53ウィンストン・チャーチル
「・・・あら、そうなの? 夕食はチャーチルさんとローストビーフを囲みながら、シャンパングラスを傾けてポンドの未来を語り合う。そんな素敵な夜を楽しみにしていたのですけれど」
私の言葉に、執事の善十郎が手帳をパラリと捲りながら、至極冷静に答える。
「お嬢様、残念ながら彼は今この瞬間も、ホワイトホール(財務省)で冷徹な数字の羅列と格闘しております。ですが・・・」
善十郎は、どこから仕入れたのかも知れない「チャーチルのスケジュール」の一節を指し示した。
「もしお嬢様がお望みであれば、彼がそこにいないことなど許されるはずもございません。我が涼宮家の招待を無下にするというのなら、こちらから官庁街へ乗り込めば良いのです。・・・むしろ、数年後に訪れる『世界恐慌』という地獄をまだ知らない無知な今の彼を説得する方が、我が財閥にとっては利益が多いかもしれませんぞ」
「ふふ、そうね。彼が絶望の淵に立たされる前に、『本物の経済学』というものを叩き込んであげましょう。ケインズ氏の批判との答え合わせも兼ねてね。・・・それにしても善十郎、1926年の彼は本当にゼネラルストライキの鎮圧で忙しかったのね?」
「左様でございます。お嬢様なら『戦車を出すより、効率的な物流網を築くべきだ』と、流通革命でも突きつけそうな場面ですが・・・。ロンドンではぜひ、彼に『平和の守護者』としての正しい『教育』を施して差し上げてください」
私達は、夕食の誘いを「多忙」の一言で一蹴された不愉快さを胸に、フレデリック・リース=ロス氏の事務所へと足を運んだ。場所はまさしく英国の心臓部、ホワイトホール。
「モルガン・スタンレーのラモント氏のご紹介で伺いました。日本の華族、涼宮鷹尾でございます」
「夫の一樹だ」
「執事の長門善十郎と申します」
「ど・・・「あほの茜ですわ!」」
茜が名乗るより早く、私はニヤリと彼女を見上げた。この子、無駄に背が高いからこういう構図になるのよね。いつか物理的に見下してやりたいものだわ。というか、最近私、主人なのに茜に見下されている気がするのだけれど・・・気のせいかしら?
「フレデリック! 何故忙しいワシを無理やり連れ出した? 日本の貴族のご令嬢と歓談だと? ワシはそんなに暇ではない! それとも何か、ワシの心は少女の癒やしを必要とするほど荒んでいるとでも言いたいのかね!」
部屋に飛び込んできたのは、不機嫌を絵に描いたような男——ウィンストン・チャーチルその人だった。
「その答えは言うまでもなく『イエス』でしょう、閣下。あなたには癒やしが必要です。・・・もっとも、この方は癒やしなど一欠片も与えてはくれませんが」
リース=ロス氏が、苦笑混じりに私を見た。
「ラモントから聞いたのですよ。閣下につける『劇薬』があると。私としては、この機会を逃す手はありません」
薬? 私が? 人を劇物扱いするなんて、失礼しちゃうわね。
「美しいご令嬢、気を悪くしないでいただきたい。この御仁は少々頑固でしてな」
「・・・失礼ですが、お嬢様はただの令嬢ではございません。正真正銘の伯爵、そして涼宮家の当主その人です。言葉にはご注意を」
善十郎の冷徹な訂正に、リース=ロス氏が慌てて頭を下げる。
「これは失礼した! まさか、この若さで日本の伯爵その人であられたとは。どうかご容赦を」
「フレデリック! 相手がどこの誰だろうが、ワシには時間がないのだと言っている!」
吠えるチャーチル。私は扇子を優雅に閉じ、静かに、けれど部屋の空気を凍らせるような声で告げた。
「あら、そんなにお忙しいのなら、お引取り願ってもよろしくてよ? 私はただ、手持ちのポンドを全て金に換金して帰るだけですから。善十郎? 今のレートで、我が家のポンドはどれほどの金に替えられるかしら?」
「20トン程度かと。アメリカとの取引が多いため、ドルに比べれば微々たるものですが」
「「・・・!!」」
チャーチルとリース=ロスの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「ま、待ちなさい! それだけは・・・それだけはどうかお止めください! 大英帝国経済が崩壊してしまう!」
「あら、破壊しているのはあなた方ではなくて? 労働者に喧嘩を売って、無事に済んだ国家など歴史上存在しませんわ。私が金を求めるのは正当な自衛策です。・・・それを止めたいなら、その馬鹿げた強情を今すぐお捨てなさいな」
「・・・まるでケインズのような口ぶりだな」
チャーチルが不機嫌そうに吐き捨てる。私は、待ってましたとばかりに微笑んだ。
「その通りですわ。では、ケインズ氏の『批判』と、あなたが直面している『現実』の答え合わせをしてみましょうか? ポンドを高く設定しすぎた。輸出が売れなくなった。企業が赤字になり、賃金を下げた。労働者が反発してストライキが起きた。社会が混乱し、経済はさらに悪化した・・・。 あら、全問正解ですわね。これ、1925年の予言ですのよ。まるで未来予知ではありませんこと?」
「「・・・」」
二人は言葉を失い、立ち尽くした。
「鷹尾、皮肉が過ぎるぞ。ケインズ氏の批判より、お前の言葉の方がよほど心臓に刺さっているじゃないか」
一樹が苦笑するが、これは必要な儀式なのだ。ラモント氏によれば、二人は閉塞感の中で出口を探しているという。ならば、まずは自分たちの愚かさを骨の髄まで理解していただかなくては。
「チャーチルさん。実力と10%も乖離したポンドの価値を守るために、民を奈落へ突き落とすのがあなたの言う『大英帝国の威信』ですの? 金融界のメンツのために国民を犠牲にする。それがあなたの愛する英国の姿?」
「待て・・・ワシは、ワシは決してそのような傲慢なつもりはない! この国を愛し、民を憂う気持ちは誰にも負けん。・・・ワシも、ケインズの言うことが・・・」
「大方、イングランド銀行総裁の意見を退ける勇気がなかったのでしょう? それにリース=ロスさん。あなたも金利を下げたいという彼の提案を『悪手だ』と止めた。違いますか?」
「その通りだ・・・。だが、金利を下げればフランス人がポンドを金に換える。それは防がねばならなかった」
「ならば! 何故ポンドのレートを10%切り下げないのですか!? 男のプライド一点のために、電車を止め、バスを止め、国民の生活を止めるなんて正気の沙汰ではありませんわ。採掘地域の失業率は20%! 労働者の手取りは10%減! 今すぐ金の交換レートを下げなさい! 労働者を弾圧している暇なんて、今の英国には一分一秒もありませんことよ!」
私が畳み掛けると、二人はまるで叱られた子供のように肩を落とした。
「・・・レートを10%下げ、米仏と協調して金利を下げる。そして、政府支出による積極的な景気刺激策を打つのですわ」
「それでは・・・それでは経済学の常識、均衡理論から外れてしまう!」
チャーチルの悲鳴のような反論を、私は鼻で笑った。
「均衡経済? 大英帝国が元の輝きを取り戻すために必要なのは、過去の栄光への固執ではなく、未来への投資ですわ。ドイツとの戦争で疲弊しきったこの国に、もはやメンツという名のギャンブルにベットする余裕なんて、欠片も残っていないはずですわよ」
「・・・投資、だと? 未来への投資だと言うのか?」
チャーチルが、短くなった葉巻を灰皿に叩きつけるようにして立ち上がった。顔を真っ赤にし、怒りと困惑を綯い交ぜにした表情で私を凝視する。私は優雅に紅茶を啜り、ピシャリと言い放った。
「ゼネストという反乱を招いたのは、あなたの選んだ『数字』。・・・誇りでパンが買えますの? このまま高すぎるポンドに固執すれば、数年後、アメリカのバブルが弾けた時に英国は文字通り瓦解しますわよ。その時、あなたの言う誇りは紙屑以下の価値になりますわ」
「未来が見えているような言い草だな、お嬢さ、いや伯爵」
チャーチルの声が、低く響く。
「・・・だが、20トンの金による脅し、冗談では済まされんぞ」
「あら、冗談になんてさせません。・・・でも、もしあなたが私の『教育』を受けるというのなら、その20トンの金、英国の産業近代化のための『融資』に切り替えて差し上げてもよろしくてよ?」
「融資・・・だと?」
チャーチルの目に、政治家としての鋭い輝きが戻った。
「戦車で労働者を威圧する代わりに、トラックで未来を運ぶ方へ賭けなさい。閣下、あなたなら『嵐』が来ることくらい予見できているはず。ならば、今そこにある暗雲から目を逸らさないでくださいな」
私は立ち上がり、手袋を整えた。
「答えは、今夜のローストビーフの味で決めさせていただきますわ。・・・あ、そうそう、シャンパンはポル・ロジェをご用意ください。あなたのお気に入り、でしょう?」
「・・・フン、調べがついておるというわけか。癪だが、空腹では思考も鈍る。フレデリック、行くぞ! この小生意気な東洋の賢者に、英国産ローストビーフの『厚み』というものを教えてやらねばならん!」
不機嫌そうに帽子を掴むチャーチルだったが、その口元には、どこか楽しげな、不敵な笑みが浮かんでいた。
「お嬢様、お見事でございます。どうやら『英国の再生』への第一歩は、食事から始まるようですな」
善十郎の皮肉めいた称賛を背中に受け、私はホワイトホールの重い扉を蹴破らんばかりの勢いで後にした。さあ、ポンドの未来を買い叩きに行きましょうか。
あら? 私ってば、まるで英国を救うアニーみたいではありませんこと?
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