決断の霧
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三兄弟が興亡の一戦となるであろう明朝の戦いに怯えていた頃、天幕の外では雨が降り始めていた。
夜半過ぎにもなると、強風を伴う激しい雷雨となり、天幕もなぎ倒されてアデルたちもずぶ濡れとなる。
この豪雨の激しさはより勢いを増し、隣で人が叫んでも碌に声が聞こえないほどであったという。
深夜を過ぎて雨は弱まり、程なくして降りやんだが、王を始め将兵皆濡れ鼠といった有様であり、物資の凡そすべてが濡れてしまい、火を起こすのも難儀する有様であった。
勿論、それは敵軍も同様であり、特に象たちはこの激しい雷雨に興奮したり怯えたりで、宥めるのに大層苦労したという。
「夏でよかった。これが春や秋ならば風邪が流行るだろうし、早春、晩秋ならば凍死者が出てもおかしくない」
「敵軍も俺たち同様びしょ濡れだ。見ろよ、地面がぐしゃぐしゃだ。田んぼの中で戦うようなもんだぜ」
「甲冑などは外させた方がいいな。重装騎兵も重装歩兵もこれじゃ役に立たないだろう」
この予期せぬ自然現象が、三兄弟にいつもの落ち着きを取り戻させていた。
だがこの異常気象ともいうべき自然現象は、雷雨だけにとどまらなかった。
明け方になると、非常に濃い霧が発生したのである。
その霧の深さたるや、僅か数メートルほど先を見渡すのがやっとという有様であり、陣内にいる味方同士の連絡にすら迷子を出す始末であった。
将兵らは昨晩の雷雨に続くこの霧という異常気象に、当然のごとく怯えた。
が、三兄弟は違った。この霧を、好機であるという捉え方をしたのだ。
「この霧の濃さならば、奇襲をかけ放題だ。しかしながら、部隊間の連携などは望めはしない。それは敵味方一緒である。で、あるならば個々の武勇が遺憾なく発揮される戦場となる。ならば我らが負けるはずも無い。勝利を疑うこと無かれ! すぐに攻撃の準備をせよ!」
このアデルの若々しい猛々しさにあてられた将兵らに、もう怯えは無かった。
ぬかるんだ地を駆けるために、将兵らは重い甲冑を脱ぎ捨てる。
アデルはその脱ぎ捨てられた甲冑を集め、人型の案山子を作るよう命令した。
「この霧がいつまで続くかはわからぬが、多少晴れた時に本陣にまだ兵がいると思わせることが出来るかもしれない。敵の動揺を誘ったり、空の本陣攻撃に無駄に兵を割かせることが出来れば儲けものだ」
所詮は小細工の類ではあるが、小細工であってもそれらを積み重ねて僅かでも勝率を高めた者こそが勝利を手にするのである。
ーーー
その頃、ネヴィル王国軍と対峙している神聖ゴルド王国軍も昨晩の雷雨と霧に、少なからず動揺していた。
中には、ここは一時兵を退くべきではないかという意見すら出たほどである。
これに神聖ゴルド王国の国王ザームは、不快感を示した。
「我々は勝っているのだ! なのに何故に兵を退かねばならぬのか! たかが雨と霧ではないか、まさかこの場にいる者たちの中で、生まれてこの方雨に降られたことも、霧に閉ざされたことも無い者などおるまい。むしろこれは勝機である! 敵もこの事態には動揺しているはず。奴らが落ち着きを取り戻す前に、攻撃を仕掛けるべきである!」
ザームは霧など日が高く昇れば自然と晴れるとし、まさに今この霧に乗じて攻撃をと主張した。
居並ぶ諸将は困惑した。
「しかしながらこの霧では部隊の連携など取れませぬし、陣形の維持すら困難を極めます」
「日が高く昇り、霧が晴れてから改めて動くというのも一つの手かと存じ上げる次第」
最初から部隊間の連携を無視して、遮二無二奇襲突撃を敢行しようとするネヴィル王国軍とは違い、神聖ゴルド王国軍の将たちは、あくまでも陣形を駆使した従来の戦い方に拘っていた。
というよりも、彼らは不安だったのだ。
先の戦いで被った損害が、戦いの規模に対してあまりにも大きく、ネヴィル王国軍の勇猛さに勝ったとはいえ、腰が引けていたのである。
アルタイユの客将であるアレクはというと、彼も慎重論を唱えていた。
「先の城攻めといい、追撃部隊の撃破といい、敵の兵気は未だ衰えを見せておらず、敵は此度のこの霧に必ずや乗じて来るでしょう。こちらとしても敵と違い地理に明るくなく、動きも制限されるとなればまず、守りを固めることこそが肝要と存じ上げる」
だがこれらの慎重論をザームは惰弱であるとして蹴った。
「勝利は目前なのだ! いや、もはや手のひらの内にあると言ってもよい。あとはその勝利が手から零れ落ちぬように、ただただしっかりと握りしめるだけであるのに、それが何故わからぬのか!」
ザームは焦っていた。誰が見てもわかるほどに。
そしてこれは今に始まったことではない。建国よりずっとである。
まず目先の問題として、兵糧不足の解消にこのネヴィル王国南東部の穀倉地帯の奪取を試みたのだが、夏は既に終わりを見せ始め、実りの秋がすぐそこまで迫ってきている。
なのでより多くの収穫を得るためにも、この戦いに勝利してさらに進軍して領土を拡大しなければならないのだ。
さらには隙をついた一撃でガドモア王国を倒すはずであったが、思いもよらぬ激しい抵抗に手を焼き、未だ打ち倒すことが出来ずにいる。
ガドモア王国の前身である南ゴルド王国より約四百年の長きに渡り、このカルディナ半島を制してきた大国であるガドモアを倒したものが新たな半島の覇者となるのは、この時代の共通の認識である。
なので、突如現れてトンビが油揚げを掻っ攫うように半島の外の勢力を引き入れ、この半島の支配権を奪わんとしたこのザーム率いる神聖ゴルド王国に、アデルたちネヴィル王国は猛反発したのであるが、もしこのまま神聖ゴルド王国がガドモア王国を倒せないとなると、北にガドモア、東にネヴィルと敵に挟まれた神聖ゴルド王国の先行きは暗くなるであろう。
「一度事を起こしたのならば、勝ち続けねばならぬのだ……なぜそれがわからぬのか……」
肺のさらに奥、心の底から絞り出すようなザームのこのか細い呟き。
この呟きに最も共感を覚えるであろう相手は、今対陣しているアデルなのは皮肉というしかない。
こうして軍議は難儀したが、結局はザームが押し切る形で全軍攻撃の体となった。
ーーー
この突然の霧に難儀していたのは対峙していた両軍だけではない。
ベルクス城から撤退する兵を追いかけて来た、神聖ゴルド王国の追撃部隊を撃破したベルトランは、一千の兵を率いたまま本隊とは合流せずに同地に潜伏し、奇襲の機会を伺っていた。
だがこの霧ではどうにも動くことは出来ない。敵のいる方角はわかる。しかしながら仕掛けるタイミングが計れない。
率いる兵はたったの千。奇襲のタイミングを間違えたのならば、兵力差から言って一瞬にして打ち負かされてしまうだろう。
ベルトランは、霧をその太い腕で忌々しく打ち払うも、その視界は閉ざされたままである。
彼は悩んだ。このまま霧が晴れるのを待つか、それとも動くかを。
「陛下の御性格からいって、このままじっとしているとは思えぬ。陛下に拾われしこの身、いざという時にお役に立てぬとあらばそれは死んだも同然よな」
もししくじったのであれば、その時はその時。
一兵でも敵を道連れにして果てるのみであるとし、ベルトランは麾下の兵に戦闘準備を告げたのであった。
霧の中で決断を下した者はベルトランだけではなかった。
ネヴィル王国北東部の援軍とエフト王国軍が合流した北よりの連合軍もまたこの霧に立ち往生していたのだ。
この連合軍を率いるカルファ、エギン、グラハレル、レギアスらは、道案内役であるシュルトと共に、この霧にどう対処すべきか話し合った。
「やはり霧が晴れるまで待つべきではないか? これではまったくを以って身動きが取れぬ」
「いやしかし悠長に霧が晴れるのを待っていれば、それだけ遅れることにもなろう。場合によっては取り返しのつかない事態になるやも知れぬぞ」
「某としては、このまま一戦も交えずに戦がおわりでもしたならば、とてもではないが陛下に顔向けが出来ぬ。陛下は某をご信頼あそばれたからこそ、今現在考えうる最大人数である二千もの兵を授けて下されたのだから」
エフト王国の援軍を率いるエギンとしては、エフト王国軍はこの戦いにおいて何の役にも立たなかったという、悪評が立つのだけは何としても避けたいところであった。
そういった小さな罅が、やがては亀裂となり両国の関係を悪化させるのを恐れたのである。
今のエフト王国の立場はというと、これは三国同盟内でも少しだけ微妙な立ち位置にある。
政策の多くをネヴィル王国の後追いをしている関係から、エフト王国はネヴィル王国傀儡、あるいは衛星国家ではないかとの見方もある。
勿論のこと、アデルもシルヴァルドもエフト王国は一つの独立国家であると認めているのだが、かなりの混血化が進んでいるとはいえ、カルディナ半島の大多数を占めるゴルド人とは違う異民族のため、穿った見方をされることが多いのが実情である。
シュルトはエフト王国赴き、エギンたちエフト王国軍の先導をしてきただけに、彼らの抱く危惧や心情をよく理解していた。
シュルトはアデルよりこの道案内役の任を命じられてより、複数の行軍ルートの全ての地理を把握するよう努めていた。
今、視界の全てが霧に閉ざされていようとも、シュルトの頭の中には正確な地図が描かれていた。
「進みましょう。多少の脱落者が出るのは致し方ありません。それよりも数的な不利を強いられている本隊を一刻も早くお助けすることこそが重要であるかと…………」
先導役のシュルトの言葉で、霧をものともせずに進軍を強行することが決定した。
シュルトは自ら先頭に立ち、味方がはぐれぬようにと松明に火を灯させ、時には先行してかがり火を焚きつつ南進。
事前の予想通り多少の迷子をだしてはしまったが、軍集団を維持しつつ戦場に急行することに成功する。
完全に地理を把握していたシュルトはその正確さから、逃げ馬という名誉とはかけ離れた渾名に変わり、新たに地図将軍と呼ばれるようになったのであった。
コロナの後遺症か、肺が重く苦しい感じで深く呼吸し辛いです。
倦怠感もあります。結構しんどいからみんなも罹らないよう気を付けて下さいね。




