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戸崎結衣と話をした日

 時刻は午後八時くらい。

 俺は保育園の門に背を預けて人を待っていた。

 もちろん誰かと会う約束をしているわけじゃない。

 他に連絡手段が無いから、ここで勝手に待っているだけだ。


 俺は保育士の人からゆいちゃんのママが迎えに来る時間を聞いて、その時間に合わせて部屋を出た。普段なら銭湯に行く時間だから、みさきのことは事情を知っている小日向さんに預かってもらった。


 ……静かだ。


 日中に訪れる保育園からは、いつも元気な子供達の声が聞こえていた。しかし今、保育園に明かりは見えるものの、人の声は聞こえてこない。耳を澄ましても、聞こえるのは風で草木が揺れる音くらいだ。


 門の前にある歩道。ちょうど大人と子供が並んで歩けるくらいの広さで、俺とみさきは毎日のようにこの道を歩く。


 彼女も、この道を歩くのだろうか。それとも車で訪れるのだろうか。


 目を閉じて耳に意識を集中すると、微かに車の音が聞こえた。しかも急速に近付いている。


 その音を聞きながら、俺は自分に問いかけた。おまえは何の為にここに居るのか。


 寂しそうなゆいちゃんを見たから。腹が立ったから。あいつが間違っていると思ったから。間違いを正したいから……一人なら、こんなことしか考えられなかっただろう。


 俺は今ある現実が気に入らない。

 どうにかしたい。


 だから、あいつと一緒に話し合う。

 その為にここに居る。


 軽く呼吸を整えて、目を開いた。ちょうどそこにタクシーが現れる。タクシーから出て来たのは、何度か見たことのある顔だった。


 彼女がドアを閉めると、タクシーは静かに動き出した。タイヤと地面が鳴らす音を聞きながら、俺と彼女は向かい合う。


 彼女はスーツを着ていた。その凜とした立ち姿を見ていると、それだけで口が渇く。誰だって自分より優れた人間と相対すれば、どこか萎縮してしまうだろう。彼女が持つ風格は、雰囲気は、そういう類のものだった。


 だけど俺は知っている。彼女が娘思いの母親であることを知っている。娘が作ってくれた朝食を食べて、思わず顔見知りに自慢してしまうような可愛らしい一面があることを知っている。弱っている人に手を差し伸べる優しさがあることを知っている。一人で頑張ることがどれだけ辛く大変なことなのか、俺は知っている。


「話がしたい」


 思ったよりも低い声が出た。


「その話なら、水着売り場の前で終わったはずです」


 彼女は表情を変えないまま言った。どうやら俺が何を言いたいのかは分かっているらしい。だったら話は早い。


「それ、誰かに相談したのか?」


 俺の問いかけに、彼女はほんの少しだけ眉を動かすことで答えた。それは質問の意図が伝わっていないという感じではなく、予想外の言葉を聞いたことによる純粋な反応だったように思える。


「プールの件、ありがとうございました。ゆいも喜んでいました」


 しかし返って来た言葉は、話すことなど無いという意思を強調しているかのようだった。


「ああ感謝してくれ。ゆいちゃんに泳ぎを教えるの大変だったぞ」

「貴方の教え方が悪いだけでしょう?」

「見てなかった奴に言われてもな……」


 俺は壁から背を離して、


「つーわけで、話がしたい。次のお楽しみ会は、あんたにも参加してもらう」

「不可能です」

「即答すんな、もうちょっと考えてから答えろ」

「考えています。誰よりも」

「分かってる。でもそれ、誰にも相談してないだろ」


 一度目は無かったことにされた言葉を、あえてもう一度言った。今度は無視できなかった彼女は、少しだけ目を細める。


「貴方は、何が言いたいんですか?」

「分からん」

「は?」


 拍子抜けしたような声。


「悪いな、本当に分かんねぇんだよ」

「……少しでも耳を貸した私が愚かでした」

「でも理由は分かってる。ゆいちゃんの寂しそうな顔を見たからだ」


 一瞬前に失望の色を見せた目が、しかしゾッとするほどの鋭さを取り戻す。

 俺は口の中にたまった何かを飲み込んで、短く息を吐いた。

 ここからが本番だ。


「正直キツかったよ。ゆいちゃんはみさきの大切な友達だ。だから俺は、ゆいちゃんが楽しめるように頑張った。だけど、どんなに頑張っても無理だった。あの寂しそうな表情を消すことは出来なかった……そりゃそうだ。俺にとっての一番はみさきで、ゆいちゃんにとっての一番は俺じゃないんだから」


 彼女は刺々しい雰囲気のまま、俺の事を睨んでいる。その視線には、少しでも気を抜けば押し潰してくるくらいの凄みがある。


 まずは睨み返した。

 次に地面を踏みしめた。

 最後は腹に力を込めて、声を出した。


「だから、あんたと話がしたい」


 ゆいちゃんが心から楽しむ為に彼女の存在は不可欠だ。それはもちろん、俺よりも彼女の方が理解しているだろう。そのうえで彼女が今の選択をしている理由を俺は知らない。そこにどんな事情があるかなんて想像も出来ない。だから話がしたい。


「仕事、休めないのか?」

「……」


 予想された即答は、しかし聞こえてこなかった。彼女は俯いて、何かをグッと堪えたかのような息を吐いた。だが次の瞬間には、何事も無かったかのような目をして顔を上げた。


「他に何か言いたいことはありますか?」


 氷のように冷たい言葉が、ゆっくりと空気を揺らした。

 他に音が無いせいか、その声が俺の中で反響する。

 その度に、身体が熱くなるのを感じた。


「ゆいちゃんのことが大事じゃねぇのかよ」

「大事です。他の何よりも」


 分かっている。彼女がゆいちゃんのことを大切にしていることは分かっている。


「なら一日くらい仕事を休めよ」

「それは出来ません」


 理由は知っている。いつ欠勤するか分からない人間は信用されないとか、そう言っていたのを覚えている。


「優先順位を間違えんじゃねぇよ……」

「最優先されるのはゆいです。だからこそお金が必要なんです」

「そんなに金に困ってんのか?」

「はい。お金が無い事は、とても残酷なことですから」

「一日休んだ程度じゃ大して変わんねぇだろ。その金でゆいちゃんとの時間を買ったって考え方は出来ねぇのかよ」

「その一日で仕事を失ったらどうするのですか」

「娘の為にたった一日すら休めない会社なんて辞めちまえよ」

「今より給料が高くて、しかも自由に休める夢のような会社があるのなら、とっくに転職しています」


 少しずつ、感情が抑えられなくなっていくのを自覚した。

 それと同時に、俺と彼女の間に温度差が無い事も感じていた。


「なら条件を緩めたらどうだ? 時間を最優先して、給料は少しくらい犠牲にしたっていいだろ」

「少し? 少しっていくらですか。どれくらい給料を犠牲にすれば、自由に時間を使える会社に入れるんですか」

「今あんたがいくら貰ってるのか知らねぇけど、少なくとも土日は完全に休める会社の中に、毎年三百万くらいは貰える会社がある。三百万も貰えりゃ十分だろ」

「話になりません。今の十分の一にも満たないじゃないですか」

「おま三千万も貰ってんのかよ!? それこそ十分だろ!」

「そんなことはありません」


 ……今のは一気に熱が冷めたわ。なんだよ三千万って。


「それで足りないなら生活に問題があるんじゃないか?」

「……限界まで抑えています」

「そうかよ……とにかく、そんだけありゃ十分だろ。何日か休んで、最悪半分になったとしても十分過ぎるくらいあるじゃねぇか」

「…………」


 ……あれ、なんでこんなに温度差があるんだ?


「……うるさい」


 一瞬、誰が言ったのか分からなかった。


「うるさい、うるさいうるさいうるさい!!」


 突然の大声に俺は唖然とした。

 俺とは対照的に、彼女はさらに激しく声を出す。


「黙っててください! あなたに何が分かるんですか!? お金が無い事がどれだけ残酷なことか、知らないくせに! 何も知らないくせに分かったようなこと言わないでください!!」


 ……


「今を生きるだけなら給料は十分の一になったって問題ありません。だけど十年後は? 二十年後はどうなりますか? もしも私が病気で動けなくなったら? その時ゆいはどうするんですか? そうなった時、子供がどんな気持ちになるか分かりますか? その子供を見て、親がどんな気持ちになるか分かりますか? それを知った時、子供がどんな気持ちになるか分かりますか!? 分からないでしょ!!」


 そう叫んだ彼女の目には、涙が浮かんでいた。

 だけど俺には、その理由が一切分からない。

 何も言えない。返す言葉なんて見つからない。


「……ゆいは、ゆいはどうなりますか? 私がいなくなったら、働けなくなったら、ゆいはどうなりますか? そうなった時もゆいが幸せに、普通に生きていくためには、いったい……いくらいるんですか? どれだけお金があればいいんですか……一千万? 一億? もっと? 分からない。分からないですよ……足りない、どれだけあっても足りない……足りない、足りない……」


 彼女は、次から次へと溢れ出る涙を隠そうともせず、足りないと繰り返していた。その声を聞いているだけで胸が痛くなる。事情なんて少しも知らないのに、その思いが痛いほど伝わってくる。


「私は、ゆいには幸せでいて欲しい! 少しだって苦労させたくない! 悲しい思いなんてさせたくないっ、ずっと……ずっと幸せでいて欲しい! その為には、その為に出来る事なんて、お金を残すことしかないじゃないですか! ゆいに何かあった時、あの子が何かしたいって思った時、その時にお金が無かったらどうするんですか!? 私がゆいにしてあげられることなんて、これくらいしかないじゃないですか。あの子が苦労しないように、お金を残すしかないじゃないですか……もしも明日私が動けなくなったら、今あるお金だけで、ゆいが……ずっと生きていけるわけないじゃないですか……全然、足りないじゃないですか……っ!」


 彼女の言っていることの意味は分かった。俺は自分が居なくなるなんて考えたこと無いが、もしもそうなったら、いったいみさきはどうなる? その不安は理解できる。考え過ぎだと切り捨てることなんて決して出来ない。


 俺は――


「あんたさ、友達いないだろ」

「……は?」

「俺は今日、ここに来る為にみさきを小日向さんに預けた」

「……なに、言ってるんですか」

「ヤベェよ、大事な娘を預けるって半端ねぇよ。でも、安心してる。相手のことを信頼してるから、こうして余計なことを考えずにあんたと話が出来る」


 一歩、彼女に近付いた。


「俺と友達になってくれ」

「……」


 今度は、彼女の方が唖然とした目で俺を見ていた。


 分からない事だらけだが、彼女が必死に頑張っていたのは痛いくらいに伝わった。考えて考えて、それでもどうにも出来なくて、ずっと悔しい思いをしていたのが伝わった。


 そんな相手に、軽々しく誰かを頼れなんて言えない。そいつが一人でも頑張っていた事実を踏みにじるようなこと、口が裂けても言えない。


 だから俺はお願いした。

 一緒に頑張らせてくれと、そう言った。


「戸崎結衣で間違ってねぇよな? 俺は天童龍誠。みさきの保護者だ」


 真っ直ぐ、手を伸ばした。

 直後に、バシっという音がした。


「……なんなんですか。あなたは、なんなんですか……なんで、そんなに似てるんですか……」

「握手を拒否されたショックで何を言ったらいいのか分からねぇけど、とりあえずふざけんなとだけ言っておく。空気読めよ」

「くうきよむ!」


 ペシっという音がした。


「ゆるさない!」


 ゆいちゃんだ。

 小さな手足を精一杯に広げて、俺と戸崎結衣の間に入り込んでいた。


「ママをなかせるな!」

「……いや、これはだな」

「みさきにいいつけてやる!」

「それだけは勘弁してください!」


 あ、やべ、勢いで土下座しちまった。

 保育園児相手に土下座とか何やってんだ俺……。


「ゆい、ママは泣いてなんかいません……」


 涙声で何か言ってる。


「これは……魔法です。一人前のレディに使える水魔法のひとつです」


 いや、流石にそれは無理があるんじゃ……


「ママすごい!」


 マジかよ!?


「うそです。はなしはきかせてもらいました」


 ……ゆいちゃん半端ねぇな。大人達の間に割り込んで場を支配してやがる。


「ママ、あたしはだいじょうぶです」

「……ゆい?」

「ママは、ママのことをかんがえてください」


 ……口を挟める雰囲気じゃねぇな。


「あたしは、ママがたのしいのをみるのが、いちばんすきです」

「……」


 戸崎結衣は何も言わずに膝を折って、ゆいちゃんを抱き締めた。

 ゆいちゃんは母親の背中を優しく撫で――


「だから、ママをなかせるりょーくんはきらいです」


 ――いいだろう。親子水入らずの時間を提供してやろうと思ったが、そっちがその気なら口を挟んでやる。


「ゆいちゃん、次のお楽しみ会、ママも参加してくれるそうだ」

「ほんと!?」


 直前までの大人っぽい雰囲気はどこへやら。

 ゆいちゃんはキラキラと表情を輝かせて嬉しそうな声を出した。


「……」


 俺とゆいちゃんの視線を受けて、戸崎結衣は――


「……天童さん」


 何度か街であった時と同じ目をして、


「私は、貴方の事が嫌いです」


 たった一言だけ口にした。


「あたしもきらいです!」


 そう言ったゆいちゃんは、だけど嬉しそうな目をしていた。


「ゆい、帰りましょう」

「はい!」


 土下座の姿勢のままの俺を置いて、二人は手を繋いで歩き始めた。

 その速度は、ゆいちゃんの歩調に合わせているからか、かなり遅い。

 

 暫くして、戸崎結衣は振り向かずに言った。


「次の父母の会は、いつですか?」


 その言葉を聞いて、ゆいちゃんが跳びはねて喜びを表現した。


 それを見て、ふと悩む必要なんて無かったんじゃないかと思う。

 俺の言葉なんて一切いらなくて、ゆいちゃんの一言だけで十分だったのかもしれない。


 ……でも、悩んだ意味ならあったよな。


 俺は短く笑って、友達の背中に向かって返事をした――

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