真珠色の涙
日を追うごとにアデルとシルヴァルドの親交は深まっていった。
雪に閉ざされたノルトの冬を、二人は暇さえあれば将棋を指しながら、政治、軍事、経済などについて語り合っていた。
この二人は周囲が驚く程、馬が合った。
その日も二人は将棋を指しながら軍略について語り合っていた。
「ガドモアの第四次北伐において、シルヴァルド殿が取られた作戦は見事なものでした」
そう言うアデルにとって第四次北伐と呼ばれる戦は、父であるダレンを失った忘れることの出来ぬ戦であった。
「貴殿に褒められて悪い気はせぬが、あれは勝者敗者共に手痛い戦であったよ。皆、余の勝利を褒め称えるが、焦土作戦などを実行した者が褒め称えられるべきではないのだ」
シルヴァルドの顔が苦み走ったものに変わる。
それは当時の苦い記憶によるものなのか、それとも今盤面上における劣勢によるものなのか、アデルは判断に苦しんだ。
「ですが焦土作戦といっても、シルヴァルド殿は民を傷つけませんでした」
「傷つけたさ。余は彼の地に住む者たちから食料を奪い、飢えさせた。これだけで王として失格であろうが」
シルヴァルドは第四次北伐のおり、焦土作戦を用いたがそれは一風変わったものだった。
まず焦土作戦の場として選ばれたのは、ガドモア王国から攻め取った北部辺境部だった。
その地にある村や街から、シルヴァルドは全ての食料を徴発した。
だが、財貨には一切手を付けず、持ち出し自由とした。次いで武力をちらつかせ、人々をその地から南へと追い立てた。
「こう言って追い立てたのだ。間もなくこの地は戦場となるだろう。しからば今の内に逃げよと。されど北に逃げる事は許さぬ。なぜならば、お前たちは元ガドモアの民。我が国に組み入れられてから日が浅く、信用ならぬと」
こうして南へと追い立てられた民衆は、行く先々で食料を買い漁った。
金は持っている。ならば飢えて食料を買うのは自然の流れである。
こうして民衆たちは南下しながら、蝗のように食料を食いつくしていった。
ダレン率いるネヴィル男爵軍が同地に足を踏み入れた時には、もう既にこの地の備蓄食料は全て失われていたのである。
「確かに飢えた者もいたでしょうが、結果的に見れば強制的にとはいえ、あれは疎開させたともとれ、民衆たちは戦に巻き込まれずに済んだともいえます」
「すべては結果だ。勝ったからこそ、その行いは正しかったと評価される。その……なんだ…………父君のことは誠に残念であった…………」
アデルは返還されたダグラスらから、ダレンの最後を聞いていた。
「あれはあの時のお互いの立場上、どうすることも出来なかったのです。それでも陛下は、わが父に降伏を勧めて下されたと聞いております。それだけで…………十分です…………」
人と人とが接する以上、それがどんなに親しかろうと、わだかまりがゼロということはないだろう。
そのわだかまりごとその人を受け入れることが出来るかどうかで、器の大きさがわかるのだ。
その点において二人は、シルヴァルドは後ろめたさを感じながら、そしてアデルは悲しみを感じながら、互いを受け入れようとしていた。
それが出来たのもこの長い冬の間、直接多くの言葉を交わしたからであったかも知れない。
こういった二人の親密な関係を好まぬ者が二人いた。
一人はシルヴァルド従兄であるスヴェルケル。彼はアデルがもたらした食事による健康療法を恐れていた。
このままシルヴァルドが健康になれば、彼の王位への道が閉ざされてしまうからだ。
今一人はシルヴァルドの妹であるヒルデガルドであった。
毎年、冬は兄を独り占め出来ていたのが、今年に限って兄は異国の王と多くの時間を過ごしている。
兄を誘ってお茶会を開いても、その口から出て来るのは彼の王のことばかり。
はっきりいって気に入らない。自分から大好きな兄を奪ったアデルに対する嫉妬の炎が、メラメラと燃え上る。
彼の王から兄を取り戻すにはどうしたらいいのか? 聞くところによると、二人は暇さえあれば将棋を指しているという。
ならば答えは簡単である。彼の王に代わり自分が兄の将棋の相手をすればよいのである。
嫉妬は人を狂わせるというのは本当であった。本来ならば兄に劣らず聡明なはずのヒルデガルドであるが、この時ばかりは浅慮であったとしか言いようが無い。
名案を思い付いたと、ヒルデガルドは早速行動を開始した。
まずは兄、シルヴァルドに頼み込んで将棋を教えて貰う。妹思いであるシルヴァルドは、ヒルデガルドも退屈しているのだろうと、喜んで将棋を教えた。
シルヴァルドから直接将棋の指し方を習ったヒルデガルドは、それだけで満足していればよかったものの、妙な自信をつけて無謀にもアデルに挑戦状を叩きつけたのだ。
このヒルデガルドが抱いた妙な自信とは、この世で絶対の智者である兄から教わったということと、巻き添えを喰らって将棋を覚えさせられた侍女たち相手に連戦連勝したことによるものであった。
アデルがシルヴァルド以上に強いなどとは、露ほどにも思っておらず、今の自分ならば互角以上に戦えると錯覚していた。
こうして名目上は兄シルヴァルドと客であるアデルとのお茶会として、対局が行われた。
これをシルヴァルドは面白がって、自ら進んで審判役を買って出た。
逆にアデルは困惑の極みであった。手を抜けば良いのか、それとも本気でやらねば失礼なのかがわからない。
「えっと……ハンデは、取り敢えず飛車角落ちで……」
妙に自信たっぷりなヒルデガルドに気圧されつつ、アデルは自分の飛車角を除こうとすると、
「必要ありませんわ! そのままで結構!」
と、ヒルデガルドの鋭い敵意丸出しの声が飛ぶ。
ではそのまま、とやりにくさを顔に滲ませつつアデルは手を引っ込めた。
対局が始まった。アデルの完勝だった。
あまりにあっけない対局に、シルヴァルドは笑いを堪えるのに必死だった。
「えと、やっぱり飛車角落ちで…………」
正直なところそれでもまだ駄目だろうなと思いつつも、相手の面子を出来るだけおもんぱかる。
アデルに対する憤怒か、それとも敬愛する兄の前での羞恥によるものか、あるいはその両方か。
ヒルデガルドの白い頬に血が上る。
「それで結構よ!」
二局目が始まった。またしてもアデルの圧勝であった。
「まだよ!」
ヒルデガルドの戦意は衰えない。兄の前で、せめて一勝でもしなければ恰好がつかない。
対するアデルは困り果てていた。相手の面子を立てようにも、今更負けてもそれは手抜きだと誰が見てもバレバレ。
救いを求めるようにシルヴァルドの顔を見ても、彼はニコニコとただ笑顔を浮かべているだけ。
仕方がないのでアデルはさらに盤面の自分の駒を落とした。
正直言って素人相手でもこれはかなり厳しい。だが次の対局でもアデルは勝ってしまった。
「まだまだよ!」
と、さらに勝負をせがむヒルデガルド。
そこへ今までの笑顔はどこへいったのか、氷のように冷たいシルヴァルドの声が刺さる。
「いい加減にせよ! これ以上は御客人に対して失礼であろう!」
その声を受けてヒルデガルドの赤らんだ頬は一瞬にして冷めた。
そして次の瞬間、その両目から静かに涙が溢れ出す。
白い頬を伝う涙を見たアデルは、身動き一つ取ること出来ずに流れ落ちる涙を見続けていた。
そしてその真珠色に輝く涙をただただ美しいと感じていた。
ヒルデガルドは声を上げて泣かなかった。しゃくりあげもしなかった。
うつむき加減になったまま、大粒の涙を零すだけであった。
そのあまりの姿を見かねた侍女が駆け寄り、そっとハンカチで涙を拭う間も、ヒルデガルドは身動き一つせずに涙を流しつづけた。
彼女は兄の一声で、自分の愚かさと醜さに気が付いてしまったのだ。
それもこの世で一番それを見せたくない人に見せてしまった。
身体は動かず、もうどうしてよいかもわからない。
シルヴァルドの目配せを受けた侍女たちによって、ヒルデガルドは半ば抱えられるようにして席を立ち、退出していった。
「すまない、アデル殿。妹が失礼をした」
そう言うシルヴァルドの声に先程の冷たさは無い。
「いえ、…………こちらこそ、申し訳ない…………」
少女の涙に心を揺さぶられ、アデルには些かの余裕も無い。
「あれは、余と血を分けた兄妹。歳が離れているため妹でもあり、それでいて娘のようにも思えてな…………ほら、余には子供がおらぬゆえ…………少しばかり余に依存しすぎるきらいがあってな……」
そう言いながら、シルヴァルドは少しだけ恥ずかしそうにはにかむ。
その表情には王ではなく、一人の青年らしさがあった。
「そろそろあれも独り立ちせねばならぬ。余もいつまでも守ってやれるとは限らぬゆえ……今回のことで、その契機になればと思ったのだが……何にせよ、貴殿には迷惑を掛けた」
シルヴァルドは頭を下げた。王としてではなく、兄として。
「い、いえ……こちらこそ……どんなかたちであれ、結果として泣かせてしまいました……」
アデルは未だ動揺している。シルヴァルドは気にするなと微笑むが、あの涙は忘れられそうになかった。




