愚王と英雄
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「なぜだ!」
投げつけられた銀杯は、高い音を響かせつつ葡萄酒を撒き散らし、真新しい絨毯に無数の赤黒いシミを拵えた。
怒りと興奮に任せ、銀杯を地に投げつけたのは、国外、国内を問わず民衆たちから愚王と蔑まれているエドマインであった。
戦を途中で放り出し王都へと帰還した王は、そのまま疲れた心と体を癒すと称して、先年寵姫のために拵えた新しい離宮へと向かい、籠った。
豪華絢爛を極めんとするように贅を凝らした離宮は、それはそれは居心地の良いものであっただろう。
だが離宮での放蕩三昧の生活の中、耳に聞こえてくるのは、民衆たちの自身への軽侮の言葉と、英雄視されつつある辺境の小貴族のことばかり。
無論、これはある程度はガドモア王国の士気を下げるためにとの、ノルト王国の策謀によるものだが、別にこれについては策を弄さずとも、話が広まるのが早いか遅いか程度の差でしかなかったであろうことは、想像に難くない。
「なぜだ! 余はこれ以上の損害が出ぬ内に撤兵したのだぞ? お前たちも余の判断を、こぞって英断であると言うたではないか!」
エドマインの怒りは、自身の行動の正当化を後押しした彼を取り巻く佞臣、奸臣たちへと向けられた。
怒鳴りつけられた近臣たちは首を竦めながらも、まるで悪びれた様子を見せない。
「畏れ多くも申し上げまするが、あの時の陛下の御判断には、一分たりとも間違いなど御座いませぬ。あの戦の名分は失地の回復に御座います。現に北侯は、ノルトによって失われし領地の回復を成し遂げておりますれば、此度の戦は大成功と言ってもよろしいかと思われまする。ただ、一つ残念なのは、一部血気盛んなる者たちが先走りし、そのために敵の手痛い反撃を受けてしまったという、その一点のみで御座います」
「陛下、御心を御鎮め下され。このような噂を流しているのは、敗北し、悔やんでいるノルトの輩に違いありませぬ」
佞臣、奸臣たちは、この無知蒙昧なる愚王を上手く操る術に長けている。
というよりも、子供の癇癪を静めるのと何ら変わらないと言っても良い。
「しかし、余はあの時に全軍撤退を命じたはずであるぞ。なぜそれを無視し、そのまま踏みとどまり戦い、敗死した者が讃えられておるのか?」
「それ、それで御座いますが、所詮民衆たちは浅学であり、その視野も狭きもの。この戦が何のために行われたのかすらも理解出来ぬ愚か者たちで御座います。此度の戦は先程も申し上げました通り、失地の回復。これが成し遂げられた以上、我らの勝利であり、先走った一部の者たちが引き起こした敗北など、微々たるもので御座いますのに、それが理解出来ぬのです」
「左様、でありますから、英邁なる陛下のお導きが、愚民どもには必要なので御座います」
この場に従軍した者がいたのならば、これはおかしいと誰もが思っただろう。
まず目的が巧妙にすり替えられている。
今回の戦の目的は、失地の回復ではなく、ノルト王国の征服であったはずだ。
それが、いつの間にか失地の回復という目的に変わり、その上ただノルトが放棄しただけであるにも関わらず、さも自分たちが実力で取り返したかのような話へと変貌していた。
このように、宥め、都合のよいように話をすり替え、どうにかエドマインを落ち着かせようと試みる近臣たち。
だが、それでも未だ怒り心頭のエドマインを見た彼らは、生贄の羊を捧げる手に出た。
「そもそも、愚民どもが祀り上げているダレン・ネヴィルなる者は、陛下の全軍撤退の御命令に背いた反逆者に御座います」
これはあまりにも酷い言い草である。
第一、撤退命令が出た時には既に先鋒軍は、敵の猛攻に晒されていたのである。
先鋒軍は全軍撤退の命令が届く前に、既に敗走していたため、命令もなにもありはしない。
「陛下の鮮やかなる御勝利に、傷をつけた愚か者たちに罰を与える必要があるかと思われます。既に大事な先鋒軍を預かりながら無様に敗北したアークブロイス、ブローギスの両将は戦死の模様。この両名は降格、財産の一部没収という罰を受けております。しかしながら、陛下の御命令に背いた、このダレン・ネヴィルめは、何ら罰を受けてはおりませぬ」
「む、であるか。では聞くが、この者にはどのような罰が相応しいと思うか?」
数年前に、このネヴィル家より虹石なる珍宝を献上された記憶など、エドマインはとうに忘却していた。
民衆たちが、ネヴィル家などという賎民たちに毛が生えたような存在と、至高の存在である自身が比べられるというだけで虫唾が走る。
「当人は既に戦死しておりますれど、ここは命令違反のかどで財産、領地の没収が相応しいかと…………」
「そうか、よきに計らえ」
エドマインは目に喜色を携え、薄く笑う。
国王である自分に逆らう者など、一人たりとも許しては置くべきではないのだ。
それから数日後、エドマインは再び激昂した。
パンダガム子爵が、僅かばかりの賄賂を受け取り、自分に何の報告も無しにネヴィル家の爵位相続の許可を与えたことを知ったのである。
パンダガムは直ちに捕えられ、これまでにも王のサイン入りの紙を使い、不正に財を蓄えていたことが明るみとなった。
しかしこれは、何もパンダガムだけが行っていたわけではない。
王を取り巻く近臣たちは皆、当たり前のように行っていることである。
彼らは蜜に群がる蟻である。
一人減れば、それだけ多くの蜜が吸える。
パンダガムは、より多く蜜を吸おうとする者たちの手によって、ただ蹴落とされたにすぎないのだ。
パンダガムは死罪となり、領地と財産の大半を没収された。
「余は何も聞いてはおらぬ。不正を行いしネヴィル家の爵位相続など、もってのほかである。この爵位相続は無効とし、降格ではなく家門の剥奪と致す!」
王の命は下された。
ネヴィル領への帰還を急ぐアデルたちを、王が遣わした破滅の使者が追いかけた。
アデルたちは帰路を急いだ。
領地に戻れば、まずは先延ばしとなっている父であり、先代領主であるダレンの葬儀を行わねばならない。
そのため、継承祝いをするので、帰りに寄るようにと言っていた西候には、先に使いを出して断りを入れてあるため、そのまま西候の領地を通過する。
西候は、自分が主催するネヴィル家の爵位相続を祝う席で、何らかの恩を売るつもりであったが、それを見事に躱された形となり、歯噛みして悔しがった。
だが、そのネヴィル家を追いかけて来た王の使者たちの話を聞いて、すぐに満面の笑みとなる。
西候は使者たちを持て成すと共に、直ぐに王の元へ音物を携えた使者を送った。
西候の目的はただ一つ。
空いたネヴィル領を、自分が手に入れる、あるいは自分の一族ないし、息の掛かった者に継がせようというものであった。
自分たちの後ろで、そのようなことが起きているとは露知らずのアデルたちは、飛ぶようにして領地へと戻ると、日を置かずに葬儀を行った。
ネヴィル家は飾らない。というよりも、飾るだけの財が無い。
ダレンの墓は、共同墓地にある日当たりのよい小高い丘の上に作られた。
葬儀も質素ではあったが、多くの領民たちが参列した。
これもダレンの仁政によるものだろう。
ダレンは、先代であるジェラルドより当主の座を譲られ、政を行った期間は短い。
だが、領民たちの意見に耳を傾け、害獣退治のような小事にも自ら赴き、堅実な政治を行ったダレンを領民たちは慕っていたのである。
ネヴィル領にある街や村々に弔辞の鐘が鳴り響く。
棺桶の中に納められたのは、ギルバートに手渡した遺髪が入った小さな小さな革袋のみ。
そのうちの数本を、妻であるクラリッサが抜き取り、胸に輝く銀のロケットの中へと納めている。
喪主を務めるのは、後見人付きながらも、新たにネヴィル家当主となったアデル。
アデルは、遺髪の入った棺桶が墓に納められた後、墓に向かい、遺言の通りにダレンの跡を継ぎ、当主となった事を涙ながらに報告する。
まだ少年でありながらも重責を背負わんとする、アデルのその涙を見て、家臣と領民たちは激しく心を揺さぶられ、共に涙する。
だが、時代の波は悲しみに暮れる時間すらも与えてはくれなかった。
葬儀が終わった僅か三日後、王の遣わした使者がネヴィル家の門を叩いたのである。
アデルの男爵としての領主生活、王都からの帰還を含めても一月に満たず。
無位となったアデルの明日はどうなるのか? 乞うご期待!




