった。
なんだかんだで、そのクルに到着したのは夜遅くになってからだった。
もしかしたら夜半になるかもしれないと思っていた翡翠は、少し安心した。
村にあるニクラスの屋敷では宿泊の準備がすでに整っており、すぐに部屋に入ることができた。
明日は朝が早いとのことで、軽く夕食をすませるとすぐにベッドにもぐった。
だが、カーレルのことや『ジェイド』のことを考えてしまい、翡翠はなかなか眠ることができずやっと寝付くことができたのは夜中の三時を過ぎたころだった。
うつらうつらし始めたところで、外が騒がしいことに気づく。時計を見るとまだ四時前だった。
何事だろう?
廊下の音に耳をそばだてていると、カーレルたちの話す声が聞こえた。
「なぜだ? 国内のことはしっかり対応していると言っていたではないか」
「もちろんそうだ。私がどれだけ下準備してきたと思っている」
「おいおい、言い争ってる暇はなさそうだぞ? 早いところ屋敷を出たほうがいいんじゃないか?」
なにかあったのだろう。
とにかくここを出ることになりそうだと思った翡翠は、素早く着替えて外套を手に取った。
そこでドアがノックされ、翡翠はドアを開けた。
「翡翠、無事か?!」
そこにはカーレルが立っていた。
「大丈夫です。それよりなにかあったのですか?」
「少し問題が発生した。すぐにここを立つ必要がある」
「わかりました」
ヘルヴィーゼ国は小国であるが元軍事国家であり、洗練された部隊を持っているはずだ。
それなのにこんなに慌てるとは、余程のことがあったのだろうと思いながら翡翠は部屋をあとにした。
空はやっと白み始めたころで、動き出した馬車の中から朝焼けの中輝く美しい星を見つめた。
ほとんど寝ていなかったせいで、翡翠は馬車の中でうたた寝をした。目が覚めると、カーレルに抱きかかえられており、そっと見上げるとカーレルも目を閉じて馬車の壁に頭をもたれていた。
カーレルの長い睫毛が日の光に照らされて、その整った顔と相まって美しく見えた。
その美しい顔を見つめながら翡翠は考える。
このまま翡翠が目的を果たせば、また裏切り者とそしられるかもしれない。その状態でこの世界にとどまるのはあまりにもつらすぎる。
もし、信じてもらえなかったとき翡翠はもとの世界へ戻ると決意した。
今この瞬間を目に焼き付けよう。
翡翠はカーレルを見つめながらそう思った。
そうして過ごすうちに、馬車は国境の近くへたどり着く。翡翠は窓の外を眺め、検問所へ近づくにつれ警備が厳重になってゆくのに内心驚いていた。
昔はサイデューム国との検問所のほうがもっと厳重だったはずが、今はそれよりも厳重になっている。
「殿下、一つお訊きしてもよろしいでしょうか」
「なにかな?」
「ヘルヴィーゼ国とティヴァサ国の関係は今、緊張状態にあるのでしょうか?」
すると、カーレルはどう答えてよいものか少し考えている様子になり、しばらくしてから口を開いた。
「いや、そんなことはないが今はわけありでね。やむを得ずと言ったところだ」
「そうなのですね、ほっとしました」
「さて、ここで検問を終えればティヴァサ国へ入国だ」
そう呟くと、カーレルは厳しい顔をした。先ほどティヴァサ国とは緊張状態にないと話していたところだったので翡翠は不思議に思う。
そして一つ考えられる理由に思い当たる。
この国はスペランツァ教の聖地がある場所で、ミリナが現在聖女として崇められているのもこの国だ。
カーレルはミリナにどう接すればいいのか悩んでいたので、会うのに少し緊張しているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、一つ重要なことを思い出した。
「あのカーレル殿下。ティヴァサ国は確か宗教国家でしたよね?」
「そうだが?」
「『スタビライズ』を停止したジェイドの生まれ変わりが入国したと知られれば、大変なことになるのではないでしょうか?」
するとカーレルは優しく微笑み、翡翠の頭をなでた。
「君はそんな心配をする必要はない。大丈夫だから、私を信じてほしい」
それが本当ならどんなにいいか。
翡翠はそう思いながら微笑んで返すとうなずいた。
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