62五・一五事件
一九三二年、世界は暗転していた。アメリカ発の世界恐慌が荒れ狂い、並み居る列国が悲鳴を上げる中、我が日本だけは是清様の財政政策、金融政策、そして犬養首相の英断、加えて涼宮の資本力によって、奇跡的な回復基調にあった。
アメリカでは失業者が溢れ、フーバー大統領が無策を晒す絶望の淵にあるというのに、この国は内需拡大の波に乗って新たな活気を見せている。次の大統領にフランクリン・ルーズベルトが選ばれるのはもはや確定的。世界が歴史の曲がり角に立つ中、私はほんの束の間、嵐の前の静けさを楽しんでいた。
「一樹、いつか以来だね。ここで食事するのって」
キャンドルの炎が揺れる帝国ホテルのレストラン。私はワイングラスを傾けながら、目の前の旦那様に微笑みかけた。
「ああ。俺がプロポーズした、思い出の店だな」
一樹は事もなげに言ったが、私はぴくりと眉を動かした。
「・・・あれプロポーズだったの? 私はてっきり振られたかと思ったわよ」
「いや、俺はどうも恋愛ってやつは苦手でな。ただ、見合いの席に座らされる前に、自分の気持ちだけは伝えておきたかったんだ」
「あら、そうだったかしら? あの時、自分の気持ちをはっきり口にしたのは私だけで、にいは何も言わなかったじゃない?」
私がジト目で睨むと、一樹は少し照れくさそうに、けれど勝ち誇ったように笑った。
「そうだったか? でも、お前が俺にゾッコンだと知った時は傑作だったなぁ」
・・・。
「・・・いっぺん、死んでみる?」
私がかつてないほど冷ややかな笑みを浮かべると、一樹は一瞬で背筋を伸ばした。
女の子の方から告白させるとか、最低の極みだよ。
「ねえ、一樹は何時から私のこと好きだったの?」
「お前が十五歳くらいの時かな」
「・・・うわぁ。立派なロリコン。引くわ」
私は椅子を少しだけ引いて見せた。
「失礼だな! この時代なら十五歳は立派な結婚適齢期だろう。俺が変態みたいじゃないか」
「自覚がないのが一番怖いわ。いい? 令和の感覚ならまだ子供よ?」
時代の差と言われればそうだけど、十五歳の子供に懸想するなんて納得がいかない。すると一樹が溜息をつきながら反論してきた。
「いいか、正直なところ今の方が俺は揶揄されてるんだぞ。お前は相変わらず歳を取らないだろう。四十を過ぎた俺の妻が、社交界じゃどう見ても女学生以下にしか見えないんだ。おかげで俺の趣味は相当ヤバいヤツだと思われてるんだからな」
「私に言わせれば、十五歳の私に惚れていた方がよっぽどヤバいわよ」
まあ、私の実年齢は隠しているわけではないし、一樹が心配するほど好奇の目で見られることもないでしょうけれど。
「ねえ。あの時のやり直し、しようよ」
「やり直し? 何でだよ」
私はテーブル越しに一樹の手を取り、小悪魔的に首を傾げた。
「私の乙女心が納得しないのよ。今の一樹なら、少しは気の利いた口説き文句くらい出るでしょう? 改めて、私にプロポーズしてよ」
だが、一樹は私の乙女心を無視して、どこまでもマイペースだった。
「いや、そんなことより、アメリカから喜劇王のチャップリンが来日していてな。一緒に見に行かないか? 来週末のチケットが取れたんだ」
「ちょっ・・・! 待って? 何でチャップリンがもう来ているのよ!」
私は思わず身を乗り出した。今日は五月八日。史実で五・一五事件が起きる一週間前。海軍将校たちの反乱は、チャップリンの来日に合わせたという説がある。彼さえも暗殺の標的だった・・・。
最悪の予感が背筋を駆け抜けた、その時!
「逆賊、涼宮鷹尾! 庶民の生き血を啜る財閥の悪魔め、成敗だ!」
店内に怒号が響き、海軍の軍服姿の男たちが抜身の軍刀を手に乱入してきた。
「待ちなさい、話せばわかるから!」
・・・ああ、私はなんてベタなフラグを! 東北の貧困対策には尽力した。ロンドン軍縮条約も、史実より遥かに有利な条件。なのに、どうして?
「財閥が私腹を肥やし、庶民を蔑ろにしているのは明白! 天誅だ!」
「やめろ。お前らは馬鹿か?」
その時、近くの席から男が一人、静かに立ち上がった。その顔を見て、私は絶句した。 西田税! 二・二六事件の首謀者となるはずの彼を、私は武官として英国へ送り込んだはず。なぜここに?
「そこをどけ。誰かは知らんが、正義は我にあり!」
「正義だと?」
西田が冷徹な声を響かせる。
「この方が東北の貧困対策にどれほど助力されたかを知らんのか。俺の妹も身売り寸前だったが、涼宮財閥の援助で救われた。十年前の凶作を思い出せ。この方が品種改良した苗を無償で配ったおかげで、今がある。それでもお前らに正義があると言うのか?」
「俺の妹は売られたんだ! 涼宮なんて知らない!」
「俺もだ、作物は二束三文で買いたたかれた!」
テロリストがテロリストを諭している・・・。奇妙な光景に呆然としていると、周囲の客たちが次々と立ち上がった。彼らは私を守るように壁を作った。
「いや、俺の家族は涼宮に救われたんだ!」
「俺の家もだ、妹を売らずに済んだ!」
・・・そうか。インフラの届かない場所で、一瞬のタイムラグで救えなかった人たちがいた。私は唇を噛めた。
「この方を害するなら、俺たちを斬り殺して行け。俺たちは、お前たちの言う庶民だ。俺たちを殺して行うことが、果たして正義なのか?」
「・・・うるさい! お前達になど何がわかる!」
「そこまでだ、憲兵だ!」
なだれ込んだ憲兵隊が、実行犯たちを包囲する。
「しまった・・・! だが、今頃官邸では仲間が・・・!」
「お前ら海軍は、ロンドン軍縮条約や統帥権干犯を口実にしているようだがな」
西田が静かに告げた。
「その陛下が先程、自ら近衛師団を率いて出陣された。官邸の反乱軍を鎮圧するためにな。一体、誰の権を犯したと言うんだ?」
「・・・ば、馬鹿な! 俺は国のための・・・!」
「そうだ! 政治家も財閥も汚職まみれだ。銀座で嘔吐するほど飲み食いする奴がいる一方で、俺の村では餓死者が出ているんだぞ!」
彼らの魂の叫びに、私は静かに問いかけた。
「だからと言って、それを軍人のあなた方が変えられるといいますの?」
「涼宮伯爵の言う通りだ」
西田が続けた。
「富める者から税を取り、地方を潤す。真に貧しい者を救えるのは、法に基づく政府だけだ。だから陛下は犬養首相を擁護されている。お前たちは、考えが浅はかすぎる!」
誇りを砕かれた将校たちは項垂れ、憲兵に引き立てられていった。
嵐が去った後、西田が私の方を向き、深く頭を下げた。
「閣下・・・あの時、貴女が仰った言葉の真意がようやく理解できました。英国で、独裁体制となったソ連の惨状を見てきたのです。人民を犠牲にするうわべの理想。・・・犬養首相が進める税制改革こそが、正しい道筋だったのですね。故郷の東北が豊かになった今、ようやく自らの過ちに気づきました」
「・・・気が付いていただけたのですね。一言申し上げた甲斐がありましたわ」
稀代の思想家が、迷妄から帰還した。歴史という巨大な歯車が、一人の男の改心によって正しく回り出す。信じられない奇跡に、私はただ震える指先で、私を庇って抱きしめる、一樹の手にぎゅっと力を籠めるしかなかった。
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