苦渋の決断
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更新遅くなって申し訳ありませんでした。
時は少しばかり遡る。
その日の早朝、日の出とともに天幕を出たアデルは、大きく背伸びをしながら深呼吸を繰り返す。
朝一番の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、若い肉体にそれだけで気力が満ちていく。
と、同時に枯草の匂いを僅かながらに嗅ぎ取ると、冬の訪れを感じずにはいられない。
「時間が無いな。そろそろ決めないと…………」
独り言を呟いていると、陣内を巡回中の兵士たちと目が合った。
アデルがおはようと声を掛けると、兵たちは手に持っていた槍を小脇に挟み、敬礼した。
変わりないかとアデルが問うと、兵たちの長が一歩進み出て、
「陣内、異常なし! で、あります!」
と、背筋をより一層伸ばして返答した。
任務ご苦労、と長に声を掛けるアデル。
長を始め、兵たちの視線が自身の右足に注がれているの知ると、アデルはくすりと笑いながらその場で、ぴょんぴょんと跳ねて見せた。
「おかげさまで、すっかり良くなった。お前たちには不自由をさせてしまい申し訳なく思っている」
その言葉を聞いた兵たちは、槍を地面に置いて一斉に平伏した。
自分たちの視線が、アデルにこのような行動をさせてしまったと思い、その顔色はどんどん青ざめていく。
「め、滅相もございません! へ、陛下、傷に障りますゆえ、ど、どうか、どうか!」
長は一度仰ぎ見るようにアデルの顔を見た後、地面に額を擦り付けるように平伏を続けた。
「大丈夫だって、ほら」
そう言いながらアデルは、平伏する長の手を取って力を込めて無理やりに立たせた。
「ほら、みんなも立って、立って。心配を掛けてしまったようで、誠にすまない。こうして足が治ったからには、もう大丈夫だ。明日、明後日にもこの地から移動するゆえ、そのつもりでな。それまでは陣中の警護を頼んだぞ!」
気さくに声を掛けつつ、兵たちの体に付いた枯草を手で払ってやる。
それだけで、兵たちは感極まったように肩を震わせていたが、アデルはあえてそれに気付かぬ振りをした。
アデルは、長の掛け声と行進のように規則正しい足音を背中に受けつつ天幕内へと引き上げた。
天幕内に入ると、先ほどまでに爽やかさは微塵も無く、暗く沈んだ面持ちとなるアデル。
それもそのはず、アデルは今日明日中にも重大な決断を下さねばならなかったのだ。
今アデルの頭をこれでもかと言わんばかりに悩ませているのは、この軍の今後の動かし方であった。
前に進み、敵に占領された城を取り戻すべきか、それとも無理をせずに一旦退くべきなのか。
例えば城を取り返しに攻めるとする。だが、必ずしも勝てるとは限らない。
ましてや、城を守っているのは精強かつ無敵の象兵を持つアルタイユ軍であることは、事前に行った偵察にて判明している。
この地は穀倉地帯であり平野部。正面からの野戦となれば先の奇跡のようなことが起きない限り、勝算はあってなきが如し。
では、無理をせずに退くとするとそれはそれで問題が生じる。
まずは一気に流入して増えた国民の胃袋を満たす食料の問題。この一大穀倉地帯の一部でも手放すことは、今のネヴィル王国には非常に苦しい。
さらには面子の問題というのもある。敵に攻め込まれ領土を失い、それを取り返さないというのは王侯貴族にとってこれ以上にない恥辱であるというのが、この時代の常識であった。
ゆえに、かつて北侯はノルト王国に奪われた自身の領地を死ぬ気で取り返そうとしたし、先の神聖ゴルド王国がガドモア王国に攻め込んだ際にも、ガドモアも本気で迎撃し、失った領土を取り返した。
もっとも、ガドモア王国の場合は、所謂内地に攻め込まれると過剰なまでの反応を示すが、かの国が辺境とする外地に関しては、それほどまでの関心を示さないという面もある。
いずれにせよ、領土を失って取り戻せないのは面目丸つぶれであり、アデルの国王としての資質を疑う声が上がる可能性も無きにしも非ずとなれば、建国間もなく足固めを急ぐネヴィル王国には大きな痛手となりかねない。
アデルはすぐに、主なる将を呼び緊急の戦略会議を行った。
ただこの会議に末弟のトーヤは参加していない。なぜなら、彼は王不在時に溜まっている政務の処理をするために一足先に王都へと戻っていたのだった。
「進むべきか、それとも退くべきか、余にも容易には判断付きかねる。諸将らの忌憚のない意見を求む」
その一言で諸将の間に緊張がはしる。
これまでその卓絶した頭脳から生み出される戦略で、一辺境貴族から一気に国を興した英雄をも悩ませる問題である。
正直、自分たちの手に余ると言いたいが、ことこの進退次第では国の浮沈に関わるとあれば無い知恵を死ぬ気で絞り出す他ない。
「攻めるとしても、この戦力では正面から堂々とぶつかるというわけにも行くまい」
「左様さな。敵も馬鹿ではなかろうて。城もこの短時間ではまともに修復は無理となれば、必ずや野戦にて応じてくるはず。と、なればあの象とかいう化け物をどうすべきか…………」
「周到に罠を張るしかなかろう。敵を謀略なり何なりで嵌めて、せめて我々に有利な状況にしてからでなければ」
「それは無理だ。もう間もなく冬となる。そうなれば、冬の備えをしていないわが軍の将兵は、凍えてとてもではないが戦える状況ではなくなる。攻めるのならば、速攻あるのみ」
「いや、力攻めは厳しい。先の戦いでは陛下のご威光により、天意を得て勝つことが出来たが、無策でアルタイユ兵を相手取るの危険だ」
「怖気づいたか! 我らがあのような者たちに後れを取るとでも言うのか!」
「そうは言わぬ! ただ損害が馬鹿に出来ぬと、ただそう申しておるのだ!」
徐々に白熱を帯びていき、皆の言葉にも荒々しさが見え始めたころ、それまで一切口を挟まずにただ成り行きを見守っていたアデルが、口を開いた。
「皆の考えはわかった。余も出来ることならば、このまま前へと進みたい。だが、今回ばかりは退こう。余はいたずらに将兵を傷つけ、苦しませるを良しとはしない。かの地を取り戻すには、念入りな準備が必要であると判断した」
この言葉を聞いた諸将は、皆一様に悔し気な表情を見せ、肩を震わせた。
「…………まことに、申し訳御座いませぬ…………」
中でも義父のダグラスと共にベルクス城を任されていたマグダルの頬に、悔し涙が流れた。
諸将の口から次々とマグダルに慰めの言葉が掛かる。
「マグダルよ、ベルクス城の落城はそなたたち親子のせいではない。すべては防備に力を割かなかった余の責任である。卿は防衛戦でも先の野戦でもよく戦ってくれた。その働きと想いに余は必ずや応えるとしよう。だが、ここは一度退いて体制を立て直すこととする」
このアデルの言葉にマグダルは深く頭を下げた。
「時に退くことは、進むことよりも勇気が必要とされますれば、此度の御判断はまことに英断かと思われまする。備えなくしての冬の戦は負け戦となるが必定でありますれば、やはりここは御判断通り一度退き、翌年あるいは翌々年にでも改めて軍を起こし攻めるべきでありましょう」
大将軍ギルバートの言葉に、アデルは深く頷いた。
カルディナ半島の南部に位置するこの地域は、冬が来ても北部のように雪が深く積もることもない。
だが、積もらぬにしても雪がちらほらと舞うこともあるし、氷点下となならずともそれなりには冷える。
冬に戦をするのならば、毛皮や温かい衣服、暖を取るための大量の薪などは欠かせない。
凍死者や体を壊す者が出れば士気は下がり、凍え縮こまった体では満足な戦働きは出来ようはずもない。
撤退はやむを得ない判断であった。だが、これまで勝ち続けていた黒狼王が、戦には勝ったものの戦略的には負けるという、初めての敗北の影響が敵味方、そして国民がどういう反応をするのかを考えると、アデルの背筋に冷たいものが流れずにはいられない。
黒狼王の不敗神話もこれまでか、とアデルは自嘲するも天は彼を見放してはいなかった。
撤退と決まり気落ちする天幕内に、突如騎士が飛び込んできた。
肩であえぎながら報告する騎士を見て、余程の大事が起きたと全員に緊張が走る。
「ご、ご報告も、申し上げます! た、只今我らが陣前に、て、敵の……アルタイユの軍使らしき者たちが現れました!」
軍使? どういうことかと諸将は顔を見合わせた。
「本当にアルタイユの軍使なのか? 問うて確認したか?」
ギルバートの問いに、騎士は首を横に振る。
「しかしながら、あの浅黒い日焼けした肌は間違いなくアルタイユ人のもの。某も先の戦にて直接剣を交えておりますれば、見間違うことは御座いませぬ」
ギルバートが命じる前に、某が彼らに接して用を聞いてまいりますと、マグダルがアデルの前に進み出た。
アデルは頷いて許可すると、マグダルは弾かれたように勢いよく天幕から飛び出して行った。
その背を見送りながらアデルは、自覚できない妙な期待感に体を震わせるのであった。
温かいお言葉、ありがとうございました。
帯状疱疹も治りはしたのですが、次は帯状疱疹後神経痛に悩まされております。
しかし今年は厄年と言ってもよいほど、よく病気に掛かりました。
持病の喘息から始まり、肺炎、コロナ、そして今回の帯状疱疹と散々な一年でした。
来年こそは、健康でありたいと願うばかりです。




