遺品
「それにしても、今から全ての用意をするとなると、早くても秋半ばとなってしまいますが…………」
ざっくりとした計算ではあるが、元商人であったロスコの見立てが、大きく外れたことは今までに一度も無い。
今は夏。ノルトへの出発の準備が全て整うのが秋と聞いたアデルは、それでいいと頷いた。
だがロスコは、何か言いたそうな表情のままであった。
「何か懸念することでも?」
「今さら口に出さずとも陛下は御承知かと思われますが、準備が整い出発するのが秋半ばだとすると、途中エフトを経由し、ノルトに着くのは晩秋となりましょう。それから話し合いや何らかの取決めなどをした場合、季節は冬になってしまうかと思われます。ノルトの冬は雪深いと聞き及んでおります…………そうしますと、道が雪に閉ざされてしまい、帰国が困難な状況に陥る可能性が…………」
ああ、とアデルとトーヤの顔が驚愕に染まった。
二人はノルトの王、カール・シルヴァルドを意識するあまり、季節の流れをすっかりと失念していたのである。
「ど、どどど、どーするんだよ! これじゃまるで、自ら進んで拘留されに行くようなもんだぞ!」
どうしよう、どうすればいい? と、アデルも顔色を青ざめさせている。
そんな二人の姿を見た大人たちは、この天才児たちの知恵の冴えの裏に隠れている、脆さや詰めの甘さに嘆息した。
「ええい、あれだけ自信たっぷりに大見得切った以上、行かぬわけにはいくまいて…………」
ジェラルドの言う通り、ネヴィル王国を代表する王が、使者に対していきなり虚言を吐いたとあっては、国の面目丸潰れなのは間違いない。
「陛下! ここはわたくしめに御命じ下さい。不肖ながら、外務大臣としての責務を全うしたく…………」
未だ目を白黒とさせているアデルの前に、トラヴィスが進み出た。
敬愛する師であり、自分の一の家臣であるトラヴィスの目を見てアデルは、この青年大臣の死を覚悟の上での申し出をやんわりと断った。
「先生、申し訳ありません。醜態をお見せしてしまい…………先生の申し出は嬉しいのですが、やはりここは自分が行かねば。今や先生はカインと同じ、エフトに対する外交の窓口。自分がノルトに行っている間はカインに国王代理を任せることになりましょう。そうすると、先生にエフトとの外交の全てお任せする事になるかと思われます。つまり、先生には残って頂かねばならないのです」
しかし、とトラヴィスが食い下がるのを、アデルは首を横に振って制した。
「もし冬山が雪に閉ざされた場合、帰って来るのは雪解け…………来年の春か…………」
「強引に雪中行軍して引き上げるか?」
トーヤの問いに、アデルは首を横に振った。
「自分を含め、我が軍には雪中行軍などの経験は無い。八甲田山の二の舞いになるのは御免だ」
アデルの言う八甲田山とは、明治三十五年に青森県で起こった、八甲田雪中行軍遭難事件のことである。
これは、冬山での行軍訓練中に遭難し、二百名あまりの死者を出した痛ましい山岳遭難事故である。
大人たちは、その八甲田山という言葉が、一体何を意味しているのかはわからなかったが、やったこともない雪中行軍に、アデルが否定的である事を理解した。
「そうだな。国王が雪山で遭難して凍死なんて、恰好つかないにも程があるもんな」
「ええい! もう賽は投げられたんだ! 行くと決めたら行く!」
もう覚悟は決まったと鼻息を荒くするアデルに、トーヤはいつもの調子で、ついついツッコミをいれてしまった。
「投げられたんじゃなくて、アデルが自分で思いっきり賽を投げつけたんだけどね」
この的確過ぎるツッコミに、アデルは言葉も無く肩を落とした。
ーーーー
会議が終わった頃にはすっかりと陽が沈み、夜の帳が降りていた。
「母上…………これを見たら、また悲しむだろうな…………」
再び布に包まれた折れた宝剣を抱え、トーヤがぽつりと呟いた。
最近になってやっと明るさを取り戻しつつある母の、あの日の悲嘆にくれた泣き顔を、アデルもトーヤも二度と見たく無かった。
母の悲痛な泣き顔を想像し、自然と足が止まってしまう二人を見て、ジェラルドはトーヤから包みを取り上げると、儂に任せよと言って歩き出した。
「心配するでない。あれもネヴィルの女子。クラリッサは儂の義娘よ。それにお前たちの母でもある。その母の強さを、しっかりと目に焼き付けておくがよい」
ジェラルドの後に続くアデルとトーヤは、あの栗鼠のように軽やかで愛らしい母に、祖父の言う強さというものが、果たしてどこにあるのだろうかと、疑問に思わずにはいられない。
そうこうしているうちに、三人とその後ろを守る護衛のブルーノは、門をくぐり抜けて館の玄関へと到着する。
帰ったぞと言いながら、ジェラルドが扉を開けると、直ぐにその声を聞きつけて、クラリッサと給仕の者たちが玄関へと駆けつけて来た。
「お帰りなさいまし」
「うむ、ようやっと倅が帰って来おったわい。ほれっ」
そう言いながらジェラルドは、宝剣の包みを解いて見せた。
半ばから折れ、無残な姿を晒す剣を見て、クラリッサは思わず息を飲む。
「…………まぁ……………………あなた……………お帰りなさい……………」
そう言ってほほ笑む白い頬に流れる一筋の涙。
給仕の者たちも、それを見て啜り泣く。
母の涙を見たアデルとトーヤも、耐え切れずに肩を震わせながら涙を流した。
「再び葬儀を行う。空の棺には、この剣を納める。それまでは、儂が預かる。よいな?」
二人は泣きながら頷いた。
そんな二人の頭を、クラリッサはやさしく抱きしめた。
二人を抱きしめているクラリッサの目に、もう涙は無かった。幼いころのように、二人が泣きやむまでそのまま抱きしめつづけた。
折れた宝剣を持ったまま、ジェラルドは自室へと戻った。
程なくして鈴を鳴らして給仕を呼び、ワインを一本と杯を二つ持ってくるように言いつけた。
それらを給仕が持ってくると人払いをし、自ら二つの杯にワインを注いだ。
「…………親不孝者めが…………」
小さな呟き。だが、その声には深い悲しみが満ち溢れていた。
蝋燭のぼんやりとした明かりの中、ジェラルドは血錆びに塗れた宝剣を、黙って磨き続ける。
「これで、儂もクラリッサも踏ん切りがついたわい。お帰り、我が息子よ…………ゆっくりと休むがよい…………」
どれだけの時間磨き続けたのだろうか。
翌朝アデルとトーヤの二人が見た宝剣は、折れ、刃こぼれはそのままではあるものの、残された刀身は以前の輝きを取り戻していたという。
それから三日後、アデルは父であるダレンの死を認め、国民に三日間の喪に服すよう布告を発した。
また、ダレンに王位を追贈して、ダレンを第二代ネヴィル王国国王とし、自分はネヴィル王国第三代国王となった。
そして第二代国王となったダレンの国葬が行われた。
ダレンの墓は既にある。だが、棺の中は空であった。
その空の棺を掘り起し、中に戻って来た宝剣を納めたのだ。
その一部始終を見ながら、アデルはあることを考えていた。
(棺に納める遺品があるだけ、父上は幸せなのかも知れない。父上と共に散った同胞たちは、遺髪も遺品も戻っては来ないのだから…………そうか…………遺品か…………)
葬儀が終わって一段落つき、日常が戻るとアデルは、ある物を鍛冶師や細工師に命じて作らせた。
それは、細い鎖を通した小さな二枚の金属板だった。
それを見たトーヤは、それが何かすぐにわかった。
「認識票か?」
「うん。これを全軍に支給しようと思う。これならばあまり嵩張らないし、こんなものでも、もしかしたら遺品の代わりになるかも知れないと思って…………」
そう…………だね…………と言いながら、トーヤはアデルの首から下がっている認識票を手にとった。
質素な真鍮製の認識票には、国旗の三頭狼の絵とアデル・ネヴィルの名が刻まれていた。
「僕の分は無いの?」
そう言って手を差し出す、アデルは無言でズボンのポケットから取り出した認識票を渡した。
「用意がいいね。カインの分もある」
トーヤは早速受け取った認識票を首に掛けた。
飾り気の全くないくすんだ黄色の認識票。王や王族が身に着けるには、あまりにも素っ気ないそれを指で弄びながら二人は、満足気に頷くのであった。
後にアデルの命により、全軍の将兵に認識票が配られた。
認識票には三つ首の狼の絵、名前と軍籍番号が記されている。
最初は戸惑う将兵らも、その内にこの認識票を授けられることが、一人前の戦士の証しであるとし、本来の用途の他にも、ネヴィル王国軍の誇りの象徴の一つとなっていった。




