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第六話 カウントダウン/カウントアップ

「つまり、セージくんが頑張りすぎたのがいけないってこと?」


 コタツの上に置かれた、真紅の宝石――魔素(マナ)が充填された魔石――を視界の端に収めながら、有朱が身も蓋もない結論を口にした。


 ミューラが地球へ来た当初は、魔素(マナ)を使い果たして透明になっていた魔石。


 しかし、今はペンダントにはめ込まれた魔石は、ほぼ赤く染まっている。


 それはつまり、ミューラが元の世界へと帰還する準備が整っていることを意味していた。なぜか魔石の隣に大きめの鏡が用意されていたのだが、その事実の重さに、誰も疑問を呈さなかった。


 当初は、一年弱ほどかかるのではないかと思われていた魔素(マナ)の充填。先ほど、ミューラの口から語られた、その期間が大幅に短縮した理由。


 それを簡単にまとめると、有朱が口にした通り、誠司の料理が美味しく、かつ勤勉だったということになる。


 最初の告白から一週間が経過し、誠司は、それを――自分の認識では――冷静に受け止めていた。そう、喜ばしいことなのだ。笑って送り出してやるべきだろう。いや、そうしなければならない。


「いや、当初の見積もりが甘かっただけだろう」


 そこに、コタツではなくソファに座る誠司からの抗議が入った。ただし、ソファに仰向けになって真っ白なお腹を晒しているコタロウを撫でながらなので、あまり威厳はない。

 それに気づいたのか、誠司は手を止めてから続きを話そうとする……が。異変に気づいて素早く立ち上がったコタロウが、鼻先で誠司の肘を突っついて抗議する。


 結局、それに負けた誠司は、再びコタロウのお腹を撫でることになった。仕方がないことだ。今日のミューラに、コタロウを近づけることはできないのだから。


 けれど、そんな正当化もミューラと有朱には通じない。


「あはは……」

「うふふ……」


 一回りも違う少女たちに、微笑ましいと笑顔を向けられる誠司。彼女たちとは対照的に、嫌いなキュウリを無理矢理食べさせられたような表情を浮かべてしまう。


 しかし、それも一瞬のこと。


 すぐに初期値(デフォルト)の無表情に戻り、続きを口にする。


「最初は一日一食の見積もりだっただなんて、初めて聞いたぞ」


 最初の見込み。その段階で間違っていたのではないかというのが、誠司の主張。


 誠司が初めてミューラに振る舞った角煮のデミグラスソースパスタ。これと同等の食事を一日一回摂れば、一年間で……という計算だったようなのだ。

 それが、最近は三食どころか、デザートが付いてくる日もある。


 一回の食事量も、当初とは違う。最初は常識的な量だったはずが、徐々に徐々に増え続けている。そう、増加量は、止まっていない。

 米の消費量など誠司一人だった頃の150%増だ。もちろん、誠司がたくさん食べるようになったという叙述トリックではない。


 こうした状況の変化も、盛り込まれていなかった。

 前提が異なっているのだから、結果も異なるのは当然。魔素(マナ)が貯まる量も増えていくのも、当たり前のことだった。


 加えて、常時必要な翻訳魔法や、外出時に時折使用する魔法以外、なるべく節約させていたのも拍車をかけている。恐らく、ミューラは当初、もっと魔法を使うものだと思っていたはずだ。


 だから、自分のせいなどではないと誠司は主張した。


「俺の落ち度は、途中から貯まり具合の報告を求めなかったことだな」


 当初は、より良い回復条件を求めて実験も繰り返していたが、一定の成果を得た時点で取りやめていた。ミューラで実験をしているようで、気が咎めたというのが理由としては一番大きい。

 それに、あまりしつこくすると、早く帰って欲しいと主張しているようで気が引けたというのもある。


 それに伴い、回復量の確認も行わなくなっていた。ミューラを信じて……というよりは、誠司としては専門家に任せた結果だ。

 有朱に存在が露見してからは、彼女の対応も必要になった。日々の家事労働に加えて、本業もある。さらに、読むべき本もいくらでもあった。


 端的に言えば、忙しすぎたのだ。


「いやー。でも、結局はセージくんがマメだったってことには変わんないでしょ」

「そうですね」


 有朱の、やはり身も蓋もない結論。ミューラは、控えめに。しかし、はっきりと肯定する。困ったように微笑み、サファイアのように輝く大きな瞳には曖昧な光が宿ってはいたが。


 今日のミューラは、なにかの決意の表れなのか。転移をしてきたときに着ていた青を基調としてスカートが大きく膨らんだドレス姿。

 ひとつ間違えば場違いな印象を与えかねないが、これが伝統の力なのか。見る者を圧倒し、違和感など抱かせない。


 どちらかというと、場違いなのはコタツのほうだった。


「特に、クリスマスから、お正月にかけての時期はフィーバーしていました」


 ミューラが白い繊手を頬に当て、まるで夢見る乙女のように、ほぅっと息を吐く。

 ドレスを身にまとった異世界の王女がそうすると、その幻想的な容姿と相まって、本当に現実離れしていた。その外見にふさわしい、甘く、カラフルで、ファンシーな夢でも見ているに違いない。


 実際、異世界から来た王女が回想しているのは、夢のような時間。


 クリスマス、ホットプレートで焼かれたステーキ。肉は軟らかく、脂は甘く、ソースと肉汁を吸ったご飯は悦楽。

 有朱と誠司が作ってくれたケーキも甘く、みんなとわいわいと食べること自体がごちそうだ。


 一方、お正月は理想郷だった。


 重箱に詰められた、きらびやかなお節料理。食べても食べても、しばらくすると誠司が詰め直してくれる。ミューラはそこに、無限を感じた。

 そして、頼めばいつでもお雑煮を作ってくれる。お餅! 食べずにはいられなかった。


 お正月が来て、ずっとお正月だったらいいのに。三日目には、なぜ終わってしまうのかと。時間を巻き戻してしまおうかと真剣に悩んだものだった。


「……なんだか、俺がいけないことをしたみたいだな」

「いけないわけではないですよ。こう、セージさんがわたしへの愛を注ぎすぎだというだけですから。その気持ちは尊いものです」

「花に水をあげ過ぎたら、根っこが腐るっていうもんね」


 年下の少女たちに言われ放題に言われ、誠司は自らの行いを省みる。


 そんなに言われるほど、ミューラに甘く接しては……。


 ……まあ、過去を振り返っても現在が変わるわけではない。


「あー。アタシも一度腐らせてみたいなー。腐らせて欲しいなー」


 意味ありげに、有朱がヘイゼルの瞳で誠司を見つめる――だけでなく、座ったまま誠司の膝にしなだれかかった。上目遣いでじっと見つめる仕草は、そのつもりがなくとも、無意識に手を伸ばしてしまいそうだ。 


 だが、物事には例外というものがある。その程度で動じる誠司ではなかった。


「コタロウがそうならないように、気をつけよう」

「それ、もう手遅れ……じゃない?」

「ですよね。相当甘いですもんね」


 コタロウに甘いのは自分だけじゃないだろうと誠司は思うが、自覚があるのだろう。反論はしない。それに、どこか誇らしげでもあった。


「まあ、仕方ないわね。アタシは、どちらかというとセージくんを腐らせるタイプだし」

「初めて聞いたぞ」


 誠司の膝から離れた有朱が、どことなく暗い決意をたたえて人生の目標を口にする。


「アタシ、この業界で成功したら、セージくんに専業主夫になってもらうんだ……」

「ああ、アリスちゃんずるいです!」


 与り知らぬところで将来が決められてしまいそうな恐怖。


 それを感じているわけではないが、喜ばしい話の流れではない。誠司は、わざとらしい咳払いをすると、話を本筋に戻す。


「それで、今日の話は、いつミューラが帰るかという相談でいいんだよな?」

「ええー? ずっといればいいじゃん」


 そんなわけにはいかないだろうと、誠司は首を横に振る。


 それが、当たり前の判断。有朱なら許されるが、大人である誠司は冗談でも口にしてはならない言葉。その気持ちに、一点の曇りもない。


 そのはずだった。


 なのに、少し。ほんの少しだけ、ミューラとの別れを残念に思う自分がいる。あり得ない感情に戸惑い、誠司はコタロウを撫でる手を止めてしまった。


(いや、そうか……)


 また、昼間コタロウが一人きりになってしまう。それが残念なのだ。そうに違いないと、誠司はコタロウを膝の上に乗せた。


「そこで、この鏡です!」


 そんな誠司の葛藤など知らず、ミューラは魔石の側に置いていた鏡を立てかけた。


「いや、全然分かんないんだけど?」

「焦らないでください、アリスちゃん」


 ふふふと含み笑いをしながら、人差し指を振るミューラ。どういうわけか、ミューラの屈託は――一時的にせよ――解消されているようだった。


「いくらこのミューラ・シルヴァラッドが天才導器魔導師とはいえ、ぶっつけ本番で帰れるとは思っていません」

「え? 天才って設定初耳なんだけど?」

「設定じゃないですよぅ」


 よりによって、なんでそこをツッコムんですかぁと、ミューラが頬を膨らませた。


「はいはい。じゃあ、ミューラは天才ね」

「投げやり!?」


 しかし、そこに拘っていては話が進まない。


「天才かどうかは、これから判断すればいいことだろ?」

「あ、その鏡で魔法を使うの?」


 誠司の言葉に、合点がいったと手を叩く有朱。包丁で怪我をしないよう防御力を上げる呪文を使ったところしか見たことがなかったため、俄然前のめりになった。


「はい。実は少し前から開発していたのですが、テレビ電話を魔法にしてみました」

「はーへー」

「いきなり移動するのではなく、異世界と鏡を通じてコミュニケーションを取るわけか」


 鏡とドレスはそのためかと、誠司は納得する。


 クラークの第三法則ではないが、科学技術が魔法に影響を与えるというのは面白い現象だ。それに、あっさり魔法を作ってしまうミューラにも驚かされる。


 日本語の習得も進んでいたし、天才と自称するだけのことはあるのだ。


 まったく、そうは見えないのだが。

 

「正直、向こうでわたしがどういう扱いになっているか分からないというのもありますし。最悪、居場所がなくなっている可能性もありますからね! そうなったら、セージさんとアリスちゃんに一生養ってもらうしかありません」


 向こうではミューラも微妙な立場だったようだ。

 シリアスな申告に、最後の冗談めかした言葉を咎める気にはなれなかった。


 そんな誠司を、有朱が「甘い」と、たしなめる。


「だまされちゃだめよ、セージくん。ミューラは、こうやって既成事実を作るつもりなんだから」

「そんなことはないですよぅ」


 ひどいですと、ミューラが泣き崩れる。もちろん、本当に涙は出ていないが、ドレス姿でやられると、罪悪感がすさまじい。

 だが、有朱には通用しなかった。さすがは女優というべきか。目を細めて、悲嘆にくれるミューラを射抜く。


「ほんとに?」

「……ちょっぴり、そうなったらいいなぁと思わないでもありませんでしたが。あ、でも、コタロウちゃんは共感してくれるはずですよ!」


 名前を呼ばれたコタロウが、大きく口を開いてあくびをする。巻き込むなと思っている……ことはないだろうが、タイミングが良すぎてミューラは梯子を外された気分になる。


「それでは、魔法を使わせてもらいます……」


 不利だと悟ったミューラが、居住まいを正し宣言する。

 邪魔にならないよう誠司と有朱も黙って、それを見つめた。


 目を閉じ、集中力を高めていくミューラ。


 指輪をつけた右手を振り上げ、舞うように動かしていくと、指輪に光が灯る。幻想的な光景に有朱が息を飲むが、誠司はコタツの上の魔石を見ていた。


 その色が薄くなり、目盛りが減るかのように赤い部分が透明に変わる。


 そして、魔法が完成した。 


「《ミラー・トゥ・ミラー》」


 縦30センチほどの鏡。

 ミューラが呪文名を唱えると同時に、その表面に靄がかかった。


「へええ、魔法っぽい!」

「正真正銘、魔法ですよぅ」


 ミューラは抗議をしたが、それが聞き入れられることはなかった。そもそも、有朱は鏡から目を離さず、ミューラのことを見ていない。


「おおっ、なんか写ったわよ」


 寝室だろうか、天蓋付きのベッドが鏡の端に写っている。正面には、百科事典と見紛うばかりの立派な本が並んだ書棚や書き物机も見える。


「すごい。お姫様ベッドじゃない」

「こう見えて、お姫様ですから。お姫様ですから」


 盛り上がる有朱に気を良くして、ミューラが大きく――あるいは大きな――胸を張る。


「いいなー。さすが、お姫様は寝室も広いのね」

「寝室ではなく、ただの作業部屋ですよ」

「……だって、ベッドがあるじゃない」

「仮眠用です」

「あれで……」

「はい。他に、ちゃんとした寝室と、お茶の為の部屋もありますよ」


 妾腹の第三王女と卑下していたが、それでも王族には違いない。このマンションなど、あの部屋と広さもそう変わらないようだ。よくこんな家で過ごせたものだと、誠司は罪悪感に駆られると同時に感心してしまう。


「王女様に掃除や洗濯をさせて悪かったな」

「いえいえ、離宮での生活は、なんか持て余し気味でしたし……って、リッリが入ってきましたよ。時間通り!」


 ミューラが喝采をあげて指さした先には、お仕着せのメイド服を身につけた黒髪の女性がいた。


「リッリ、リッリ。元気でしたか?」


 声をかけられると、黒髪を肩口あたりで切りそろえた、女性が驚きの表情を浮かべてこちら――恐らく、鏡――を凝視する。

 つり目がちで、ややきつい顔立ちだが、間違いなく美人に分類されるだろう。キャリアウーマンと表現したくなる雰囲気。


 魔法は成功だったようだ。


 恐らく、向こうも同じようにこちらの光景が見えていることだろう。


「リッリ。久しぶりですね、元気でしたか?」


 リッリ……。確か、姉妹同然に育った侍女だったか。

 そんな相手にも――いや、だからこそか――威厳のある態度を取るミューラに、誠司は感心した。疑っていたわけではないが、やはり、王女だったのだなとうなずく。


「姫様!? なにをやってらっしゃったんですか!? そこは、どこなんです!?」

「え? ご、ごめんなさい!?」


 さっと首をすくめ、ミューラは自己防衛に走る。とりあえず謝らなければと、反射ではなく本能で返答していた。

 姉妹同然……つまり、姉代わりの相手には逆らえないということらしい。


 ミューラはあたふたとしながら、かいつまんで事情を説明する。

 

「実は転移魔法で異世界に飛んでしまって。セージさんに保護してもらったんですが、そこには魔素(マナ)がなかったので帰ることもできず」

「セージさん……? って、いえ、それどころではないんですよ!」


 冷静さの仮面をかなぐり捨てて、鏡の向こうの女性――リッリが訴えかける。


「奥様が、怪我をされて――」

「――お母様が!?」


 その衝撃的な事実を聞き、さっと顔色が変わった。


「だ、だだだだ大丈夫なんですか!?」

「命に別状はありませんが……」


 しきりに、姫様に会いたがっておられます。


 ミューラのメイドは、そう付け加えた。


「あの、殺しても死にそうにない豪快なお母様が……」

「姫様。それでこちらには――」

「あっ」


 唐突に、映像と音声が途切れた。魔法の持続時間が切れたらしいと気づいたのは、鏡が本来の役割を取り戻してから。


 そこに映るミューラの顔色は病的なまでに白く、唇も色つやを失い震えていた。辛うじて笑顔を浮かべてはいたが、涙をこらえているようにしか見えない。


 帰ろうにも、今、魔素(マナ)を使ったばかり。補充するまで、一週間はかかるだろう。


 その間、なにもできないのだ。


「ミューラ」


 なにか言わないといけない。でも、なにを言っていいか分からない。

 だから、有朱はぎゅっとミューラの手を握った。少しでも勇気づけられるように。ミューラは一人ではないと伝えるために。


 一方、誠司は動かない。そのままミューラを見つめ、ゆっくりといつも通りに口を開く。


「ミューラ、なにが食べたい?」


 誠司らしい、前置きを省いた合理的な問いかけ。


 早く帰るには、食事をして魔素(マナ)を貯めるしかない。なら、できることをやるべきで、どうせなら食べたいものを食べたほうがいい。

 だから、リクエストに応える。


「セージさん……」


 そんな誠司の不器用な気遣いに、ミューラは思わず笑ってしまった。


 笑うと、不思議と元気と食欲が湧いてくる。


 たとえ空元気でも、元気には違いない。


「ええと……。そういうことなら、お願いがあります」

「ああ。遠慮はいらない」

「わたしの故郷には、グルザイという……名前を言っても分からないと思いますけど、甘くて赤くて具だくさんのスープがありまして……」


 ためらいがちではあるが、ミューラは、はっきりとリクエストした。


「お母様の得意料理だったんです。というか、それしか作れなかったんですけど……」

「なるほど。同じかどうかは分からないけど、やってみよう」

「え? セージくん、作れるの? そもそも、なんの料理か分かったの?」


 赤いスープと言われて、有朱が思い浮かんだのはミネストローネ。しかし、トマトベースのスープが甘いはずがない。それに、スープなのに甘いというのが謎だ。


「分かったかどうかは、なんとも言えない。ただ、正解だったら、兄貴もたまには役に立つな……と少しだけ感謝してもいいな」

「え? なんで、そこでそーいちおじさんが?」

「ああ。作ったのは兄貴だけど、レシピは調べればなんとかなるだろう。ミューラの思い出の料理に、どれだけ近づけられるかは、分からないけどな」


 誠司の表情は、いつも通りなにも変わらない。


 ただ、いつもよりも口数が多く、声にも力がこもっているようだった。






「こいつが、色と甘さの素だな」


 いつもより時間をかけて買い物から戻った誠司が、無骨な缶詰を調理台に乗せた。


「スライスビーツ? 英語ばっかり。輸入品?」

「ああ。日本じゃあんまり馴染みがない野菜だからな」


 エプロンを身につけ、助手としてキッチンに入った有朱の質問に誠司が答える。


「一駅先の三倍ぐらいするスーパーで買ってきた」


 そうして手に入れたのは、甜菜(ビーツ)の缶詰。

 砂糖大根とも呼ばれる野菜だ。ただし、ボルシチに使われる甜菜(ビーツ)は、そこまで甘いものではない。


「ああ、そうです。名前は違いますけど、甘いやつです!」


 どうやら、正解だったようだ。

 兄の宗一郎に感謝してもいいようなきがしないでもない誠司。

 

「こっちでは、こいつを使ったスープをボルシチという」

「ああ、ボルシチってそうなんだ。へー」


 聞いたことはあるが、実物は知らなかったのだろう。有朱が不思議そうに、甜菜(ビート)の缶詰を見つめた。


 ボルシチはロシア料理だと思われているが、起源は古代ローマまで遡ることができる。兵士であると同時に農業にも従事する彼らにとって、糖分による疲労回復効果は重要だったのだろう。

 

「なるほど。それで、お母様が作り方を知っていたんですね」

「もしかして、ミューラのママって重力を操ったりする高貴なる女騎士だったり?」

「高貴ではないですけど、騎士ではあったそうですよ」 


 想像でしかないのでなにも言わないが、それは苦労したのではないかと、缶詰を開きながら誠司は思う。

 部外者が言ってもなんの意味もないので口にはしないが。


 代わりに、スライスされている甜菜(ビーツ)を取り出し、半分に切った。それを菜箸でつまんで、ミューラと有朱に味見をさせる。

 なぜか驚き、少し顔を赤らめた二人だったが、試食を拒否することはなかった。


「ああ、これです。こんな感じの甘さです」

「う~ん。トウモロコシ風味の大根?」


 半分にして食べさせただけだが、ミューラはしっかりと味を感じられたようだ。


 ミューラにとっては懐かしい味。有朱にとっては未知の味。

 当然ながら反応も異なり、ミューラには好評だが、有朱は困惑が先に立っているようだ。


 まあ、これが正しい反応だろう。最初から、地球の食材に順応したミューラのほうが例外なのだ。


「問題なさそうだな。じゃあ、下ごしらえだな」

「任せて!」


 誠司と有朱がキッチンで二人並んで、材料を切っていく。ミューラは、コタロウを抱いて――ドレスはもう着替えている――対面式キッチンの向こうから、それを見守る。

 いつもの――とまではいかないが、慣れ親しんだフォーメーション。ミューラは、それが嬉しく、なぜか涙が出そうになるほど心に響いた。


 そんなミューラの心情には気付かず、誠司と有朱が慣れた手つきで肉や野菜を切り分けている。


 牛肉は、バラとモモを二種類。それぞれ、一口大に。

 タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツといった野菜類や缶詰から出した甜菜(ビーツ)を、肉に合わせたサイズにする。


「二人いると、楽でいいな」

「セージくん、知ってる? 結婚って、夫婦で力を合わせて生活するって制度なんだよ?」

「知ってはいるが、活用する予定はないな」

「えー? 結婚できる年齢が上がる前にしちゃおうよ! こう、税金とかいろいろお得なんでしょ?」

「損得で結婚する気はない」

「……セージくん」

「それで、ほだされちゃうんですか!? お手軽すぎません!?」


 そんな話ができるほど、二人とも動きに淀みはない。実に順調だった。それ以上に、ミューラが普段通りでほっとしたというのも大きいが。


 下ごしらえを終えると、まずラードを溶かした煮込み用の鍋で牛肉の表面に焼き色を付ける。

 ある程度火が入ったところで牛肉は取り出し、鍋にタマネギと香り付けのニンニクを入れて炒めていく。


「う~ん。なんだか、カレーを思い出しますねぇ」

「シチューに肉じゃがもそうだが、材料は似てるからなぁ」


 タマネギに色が付いたら、水1リットルと固形のコンソメ、ニンジン。それに、“三倍ぐらいするスーパー”で甜菜(ビーツ)の缶詰と一緒に買った月桂樹の葉やクローブを鍋に入れる。


 このまま弱火で待つこと30分ほど。


「この待ち時間を、魔法でどうにかできたらいいんですけど」

「無駄遣いでしょ、それ」


 そんな話をしている内に時間は過ぎ、誠司は合間に本を読むこともできなかった。


 ジャガイモ、キャベツ。そして肝心の甜菜(ビーツ)を鍋に加え、また煮込む――前に、誠司がミューラに問いかける。 


「ミューラ、ひとつ確認したいんだが」

「なんでしょう? わたしは、シルヴァラッド森林王国の結婚可能年齢に達していますよ?」

「その話題、ここで持ち出すんだー」

「真偽の確認ができない話題に興味はない。それよりも、ミューラが食べてたグルザイというスープには、トマトが入ってたか?」


 そもそも、向こうの世界にもトマトがあったのかという根本的な問題がある。


「分かりません!」


 しかし、ミューラの返答は清々しいまでに潔いものだった。


「でも、トマトに似たお野菜なら向こうにもありますよ?」

「なら、入れておくか」


 パスタ用のトマトピューレ、ケチャップ。それに、ワインビネガーも加えてさらに30分ほど煮込み、最後に、缶詰に残っていた甜菜(ビーツ)の煮汁を足して、塩こしょうで味を調える。


「良さそう……かな?」


 火を止め、味を確かめた誠司が珍しく自信なさげにつぶやいた。自分の舌では美味しいと感じられるが、ミューラの求める味とは限らない。それが迷いの原因だろう。


 誠司は、視線だけでミューラに味見を依頼する……が。なんと、首を横に振って拒否した。


「セージさんを信じていますから」

「そういうの重たいな」

「なんで、そういうことを言うんですかぁ」

「まったく、セージくんの扱いを分かってないんだから」


 正当な評価であるはずなのに、なぜかこちらが悪いことになっていた。解せない。


 だが、一回り近く年齢が離れた相手との会話に齟齬が発生するのは当然。なんとか、夕食の時間には間に合った。今は、それを喜ぶべきだろう。


 そう切り替えた誠司は、皿にできあがったばかりのボルシチを盛る。そこに、、自作するには時間が足りなかったので市販のサワークリームを乗せた。


 これで、完成だ。賽は投げられてしまった。ルビコンを渡る覚悟で、黒パンを持ってコタツへ移動する。


「さて、上手くできていればいいんだが」


 甜菜(ビーツ)によって深い赤紫色に染め上げられたスープには、ほろほろになった牛肉や、わずかに原形を留めている野菜が浮いている。

 その中でも異彩を放っているのは、やはりスープと同じ色の甜菜(ビーツ)だろう。それと、サワークリームの白さとのコントラストには異国情緒を感じてしまう。


「大丈夫です。見た目は、バッチリというか、お母様のグルザイよりも綺麗ですよ」


 どうやら、第一関門は突破できたらしい。


「それでは、いただきます!」

「いただきま~す」


 スプーンを手にし、ミューラと有朱がスープに挑みかかる。誠司もスプーンは手にしたものの、自分で味あうよりもミューラの反応が気になるようだ。じっと、その様子を観察する。


「……はぐ」


 まず、ミューラは甜菜(ビーツ)を口にした。


 甜菜(ビーツ)は、大根というよりはカブに近いかもしれない。確かに甘みがあり、趣のある味わいだ。

 続けて、黒パンを千切ってスープに浸して食べると、酸味のある黒パンとスープの甘さが混じり合って、組み合わせの妙を実感できる。


「はあぁ……」


 いつしか、有朱まで食事の手を止めミューラに視線を向けていた。わけが分からず、コタロウも真似をする。

 そんな三対の視線にも気付かず、ミューラは牛肉にスプーンを伸ばした。


 長い時間煮たせいで牛肉はスプーンで触れるだけでホロホロに崩れる。ジャガイモもすっかり小さくなっているが、ほくほくだ。

 野菜の旨味がぎゅっと濃縮されたスープは、ほっとする味わい。


 離宮では、もっと高級な洗練された料理も食べていた。しかし、思い出に残る料理といえばグルザイだった。


「わたしは……そうだったんですね……」


 ミューラは、真っ先にリクエストした理由を今になって自覚していた。


 サワークリームを混ぜながらスープをすすると、それがまたアクセントとなって甘みと旨み。それに、酸味が程良く入り交じって複雑な味わいを奏でる。多層的で、ふくよかな風味だ。


「ああ……。お母様よりも美味しいのに、なんだか懐かしくて……」


 母が作ってくれたグルザイは、これに比べたらただの煮込みだ。

 あくもろくに取っていなかったのだろうし、そもそも、肉も野菜も質が違う。地球の食べ物は、どれも異常なぐらい美味しいのだ。


 それを使って、誠司がミューラのために。想いをこめて作ってくれた。


 美味しかった。魔素(マナ)が回復していくのが実感できる。満たされていく。誠司の想いに包まれている。そんな安心感もある。


 そして、それ以上に、母のが懐かしくなった。あの雑で、それなのに優しくて暖かいグルザイを思い出してしまった。


 知らぬ間に、涙が一筋流れていた。


「セージさん、有朱ちゃん」


 その涙を拭うことなく、ミューラは厳かに口を開いた。


「わたし、帰ります」


 当たり前と言えば、当たり前の言葉。

 しかし、はっきりと宣言されると、また異なる意味合いを帯びる。誠司も有朱も、すぐには反応できず固まってしまった。ただ、コタロウだけが、よく分からないと首を傾げる。


「……そうか」


 もっと、気の利いた返しをするつもりだった。できるはずだった。

 それなのに、誠司が口にできたのは、そんな素っ気ない一言だけだった。





 夜。


 有朱は泊まりたがっていたが、学校があるため帰らせた。ミューラも名残惜しそうにしていたが、こればかりは仕方がない。


 夜。


 「おやすみ」と挨拶を交わし、それぞれの寝室に分かれたものの、誠司はまだ眠る気分にはなれなかった。


 そうなると、自然と積み重なった本の山へと意識が移動する。


 そういえば、ミューラが来た日にも、チャンドラーを読んだ。


「あの時は、『長いお別れ』だったか」


 フィリップ・マーロウとテリー・レノックスとの友情物語。「ギムレットには早すぎる」は、名言すぎて一人歩きしてしまっている。

 しかし、これは酒を品評する言葉ではない。臆病で控えめで、切ないほどに友情を確かめる言葉。


 こればかりは、実際に読んで感じるしかない。


 本の世界へ旅立っていた誠司は、我に返ると無意識にハードボイルド作品が積み重なった塔から、チャンドラー作品を引き抜いた。


 慣れているため、積み本の塔が崩れることはない。

 こうして取り出されたのは、『さらば愛しき女よ』だった。


 別に、ミューラを比定したわけではない。ちょっとありえない。


 それが分かっていてもなお、誠司は『さらば愛しき女よ』を手にベッドへと移動した。


 何度目か分からない再読だが、読む度に気分が高揚する。昼間のことが、一時的にせよ、遠くなっていく。


 レイモンド・チャンドラーが生み出した最高のハードボイルド探偵フィリップ・マーロウ。『さらば愛しき女よ』における依頼人は、大鹿マロイ。あるいは、へら鹿ムースマロイと呼ばれる男。


 ベルマという、彼の恋人を探すこと。それが、依頼の内容だ。


 ただ、依頼人であるマロイからして一筋縄ではいかない。身長は2メートル近く。体重は120キロ以上の巨漢。粗暴で、知恵が足らず、行動も無茶苦茶だ。

 なにしろ、出所した途端に、ベルマの居所が分からないからと酒場の店主を殺して、また警察に追われる身になるのだ。

 実際に、「なにも殺さなくても……」と、読者も引いてしまうぐらい、後先考えていない。


 そんなマロイだが、ベルマにはひたすら一途だ。愚かしいほどに。


 そして、愚直なのはマーロウも同じだ。


 ベルマ探しに直接的な暴力で妨害を受け、警察から追われるマロイをかばい。それでもなお、マーロウはベルマを探し続ける。


 それが、生き様(スタイル)だと言わんばかりに。


 ラストも、半ば予想できるとはいえ、衝撃的。


 しかし、本当に一途な愛だったのだろうか。真犯人の動機と合わせて考えれば、身勝手な愛としか誠司には思えなかった。


「いや……」


 だからこそ、それは一途なのかもしれない。


 元々、愛など幻想で一方通行なものに過ぎないのだから。


 ぱたりと文庫本を閉じて枕元に置くと、誠司はベッドに深く体を沈め天井を凝視した。


 そろそろ、寝るべきだ。理性がそう訴えかけているし、明日のことを思えばそうするのが利口だ。


 なおも感情は睡眠を拒否していたが、理性でそれをねじ伏せ――ようとしたところで、部屋の扉が乱暴に叩かれた。


「セージさん!」

「……ミューラ?」

「コタロウちゃんの様子が変なんです。なんだか、震えて……」


 言葉の意味が充分に浸透する前に、誠司は跳ね起きていた。本の谷間にできた細い道を大股に踏破し、コタロウが眠るリビングへと急ぐ。

 その後ろを、不安そうなミューラがついてくる。


「コタロウ」


 誠司の呼びかけに反応し、コタロウが起き上がろうとする……が、わずかに耳が動いただけ。


 誠司がコタロウに触れる。


 ミューラの言う通り、がたがたと震えていた。寒さで震えているわけではないようだ。明らかに様子がおかしい。苦しいのか、呼吸が荒く舌も口の外に出ている。


「コタロウ」

「コタロウちゃん」


 上から覆い被さる

 

 誠司の脳裏に、読んだばかりの『さらば、愛しき女よ』の一節が思い浮かぶ。


『「祈るんだ」と、私は大きな声でいった。「祈るほか、もう何もすることがない」』


 普段とは違う様子のコタロウ。深夜のこの時間では、どうすることもできない。無神論者の誠司ですら、祈らずにはいられなかった。


 祈りが届いたわけではないだろうが、誠司の肩に触れるものがあった。


 ミューラの手だ。


 彼女は、誠司が予想していたよりもずっと強い力で誠司を振り向かせる。そして、そのまま間髪入れずに、顔を近づけた。

 サファイアのような瞳が大写しになり、誠司はそこに自分自身を見つける。


 あり得ないほどに情けない顔をした自分を。


 そんな誠司に、ミューラはいつになく真剣な表情をして、ためらいなく口を開く。


「わたしなら、コタロウちゃんを治せる……はずです」


 今まで見たこともない真剣な表情で、ミューラはそう言った。

不穏なラストですが、次回最終話。

最後までお付き合いのほど、よろしくお願いします!

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