王と妹
ノルト王国の王都リルストレイムの王宮の一室で、国王であるカール・シルヴァルドとその実妹のヒルデガルド・シルヴァルドが、談笑しながら将棋を指していた。
ヒルデガルドとしては、特に将棋に興味があったわけではない。
だが、この将棋とやらを手に入れて以来、兄とのお茶を共にする回数がめっきりと減ってしまった。
そこでヒルデガルドが目を付けたのがこの将棋だった。
将棋を指すことが出来れば、兄と一緒にいられる時間が増えるという考えで、ヒルデガルドはまだ指し手も多くない将棋のルールを必死に学んだのだった。
両親が既に他界しているヒルデガルドにとって、兄であるカールは唯一の肉親であり、年の離れている兄というだけではなく父親代わりでもあったのだ。
兄弟というよりも親子。それはヒルデガルド側だけにあらず、カールの方もヒルデガルドを妹としてだけではなく、娘のように溺愛していた。
「もしも俺に勝てたならば、ヒルダが飛び上がって喜ぶであろう物をやろう」
「まぁ、それは一体何でしょう?」
「それは勝ってからのお楽しみさ」
「では是非にも勝たなくては……流石に兄様といえど、飛車角金銀落ちでは勝負になりませんわ」
「そうかな? 大分手こずっているようだが?」
ううっ、と盤面を睨むヒルデガルドの口から、悔しげな呻き声が洩れるのを聞き、カールは青白い顔に微笑を携えた。
「それはそうと、最近舞踏会に顔を出していないようではないか?」
「ええ、ここ最近はこの将棋の勉強をしていたので……」
「それだけか? 何か嫌な事でもあったのではないか?」
この兄に隠し事は出来ない。
ヒルデガルドは早々に白旗を上げた。
「…………最近、求婚の申し入れが多くて…………わたくしも女として、それはそれで嬉しく思うのですが…………」
嘘だな、とカールは笑った。
妹が求婚に対する嬉しさなど微塵も感じていたことは、その表情だけでなく、声色にも表れている。
それに妹が、恋愛や結婚相手として自分を理想としていることも知っていた。
(さてさて、どうしたものか。ヒルダを娶れば王位継承権を得られる。この最大限に甘い蜜に群がる虫どもを、煩わしく思うのも無理はない。しかし、よくよく考えると困った事である。彼らを歯牙にもかけないというのならば、何処の誰を婿に取ればいいのやら…………)
「兄様、王手ですわよ?」
「しまった。考え事をしてついうっかりしてしまった。参った」
無論これは嘘である。ヒルデガルドを勝たせるために、わざと手を抜いたのだ。
それをヒルデガルドは見抜いていたが、兄の優しさに無粋な突っ込みは無用であった。
「一体何を頂けるのでしょう? 楽しみですわ」
「ああ、少し待て。おーい」
カールは卓上のハンドベルを鳴らした。
直ぐに隣室に控えている給仕の者が駆けつける。
「あれを持って来てくれ」
「畏まりました。直ちに」
数分後、給仕の者たちが木箱を二つ持って来た。
木箱の蓋を開けると、片方からはオリーブの香りが室内に強く放たれる。
「まぁ!」
その匂いを嗅いだだけで、ヒルデガルドはそれの正体を知った。
「オリーブの良い石鹸が手に入ってな。これをお前にやろう。まだまだたくさんあるから、近しい者たちにも分けてあげるがよい」
手に取ったオリーブ石鹸をヒルデガルドに手渡すと、目を瞑りうっとりとした表情で、その香りを楽しみだした。
「後はこれだな」
そう言ってもう片方の木箱から取り出したのは、白磁の花瓶であった。
「見るがいい。お前の肌のように真っ白な花瓶だ」
「まぁ! まぁ! 綺麗! 兄様、ありがとうございます! ああ、今日はなんて良い日でしょう!」
白磁の花瓶の口を白い指でなぞりながら、ヒルデガルドは何の花を挿したら似合うかしらと、小首を傾げながら嬉しそうに笑った。
「でもこのような真っ白な花瓶をいったい何処で? 我が国の陶器といえば青ですし、隣国の物は黄ばみがかっていますのに…………」
「それはな、南の山を越えた国、最近新たに興ったネヴィルという国の物だ。近々、その国の王が余を訪ねてくるらしい」
そう言ってほほ笑む兄の顔を、ヒルデガルドは不思議そうに見つめた。
こと、政治や軍事に関する事柄で、このような顔をするのを見たのは今回が初めてであったからだ。
「我が国の威に従うということですの?」
王が訊ねて来るということは、大抵の場合そう考えるだろう。
「どうだろうな? どうも一筋縄ではいかなそうだよ。実に楽しみなことだ。そのネヴィルの王は、お前とさほど変わらぬ年らしい」
それを聞いてヒルデガルドは、それは我が国の庇護を求めるために差し出される、単なる人質ではないだろうかと首を傾げた。
「どうだ? お前も会ってみるか?」
「お断りしますわ」
ヒルデガルドは即座に断った。もし仮に人質としての意味を持つのならば、そのように晒しものにして相手の心と誇りを傷つけるような、悪趣味な真似は御免蒙りたいと思ったからである。
「話を聞く限りでは、面白い奴だと思うんだがなぁ…………」
それでも、とヒルデガルドは断った。
「まぁ、いいさ。機会があればということで…………あ、そうそう、この将棋とやらを考えたのも、その者らしいぞ」
えっ、と軽い驚きをもって、ヒルデガルドは卓上の将棋盤に目を落とした。
将棋を指せばわかることだが、これを考案したとなれば少なくとも馬鹿では無いことは確実である。
それも先程、兄が自分とほぼ歳が変わらないと言っていたことにも、驚かされる。
「どうだ? 興味が出て来ただろう? 俺は早くそいつに会いたくて仕方がない」
心ここにあらず。
将棋の駒を手にしながら、待ちきれんとばかりに微笑む兄の顔を見て、ヒルデガルドはまだ見ぬネヴィル王国の国王とやらに、軽い嫉妬心を抱いていた。
今、この時兄の前にいるのは自分であるのに、完全に自分が無視されているような錯覚に陥ったからだ。
「兄様が待ち焦がれている思い人の名は、なんと申されますの?」
妹の皮肉めいた口調に、シルヴァルドは恥ずかしそうに指で頭を掻きながら笑った。
「ネヴィル王国の国王の名は、アデル…………かの国ではミドルネームは持たないのが慣わしゆえ、アデル・ネヴィルというのがフルネームとなるな」
「アデル・ネヴィル…………」
ヒルデガルドはその名前を何度も口の中で反芻した。
(アデル・ネヴィル…………そう、アデル・ネヴィルというのね。もしそのアデルとやらが、兄様の敵になるのだとすれば、わたくしは絶対にその者を許しはしない…………そう、絶対に…………)
ーーーー
「にーちゃ、やーの、やーーーの!」
そう言って泣き叫んでいるのは、三兄弟の妹のサリーである。
サリーは小さな手でアデルのズボンを掴み、それどころか足まで絡めて右足に抱きついていた。
アデルを行かせまいとして必死な妹の姿を見て、まるでコアラのようだなとコミカルな笑いがこみあげて来る。
「さりーもいっしょ、いくーーーの!」
駄々をこねる妹を引き剥がそうとするも、意外と抱きつく力が強く、思うように引き剥がせない。
ますますコアラみたいだなと思っていた矢先、
「ぷっ、まるでコアラにしがみ付かれた木だな、アデル」
留守を預かるトーヤが、それを見て吹き出した。
アデルは一瞬眉を顰めるも、そんなトーヤを無視して溺愛する妹に足を離すようと諭す。
「サリー、いい子にしていたらお土産を一杯買ってきてやるぞ。もうすぐカインもお土産を一杯持って帰って来る。それに、これからはトーヤが毎日遊んでくれるらしいぞ、なぁ?」
アデルに話を振られたトーヤは一瞬、いいっ、と困ったような顔をしたが、アデルの足に絡みついたままのサリーの目が自分を見ているのを知り、咄嗟に笑顔を浮かべて毎日一緒に遊ぶことを約束した。
やっとのことでしがみ付く妹を振りほどくことに成功したアデルだが、ズボンの右足がサリーの涙と鼻水で濡れているのを見て、苦笑しながら肩を落とす。
「サリーにはまったくかなわないな…………では、母上…………行って参ります。」
全てを言い終わる前にアデルは母、クラリッサに抱きしめられていた。
久々に感じる母の温もり。アデルはこの心地良さの中にいつまでも、いつまでも埋もれていたかった。
そんな母の抱擁をやっとの思いで振りほどく。
母の潤んだ瞳に見つめられたアデルは、思春期にありがちな母親に対する気恥ずかしさを含んだ笑顔を浮かべた後、一歩下がってクラリッサに対して深々とお辞儀をした。
顔を上げたアデルの瞳には、もう一切の甘えは無かった。
それを見てクラリッサは悟った。
愛する息子はもう自分の庇護下を離れたのだと。少年から、一人の大人へと変貌したのだと。
そしてもう二度と、無邪気な子供には戻りたくても戻れないのだとも。
「必ず…………必ず生きて戻りなさい…………母の願いはそれだけです」
「はっ、このアデル、必ずやそのお約束をお守りすることをこの牙にかけて誓いましょう。母上も、ご壮健でありますよう。では…………」
アデルは腰に佩いた剣を、ぽんっ、と叩きながら母に誓いを立てた。
身を翻したアデルは、もう二度と振り返る事は無かった。
そんなアデルを国境まで見送るため、トーヤだけが後を追った。
「最近になってアデルは、ダレンに増々似てきおったわい…………」
見送るジェラルドの目にも熱いものがある。
「ええ…………本当にそっくり……………………」
去りゆく後ろ姿を見て涙を流しながらクラリッサは、その場で跪き、信じる神と亡き夫にアデルを守護するようにと祈りを捧げた。
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レビューを頂きました。本山本様、ありがとうございました。
大変な励みになります!
これからも頑張りますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。
カイン……………名前だけの登場。次は……次こそは必ず出します! 多分…………




