飼い主が風邪をひいたのだ。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。そんな事を以前誰かが言っていた。
吾輩は今、風邪で寝込む阿呆の胸の上に乗って顔を覗き込んでいる。するとどうだ、阿呆も忌々しそうにこちらを見ている。
なるほど、たしかにこちらが見ていると向こうも見てくる。なんだ、深淵とか難しい単語を使っているが当たり前の事を言っているだけではないか。わかってしまえば大したことはない。
「おい、重たい、降りろ……」
ずいっと両手で掴まれて床に降ろされる。せっかく心配して見てやったというのに、感謝の言葉もないなんて。まったく、これだから人間は。
吾輩はもののけである。名前は特に無いが最近は「けだま」と呼ばれている。見た目のまんまである。吾輩の見た目が饅頭型の毛玉のようなフォルムをしているからのようだ。失礼な話だ。もっとましな呼び方があるはずなのだ。
吾輩は流浪の身である。日本各地を旅する流れものだ。今は訳あって須藤という人間に飼われている。人間みたいな貧弱な生き物に飼われる日がくるなんて、数年前は考えたこともなかった。風邪で寝込むような弱っちい生き物に飼われるなんて……まったく情けない話だ。
須藤は人間である。無口である。基本何も発しない。男子大学生というものはこんなに無口な生き物であったとは須藤に会うまで知らなかった。
須藤は吾輩の好物であるファ◯チキとチャ◯ちゅーるを定期的にくれる。その代わりに吾輩は家にいてやる事で須藤の役に立っている。先日、テレビの中の小さな人間が言っていた。こういう関係を「うぃんうぃん」と言うらしい。変な言葉だ。
ん? なんだその目は。やめぬか、その疑いの眼差しを! ふん、わからないかもしれぬが吾輩のような偉大な存在が家の中にいる、それだけで吾輩は須藤の役に立っているのだ。何の役に立っているかというと、それは秘密だ。教えてやれぬ…………なんだその目は! とにかく吾輩と須藤はうぃんうぃんなのだ。
吾輩は人間よりも高貴な存在である。崇め奉られるべき存在である。しかし須藤は人間のくせに吾輩の扱いが雑だ。たまに末代まで呪ってやろうかと思うが今はまだ許してやっている。吾輩はとっても心が広いのだ。
あ、そうそう。須藤は吾輩の声が聞こえる珍しい人間である。本来、人間には高貴な吾輩の声は理解できない。以前出会った子どもは吾輩を見て「お母さんこの子『もふもふ』言ってる! かわいい! なでなでしたい!」と言った。
吾輩は紳士なので幼き者に優しくすることを心がけている。その時吾輩はかわいいと言ってきた子どもに擦り寄ってやった。そして子どもが飽きるまでなでなでさせてやった。
べ、別にかわいいと言われたからなでなでさせてやったわけではないぞ。絶対に違うのだ。
さて、本題に入るとしよう。
須藤が風邪をひいたのだ。朝、吾輩の朝ご飯であるチャ◯ちゅーるとちくわを出した後、気がつけば倒れておった。テレビの中の人間どもがやっていた「どっきり」なるものかと思ったが、ふざけている気配はない。顔が赤いのでそっと額を触ってみると熱くて火傷するかと思った。須藤は自分の体で湯でも沸かすつもりなのだろうか。
おい、須藤、何をしている。床で寝ると風邪をひくぞ
「五月蝿い、もうひいてるみたいだ。体がだるいし動かない……」
こうして須藤は静かに息を引き取った……
「勝手に殺すな……」
これが須藤の最期の言葉となった……
「おい。そろそろ怒る……ぞ……」
ごめんなさい…………ん? 須藤? おい、須藤、どうした須藤! おい!
この後須藤は寝てしまった。しかもあろうことか吾輩お気に入りの風がよく通る廊下でだ。悩んだ結果、お気に入りの場所を取り返すために須藤の体を廊下から引きずり出すことにした。
どう運ぶか思案した結果、髪を引っ張ることにした。須藤の髪の毛をぐわしと握る。深呼吸して呼吸を整える。気合を入れて、思いっきりー引っ張る!
ふんっ!
ぶちぶちっ……(髪が抜ける音)
髪が束で抜けただけで須藤の体は全く動かなかった。くそう、なんて弱い髪だ。吾輩は抜けた髪の毛をゴミ箱に捨てる。仕方がないので須藤のスウェットを引っ張ることにした。
服が伸びたら怒られそうだから嫌なのだが、髪が軟弱なので仕方がない。スウェットの右肩部分を引っ張ってベッドに向かう。
ずりずりずりずり……(須藤を引きずる音)
ぐえっ……(苦しそうな須藤の声)
襟元が首に食い込んでいたようだ。寝てはいるが須藤が苦しそうな顔をしている。ふん、寝込んだ須藤が悪いのだ。我慢してもらうしかない。
吾輩は再びずりずりと須藤を引きずる。
どんっ(須藤の体がテーブルにぶつかる音)
どさどさっ(テーブルから本が落ちて須藤の顔が埋もれる音)
やっちまった……
須藤の顔が見えなくなった。起こしてしまったかもしれぬ。これは怒られる。べ、別に怒られるのが怖いわけではないぞ。怖くもなんともないのだ。でも、一応な、一応何事も起きてからでは遅いのだ。警戒するに越したことはない。
「うっ……」(須藤の呻き声)
どどどどどどど……(けだまが大慌てでベッドの下に逃げ込む足音)
吾輩ちゃう、吾輩ちゃうぞ! 吾輩は何もしてへん! 勝手に本が落ちただけや。吾輩は触ってない! 絶対に勝手に落ちた。触ってへんしなー、吾輩は触ってへんしなー。置き方が悪かっただけや絶対。ぜった…………い? お、これは、セーフか?
そーっとベッド下から顔を出す。須藤は微動だにしない。これはセーフだ。忍び足で近づき、ゆっくりと顔の上の本を除けていく。最後の一冊を除けてゆっくり須藤の顔を確認すると、須藤は目を見開いていた。
ひっ!
どどどどどどど……(再びベッドの下に逃げ込む足音)
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさ…………い?
なにも音がしない。声もしない。そーっと振り返る。須藤は動かない。もう一度須藤の側に近づく。やはり須藤の目は開いている。
こわっ! おまっ起きてるなら何か言えよ! 焦るだろうが! 吾輩でも驚くことはあるのだぞ。心臓に悪いわ! ……あ? ……須藤? 須藤さーん? もしもーし? あ、目を開けたまま寝てる……
あー怖がって損した。こないだ須藤のファ◯チキ勝手に食べた時やばかったからなー。マジでお気に入りのバスタオルを燃やされるかと思ったもん。綺麗な顔してやることがえげつないねんなーこいつ……はぁ……
吾輩はそっと目を閉じさせてから再び須藤を引っ張り始めた。須藤を引っ張り始めて一時間後、ようやくベッドの下まで連れて来られた。
さて、吾輩では須藤をベッドの上に運べぬ。いくら高貴な存在でも自分より重たいものを宙に浮かす事はできぬのだ。須藤には悪いがここで我慢してもらうとしよう。そうだな、布団ぐらいはかけてやろう。
ばさー(ふとんをベッドの上から投げかける音)
吾輩は優しいなあ。須藤はもっと吾輩を敬うべきである。はあ、もう疲れた。少しだけ休んでもいいかの…………
………………三時間後………………
ふと目が覚める。気がつけばベッドの上でしっかり寝てしまっていた。少し腹が減った。ベッドの下を見る。須藤はまだ寝ている。早く元気になってもらわないと誰が吾輩の食事の用意をするというのだ。はよ元気になれ、阿呆め。
仕方がない、吾輩が看病してやろう。あ、でも看病って何をすればいいのかわからんな。とりあえず側で見つめておけばよいか。どこから見つめようか……そうだな胸の上にしよう。
………………二分後………………
じーっと見続けていると須藤が目を覚ました。すごく不機嫌そうな顔をしている。
「おい、重たい、降りろ……」
須藤はそう言って吾輩をずいっと降ろす。
おい、須藤、看病してやった吾輩に対してなんだその態度は! 礼も言えんのか!
「え? ああ、ありがとう……」
ふん、そうだ、それでいいのだ。寝込んでいる須藤はつまらん。はよ元気になれ
「悪かった。あと少し寝たら元気になるから……」
本当か? なら仕方がない。側で待っていてやるわ。感謝しろ
「なんでそんなに偉そうなんだよ……でも、なんか安心する。ありがとう……」
数時間後、須藤は元気になった。
しっかり睡眠をとったから治ったはずなのだが、けだまが自分の看病のおかげだとうるさいので須藤はしぶしぶファ◯チキを一週間毎日買い与えることになった。
しかし、須藤には腑に落ちないことが二つあった。
一つ目、知らぬ間に頭頂部に小さな十円ハゲができていた。ストレスが原因かとも思ったが触るとヒリヒリする。抜いた記憶はないがゴミ箱にはたくさんの自分のと思われる髪が捨てられていた。
二つ目、顔に何かをぶつけたようなあざや傷がいくつもできていた。口の横には大きな青あざができていたので、大学に行ったら周りから喧嘩でもしたのかと心配された。しかし、やはり顔をぶつけた記憶もない。
けだまに何度か聞こうとしたが、その話をしようとするとけだまはいつもどこかに姿をくらます。怪しいとは思いつつも証拠がないため詰め寄れない須藤であった。




