60豊作恐慌1930
一九三〇年、秋。日本の穀倉地帯は、黄金色の海となって揺れていた。しかし、その美しさは残酷な死の宣告でもあった。史実において、この大豊作は豊作恐慌という冷え切った海に叩きつけられ、米価をタダ同然へと急落させる。
だが、この世界線には私がいる。 私はすでに農業調整法という名の楔を打ち込み、地主たちへの作付け制限と補助金によって、農村崩壊の瀬戸際を食い止めていた。
「・・・茜。お腹が空くと、人は正気を失うわ。私はこの国の食卓と農家に、永遠の安心を届けたいの」
私の呟きに、側近の茜が小首をかしげる。
「して、どのようになさいます? お嬢様」
「すぐに犬養首相と高橋是清様との面会を取り付けて。この国に食糧管理法を制定させるわ」
今この瞬間に動けば、収穫の波が押し寄せる前に間に合う。昨年、あえて導入を見送ったのは、実際に地獄の淵を覗かなければ、人は真の救済の有り難みを忘れるからだ。政治には時として、劇的な救いの演出が必要になる。
「善十郎、全国の備蓄サイロの建設状態は?」
「はい。既に七割方完成しております。収穫期には、すべてが立ち並ぶ予定でございます」
流石は善十郎。投機筋が安く買い叩ける、と舌なめずりをするその裏で、我々は着々準備していたのだ。
「大韓帝国の米も、状況は同じなのよね」
「お嬢様、他国まで助けるおつもりですか?」
「まさか、そこまでお人好しじゃないわ。ただ、日本のやり方を早く見せれば、彼らも倣うでしょう?」
「お嬢様、本当にお優しいのですね」
珍しく茜が殊勝なことを言う。くすぐったい気分を隠すように、私は話題を変えた。
「善十郎、人口データと東北の就業人口データは用意できるかしら?」
「こんなこともあろうかと、すでにご用意しております」
差し出された資料には、私の知る史実とは異なる希望のある数字が並んでいた。日本全人口、八千万人。一樹による抗生物質の普及が、本来失われるはずだった命を救い続けていたのだ。さらに、工業化による出稼ぎの現金収入が、農村から娘の身売りの二文字を消し去りつつある。
「善十郎、小松製作所のトラクターはどう?」
「試験は順調に。・・・まさかお嬢様、ご自分で実演販売をなさるおつもりで?」
「・・・お戯れを、なんて言わせないわよ」
実際、冗談ではなかった。 米英帰国の際に発行された私と茜のグラビアは、重版に次ぐ重版で世間を騒がせている。今や私はちょっとしたアイドルなのだ。時折テレビに出演しては、お茶の間の話題を独占している。 ・・・不満なのは、茜の方が人気があること。そして、彼女が三十路にも関わらず、二十代のような若さと、私より数段立派なお胸を維持していること。この件は、これ以上考えまい。
「・・・翌年の予測収穫量、そして適正価格のグラフ。完璧ね」
涼宮農業試験場が弾き出したその未来予測を手に、私は立ち上がった。 優秀な人材たちが先回りして整えたこの舞台。私はそれを携えて、犬養首相と高橋蔵相の待つ永田町へと乗り込む。
「さあ、このデータという名の暴力で、古臭い経済の理屈を書き換えてあげましょう」
十月。米価の暴落という目に見えぬ嵐が吹き荒れる直前。私は、長く連なる大型トラックの車列を従え、東北の山間に位置する静かな村へと降り立った。
視界を埋め尽くすのは、皮肉なほど見事な黄金色の海。本来ならば歓喜に沸くはずの大豊作が、いまや農民たちの首を絞める無慈悲な縄となっていた。
「・・・すまねえ、お花。お前を町へ出すしか、この家が生き残る道はねえんだ」
古びた農家の土間。泥にまみれた拳を床に叩きつけ、一人の男が慟哭していた。その傍ら、粗末な着物に身を包んだ少女お花は、運命を悟ったように清らかな瞳を伏せ、ただ静かに震えている。外には、冷酷な眼差しで商品を値踏みする女衒の車が、獲物を待つ獣のように居座っていた。
私は、その重苦しい沈黙をヒールの音で踏み砕き、断りもなく家の中へと踏み込んだ。
「さあ、もう心配しなくていいわ。――あなたのお米、私に売ってくださらない? 去年の二倍の価格でね」
私がにっこりと微笑んだ瞬間、村の空気を震わせる強烈なディーゼルエンジンの駆動音が響き渡った。女衒の薄汚れた車を道端へ蹴散らすように現れたのは、磨き上げられた漆黒のボディに涼宮財閥の金文字が輝く、最新鋭の大型トラック。
その助手席から、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした紳士が、優雅な所作で降り立った。 私の自慢の旦那様、一樹である。
「お待たせ、皆さん。涼宮農業試験場、ならびに涼宮ロジスティクスだ」
一樹は、茜と善十郎に羽交い締めにされて縮み上がる女衒たちを、ゴミを見るような冷徹な眼光で一瞥した。そして、呆然とする村人たちの前で、一通の重厚な書状を掲げる。
「本日より、涼宮財閥は日本政府の代行として、本村の余剰米を昨年と同額で全量買い上げさせていただく」
「な・・・同額だと言ったか!?」
「ああ。さらに、涼宮に売ってくれるというのなら、奨励金を上乗せして二倍で買い取ろう。・・・それから」
一樹はさらに畳みかけるように、凛とした声で宣言した。
「日本政府より、本日付で農家給付金を各戸へ現金で支給する。これは自由に使ってほしい。来年の種籾については、涼宮農業試験場が無償で最高級のものを提供することを約束する」
その合図と共に、トラックの重厚な荷台が跳ね上がった。 そこには、目の眩むような現金の束。飢えた子供たちのための涼宮特製非常食。そして、鈍い銀色の輝きを放つ小松製作所製トラクターや最新鋭の耕運機が、まるで未来からの福音のように整然と並んでいた。
絶望に支配されていた村が、一瞬にして驚愕と、そして震えるような希望に包まれていくのを、私は静かに見つめていた。
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