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みさきの親じゃなくなった日

 仕事を抜け出すのは簡単だった。あのロリコンに「みさきのことで用事がある」と言うだけで「よし分かった行ってこい」と快諾される。


 果たして俺は、市役所の前で黄昏ていた。

 相変わらず税金を無駄遣いしているとしか思えない噴水が、絶え間なく水を噴き上げている。冬くらいは止めろと思うが、この音を聞いていると心が落ち着いてくるから不思議である。半年前と違ってしっかり税金を払っている俺が、この噴水を不満に思わないのは、きっとそのせいだ。


 ついに、先送りにしてきた問題と向き合う時が来た。

 本来であれば、みさきを受け取ったその日に警察へ行くべきだった。そうしなかったのは、そうすればどうなるか分かっていたからだ。


 ……警察、か。

 実際、どうなるのだろうか。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 待ち人来たれり。相変わらず仕事帰りなのか、彼女はスーツを着ていた。


「悪いな、相当無理してるだろ」

「べつに、これくらい問題ありません」


 どこか得意気な表情で言う結衣。彼女には嫌われていると思っていたが……いや、俺じゃなくてみさきの為か? みさきが悲しめば間接的にゆいちゃんが悲しむからな。


「コホン、指示した持ち物はちゃんと持ってきていますか?」


 確か、母子手帳とか保険証とか、そういうものを持ってこいと言われていた。


「無いよ」

「……は?」

「持ってない」

「ふざけてるんですか?」


 気持ちは分かる。俺も逆の立場だったら、こいつと同じ反応をしたと思う。


 ……どうしようか、なんて、迷うことねぇよな。


「俺とみさきは――赤の他人だった」

「……は?」

「話すよ、全部」


 洗いざらい、という表現はこの場合適切なのだろうか。

 とにかく、俺はみさきとの関係を全て話した。


 ある日、古い知り合いから「あげる」とかいうふざけた言葉と共に渡されたこと。

 ほんの気まぐれで育てると決めたこと。


 我ながらみさきが不憫に思えた。

 自分の事しか考えていないクズに囲まれていて、心底哀れに思えた。


「……なるほど」


 話を聞いて、戸崎結衣は、


「では先ず母親と連絡を取りましょう。心当たりは有りますか?」


 しかし予想された厳しい言葉は一切無く、こんなことを言った。


「聞こえていましたか? みさきちゃんの母親に、心辺りは有りますか?」

「……いや、おまえ、他に言うことねぇのかよ」

「ありませんけど」

「何言ってんだよ。遠慮すんな、いつもみたいにキッツイこと言ってくれて構わない」

「とても失礼な言い方ですね。私がいつもキッツイことばかり言っているみたいじゃないですか」


 そうだよ。


「……まったく、貴方が言ったことじゃないですか。悪気が無い、その――を、責めたりしないですよ」

「何を責めないって?」

「とにかく! 早速警察に連絡しましょう。それから事情を説明して、母親関連の問題を解決します」

「解決って……」


 それって、みさきが元の家族のところに戻るって意味か?


「最終目標は、みさきちゃんの親権を勝ち取ることです。いいですか?」

「……」

「聞こえていますかっ?」


 みっともなく動揺している俺に向かって、彼女は次々と意見を口にした。傍から見ている時にも思ったが、実際に自分に大きく関わる事となると、現実感が無いくらいに心強い。


「みさきの親権って、どういうことだ?」

「良い質問です。特別養子縁組をご存知ですか?」

「知らない」

「はい、予想していました。いいですか、特別養子縁組というのは――」


 彼女は嫌な顔ひとつせず、詳しく説明してくれた。

 六歳未満の子供と、家族になる制度。もちろん様々な制約があるが、逆にそれさえ満たせば、みさきと本当の家族になることも出来るとのことだ。


 その中で、ひとつ気になることがあった。


「里親の条件についてだけど、どれくらい融通が利くんだ?」

「私が里親として認められる程度には」

「……すまん、良く分からん」

「そうですね……過去に犯罪歴など無ければ、特に問題は無いと思います」


 それを聞いて、今度こそ頭の中が真っ白になった。


「どうしましたか?」


 思わず力が抜けて、立っていられなくなった。

 そんな俺に心配そうな目を向ける結衣。


 ……ふざけんな。


 俺には、彼女に「大丈夫」と返事をする余裕も残っていなかった。


「あの、大丈夫ですか?」

「……なぁ、知ってるか? 警察の世話になるとさ、まずは話を聞かれた後で、鑑識って所に連れてかれて指紋を取られるんだよ」

「その程度なら一般常識です」

「そうか。じゃあ、最近の指紋はパノラマ撮影ってことも知ってるか?」

「……まさか、貴方」


 その、まさかだった。

 俺には過去に犯した罪がある。それは中学を出て直ぐにヤンチャな悪友と共に犯した軽犯罪。それと――朱音あかねの元を離れて、心底腐った連中とつるんでた頃に犯した大きな過ち。


「……そういうことかよ」

「どうしましたか?」


 返事を求めたわけではない呟きに、結衣は即座に答えた。

 それに対して、俺は返事をしない。


 ただ、絶望していた。


 罪には罰を。そんなの幻想だと、あの頃は思っていた。

 それがまさか、今になって俺の足を引っ張るなんて夢にも思わなかった。


 みさきと出会ってから、ずっと前を見ていたつもりだった。

 少しはまとも人間に、立派な親に近付けていると思っていた。


 だけど置き去りにした過去は、果たして残酷にも俺の前に立ち塞がった。


「……小学校に行かないってのはダメかな」

「なにを言っているんですか」

「……だって、今更どうにもなんねぇだろ」

「それを貴方がいいますか?」

「じゃあどうしろってんだよ!!」


 ただの八つ当たりだった。言い訳のしようがない。だけど冷静でいられるはずがなかった。俺は、みさきと出会ったから、今があって、それで……みさきが居なくなったら、全部無意味じゃねぇかよ。


「……なんだよ」


 ふと目の前に影が差して、見上げると、彼女が俺に向かって手を伸ばしていた。


「とりあえず立ってください。みっともないので」

「……ほっとけ」

「まったく、これも貴方が言ったことですよ」

「……何をだよ」


 すっかり府抜けた俺の事を、彼女は真っ直ぐな目で見ていた。

 その姿は、奇しくも一月前と同じ夕陽を背にした姿だ。

 だけどその表情は、あの日とは全くの別物だった。


「困ったら、友達を頼るのでは?」

「……」

「なんですかその顔。自分で言ったんじゃないですか」

「……俺、お前と友達だったのか?」

「はぁ!?」


 彼女は俺に伸ばしていた手を引いて、そのまま不機嫌そうに腕を組んだ。


「もういいです貴方には呆れ果てました。とにかく私に任せてください」

「任せるって、どうするつもりだよ」

「私がみさきちゃんの親になります」

「は?」

「あくまで戸籍上の話です。面倒な手続きが終わったら、そうですね、友人の家にでも預けようかと思います」


 冗談にしか思えないような言葉を、しかし彼女はまるで決定事項のように言う。


「無理だろ、そんなの」

「可能です。私を誰だと思っているのですか?」


 余裕の表情を崩さずに、彼女は続ける。


「では今後について説明します。まずは私が――」


 そして、


「みさきちゃんの親権を獲得した後、半年は私の家で生活させます。これを怠った場合は全て台無しになる可能性が有りますので、異論は認めません」


 最終的に、


「完全に私がみさきちゃんの親だと認められた後、彼女を貴方に返します。以上です」


 一切考える間を置かずに、彼女は理想的な案を言い切った。客観的に考えたら不可能だ。だけど、彼女を見ていると不思議とどうにかなるような気がしてしまう。


 いや、事の是非なんてどうでもいい。俺は、もっと別の事が気になった。


「……どうして、そこまでしてくるんだよ」


 ツマラナイ問いですね、とでも言いたげな目をして、彼女は再び俺に手を伸ばした。


「だって、貴方は私の友達になってくれるのでしょう?」

「……」

「私の人生において二人目の友達です。いいですか、私はこう見えて友達思いなんです」


 なんだよこいつ。本当にあの人形劇で不貞腐れてたヤツと同一人物なのかよ。


「まったく、そろそろお礼の一言でも言ったらどうです? あなた、本当に私を振り回した男性と同一人物なのですか?」


 ……同じこと考えてやがる。


「本当に上手く行くのか?」

「当然です。あ、上手く行かなかったらみさきちゃんのことは諦めてくださいね」

「怖いこと言うなよ……」


 苦笑いをして、彼女の手を取った。


「……ありがとうな」

「あら、意外に素直なんですね」


 立ち上がって礼を言うと、彼女は柔らかく笑った。


「借りが出来ちまうな」

「一億円で手を打ちましょう」

「金かよっ」

「払えないんですか?」

「いいよ、払う。上手く行ったらいくらでも払ってやる」

「今の言葉、忘れませんからね?」


 きっとこの日、俺と彼女は友達になった。

 

 そして――


 少し家具の増えた部屋にポツンと立って、首を左右に振った。


 部屋は六畳で、壁は腐りかけの木。

 電気もガスも水道も通っていなくて、家具もほとんど置いてない。

 だけどこの部屋は、少し前まで幸せな場所だった。


 みさきは、もうこの部屋にはいない。

 これから半年、帰ってこない。


 俺は――この日、みさきの親じゃなくなった。

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