ルノア湖の戦い
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翌日の早朝、ティガブル城を囲む敵陣に動きがあった。
重騎兵を主体とした一軍が、北の方向へと移動するのを見たブレナン伯爵は、味方が到来したのだと将兵らを励ました。
「見よ! 敵が城から遠ざかって行くぞ。きっと援軍が来たに違いない。このまま堅く守っていれば、きっとすぐにでも敵は退くに違いない」
だが、そう言うブレナンの目つきは厳しいままであった。
敵が囲みを解かずに少数の兵を差し向けたということは、到来した援軍がシルヴァルド王率いる本隊ではないからだ。
一方、包囲陣を離れたガドモア王国軍のホーバス男爵率いる重騎兵部隊と、ハビコム男爵率いる歩兵部隊は、報告にあった北に集結しつつあるノルト王国軍の敗残兵を蹴散らすために、ルノア湖へと向かっていた。
この時点でホーバス、ハビコム共に自軍の勝利を微塵も疑ってはいなかった。
ただ、ホーバスの重騎兵部隊とハビコムの歩兵部隊との間では、その士気にかなりの温度差が生じていた。
ホーバスらとしては、ただ全軍突撃すれば片が付く簡単な戦であり、戦果も功績も約束されたようなもの。
しかしハビコムたちはそうではない。敗残兵の寄せ集めのような弱敵は、重騎兵の突撃によって蹂躙され、自分たちの出番はないと決めつけていた。
唯一の楽しみは、敵の死体や遺棄物を漁ることぐらいで、たいした収穫も望めまいとして、そのやる気のなさが誰の目にも浮き彫りとなっていた。
このため、戦功を求めて先を急ぐ重騎兵部隊と、士気の上がらない歩兵部隊との間に緻密な連携などは望めず、それどころか隊形すらも崩れ、両部隊の間に大きな隙間が生じてしまっていた。
もしこれをアデルが知っていたら、小躍りして喜んだに違いない。
「あれが例の敗残兵どもか! 敵の数は少ない。左右に広がりながら突撃し、包み込むようにして蹂躙せよ!」
ホーバスはさっと後ろを一度振り返ったが、味方の歩兵部隊は遥か後方であった。
だがホーバスは構わず馬足を速める。このような弱敵に歩兵の援護など必要なしと言わんばかりに。
「見よ、敵の姿を! まさに敗残の身、鎧兜すらまともに身に着けておらぬわ」
重騎兵たちは、軽装のネヴィル王国軍を見て嘲笑った。
彼らは皆、ネヴィル王国軍を先の戦いで破った敵の敗残兵だと信じて疑わない。
なのでネヴィル王国軍が軽装であっても、それは先の戦いで逃げる際に重い鎧兜を脱ぎ捨てたのだと思っていた。
地面を揺るがす重低音を響かせながら迫る重騎兵に、ネヴィル王国軍は怯えたかのように旗を乱した。
しかしこれはアデルの命令によるものであった。
そしてさらに距離が縮まると、ネヴィル王国軍は旗を放り捨て、背を見せて逃げ出した。
軽装とはいえ、多少は泥に足を取られてその動きは緩慢であったあ、それがかえって怯え竦み、算を乱して逃げ惑う姿のように見え、それを見たホーバスは味方に檄を飛ばしながら自ら先頭に立った。
「敵を一人も逃がすな! 全軍我に続け!」
この時ホーバスがもし後ろを振り向いたとしたならば、自分たちの通った場所が白煙に包まれていることに気が付いただろう。
だが、彼の目には目の前の敵しか見えていなかった。
ガドモア王国軍の前衛部隊である重騎兵部隊が通り過ぎたのを見て、地に伏せて隠れていたネヴィル兵が用意していた枯れ木や枯葉に一斉に火を放ったのだ。
いくらか油を浸み込ませていたこれらに火が点くと最初は黒い煙を上げたが、すぐにそれは辺りを覆い尽くす白煙へと変わった。
後続の歩兵部隊を率いるハビコムは、立ち上り周囲を覆い尽くす白煙を見て、進軍を止めた。
「ええい、小細工を! しかし、どうあろうと我が軍の勝ちは変わらぬ。よし、ここで一旦停止するぞ! 迂闊に歩を進めては、同士討ちの危険があるのでな」
こうしてネヴィル王国軍は煙によって敵軍の分断に成功した。
「そろそろだな…………」
アデルがそう呟くのとほぼ同時に、背後から悲鳴と馬の悲しい嘶きが聞こえて来た。
「よし、反撃開始! 我に続け!」
そう叫んだアデルは槍をしごきながら、少年の身の軽さを活かして先頭を走り出した。
これに驚いたのは、近衛として付き従っているブルーノとゲンツ、そして全軍の指揮を預かるギルバートであった。
「へ、陛下ーー!」
「おいおい、無茶が過ぎんぞあいつめ!」
二人は慌ててアデルを追いかけるも、その背は遥か先にあった。
「貴様が大将か?」
アデルは先頭を走っていた敵の騎士に対して呼びかけるも、返事は無い。
それもそのはず、重騎兵部隊を率いる将であるホーバスは、泥土に足を取られて転んだ馬から投げ出され、泥の上でうつ伏せとなりもがき苦しんでいた。
着込んだ板金鎧の重さで立ち上がることはおろか、鉄兜の重みで顔を上げることすら出来ない有り様。
このまま放置しても泥によって窒息死するだろうが、ここはあえて自らの手でトドメを刺さなければならないと考えていた。
それはなぜか? 一言で言えば性格の問題である。
アデルは自らの手を汚さず、他人を戦に嗾けるを良しとしなかった。
味方が自分の命令によって敵の命を奪うのならば、自分もまた味方と同じく敵の命を奪い、業を背負わねばならないと。
そしてそれは、父も祖父も通って来た道であり、自分だけがそれを避けて通るわけにはいかないのだと。
アデルは敵の返答を待たずして、敵の背に馬乗りになり鎧と兜の継ぎ目の首裏に銛を刺すようにして槍先を突き入れ、手首を捻った。
ジタバタともがく手足が、二度三度とビクン、ビクンと大きく跳ねたあと、小刻みな痙攣を繰り返し力なく泥土に落ちた。
初めての殺人に、頭が真っ白となり呆然とするアデルを現実の世界に引き戻したのは、追いついたゲンツの叫びだった。
「陛下が敵将を討ち取られたぞーーー!」
それに呼応するようにネヴィル王国軍全軍が吠えた。
アデルが周囲を見渡すと、そこには一方的な殺戮が繰り広げられていた。
ホーバスと同じように、馬から投げ出された騎士たちは起き上がることも出来ずに、そのまま殺されていく。
また馬から投げ出されずに済んだ者たちも、泥土に足を取られ身動き出来なくなった馬から引き摺り降ろされ、そのまま棍棒やハンマーで殴り殺されたり、あるいは剣や槍で鎧兜の隙間を刺され、斧で兜ごと頭を、鎧ごと胸や背中をかち割られて死んでいった。
僅かに湖跡の泥土に突っ込まなかった重騎兵たちが、慌てて反転して逃げようとするが、その左右の側面からシュルト、ザウエルらが与えられていた百騎ほどの騎兵を率いて突っ込む。
「陛下、大勢は決しました。これ以上の無茶はおやめください」
膝が笑いその場で立ち尽くすアデルを、ブルーノとゲンツが脇から抱え引き摺るようにして後方へと下がらせる。
そんなアデルを心配して、ギルバートが息を切らせながら駆けつけて来た。
そしてアデルの様子を見て、これ以上の指揮は厳しいと判断すると、アデルに代わり命を発した。
「よし、敵の騎兵はあらかた片付いた。後方に控えるグリム、アムドガルの両名に伝達! 前衛に出て、煙が晴れたら前進し、敵歩兵部隊を蹴散らせとな」
ギルバートは改めて戦場を見回した。
「これほどまでに上手くいくとはな……」
おおよそではあるが、泥土に嵌った敵の騎兵は千を越えるだろう。もしかすれば、二千に届くかもしれない。
これはもうほぼ壊滅といっても過言ではない。味方の一方的な勝利である。
「敵が左右に大きく展開したのが幸いだった。この惨状を見れば敵は一目散に逃げ出すに違いない。深追いをせぬよう、今一度釘を刺しておくか」
ギルバートは突撃隊形で煙が晴れるのを待つ二将に、再び伝令を走らせた。
煙が晴れ、進軍命令を出そうとしたハビコムは、敗走してくる重騎兵を見て、一体何が起きたのかまったく理解が出来きなかった。
それは麾下の将兵たちも同じであった。誰が最初に気が付いたのかはわからない。
ありえない味方の敗北に、どうすることも出来ずに立ち竦む歩兵部隊に、グリム、アムドの両名率いるノルト王国軍が襲い掛かる。
ここでもまた、一方的な戦いが始まった。無敵のはずの重騎兵が敗れたと知った歩兵部隊の中に、武器を取って戦う者は皆無であった。
皆、手にした武器を放り出し、恥も外聞もなく背を見せながら全速力で逃げ出して行く。
逃げる敵を討つのは容易い。グリム、アムドの二人は直ちに追撃に入り、敵将であるハビコムを討ち取った。将を失った歩兵たちが蜘蛛の子を散らすように、散り散りになって逃げだしたの見て二将は追撃を止めた。
「陛下、我が軍の完全なる勝利ですぞ!」
やっとのことで冷静さを取り戻しつつあったアデルは、穂先が赤く染まった槍を掲げ、腹の底から絞り出すように勝鬨を上げた。
それに続いてネヴィルの戦士たちも、敵の血に染まった手や武器を天に突き上げながら吼えた。
「よし、次の作戦に入るぞ! まずは敵の騎兵が遺棄した旗を集めよ!」
まだ戦いは終わっていない。アデルは槍を傍らに控えるブルーノに預けると、パンパンと両手で自分の頬を張り、気合いを入れなおすのだった。




