4 全ては貴方の為に
すみません長いです。いつもの2倍近くあります。
目の前に、10歳前後の少女が居た。
下ろしたプラチナブロンドの髪は背の半ばまである。大きなアメジスト色の澄んだ瞳が、小さな俺を映していた。
「大丈夫よ。怪我は酷くないわ」
なんてことないように言った彼女の頬は、大きな白いガーゼで覆われている。手も、足も、白の包帯に包まれていて、とても痛々しかった。
ーー暗殺。
王太子の婚約者としての仕事の一つとして、孤児院の慰問があった。
まだ婚約者の段階だったから、仕事はそこまで多くない。未来の王太子妃、王妃だというアピールと、早いうちから好感度を上げておこうといったものだった。
その慰問の帰り道。エリザベス嬢の乗っていた馬車が襲われたのだ。
主犯は、国内の伯爵令嬢。
しかし、公に出来る程の証拠が無かった為、伯爵令嬢が罪に問われる事はなく、盗賊の仕業という事になった。
部下からは適当に証拠を作れば良いと言われたし、俺もそうしようとしていたが、被害者であったエリザベス嬢がそれを拒否したのだ。
代わりに俺が直接伯爵令嬢と父親である伯爵に話をつけに行って、示談となった。
俺に惚れたらしく、婚約者の存在が邪魔だった。
そんな、身勝手な動機だった。
俺が話をつけに行ってから直ぐ、伯爵令嬢の父親であった伯爵は爵位を王国に返還。問題のご令嬢と家族を連れて王国から出て行った。
死罪になるよりはマシ。そして、名誉も傷付かない穏便なやり方をお勧めしたら、伯爵がその通りに動いただけだ。
それでも目の前の少女に怒られたのだけれど。
彼女は、お人好しすぎる。
「そんな泣きそうな顔しないで。包帯とガーゼで酷く見えているだけなのよ」
「……酷く見えるって……、実際酷いだろ」
「そんな事ないわよ。だってこうして起き上がれてる訳だし」
「ちゃんと寝て。俺の心臓に悪いから」
ベッドで上半身を起こして、朗らかに笑っている彼女の手は、微かに震えていた。
まだ10歳前後の女の子なのだ。怖かったのは当たり前。
無理して気丈に振舞っている彼女を、とても強いと俺は思った。
下手な慰めを、彼女は必要としないだろう。
怖かっただろうから、存分に甘えろと言っても、彼女はきっと胸の内を誤魔化す。
俺は彼女の手を両手で優しく握り込んだ。壊れ物に触るみたいに、大切に扱った。
俺は卑怯だから、彼女が拒否出来ないように懺悔に近い形で言ったんだ。
「助けられなくて、護れなくて、ごめん。次は危険に晒さないとも言えなくて、ごめん」と。
我ながら、酷い言葉だったと思う。
どんなに抗っても、俺と彼女の地位は、そういうものだから。
それでも、彼女は微笑んで頷いた。
「いいわよ別に。アルはもっと大変な思いをしてきたでしょう?これ位でへこたれてたら、やっていけないわ」
俺は無意識に、彼女の手をギュッと少しだけ力強く握り締めた。
「ーーーーっ」
目を開いて、少しだけ固まった。
見慣れた天蓋付きのベッドに横たわったまま、薄暗い部屋の中を見渡す。
さっきのは、夢だったのか。いや、昔の記憶を思い出しただけ。
そう結論付けて、ゆっくりと起き上がった。
カーテンを開けると、濃紺から黒の空に煌めく星屑が散りばめられていた。
冬の夜空は美しい。昔も、今も、よく眺める。
夜着の上から毛布を肩に掛け、何気なくベットサイドに立て掛けていた長剣を手に取る。
王太子という地位に相応しい装飾がされた、ほぼ飾りに近い剣。いつも腰に下げているものだ。
少し動かすと、シャランと軽い澄んだ音をたてて、飾りの鈴や宝石が鳴った。
鞘から抜くと、俺の瞳と同じ碧色の刀身が姿を現す。
そこに鏡のように映った俺自身の顔は、今にも泣きそうで、歪んでいた。
「目の前で自殺だけは止めてくださいよ」
「っ?!⋯⋯なんだ、おまえかよ」
いきなり背後から掛けられた抑揚のないテノールの声に肩が跳ねる。叫び声を堪えた自分を褒めたい。
振り返った先にいたのは、黒髪黒眼の何処にでも居そうな平凡顔の二十代半ばの男。全身を黒い服で統一し、この寝室の闇に紛れるように静かに佇んでいた。
ベルンハルト王家直属暗部。
闇と影に紛れ、ベルンハルト王家の為に一生を捧げる者達を束ねる男ーーそれが目の前のアンクだ。
俺の教育係でもある。一部の人しか知らないし、表立って言えないが。
「えー、王子ー。まさか、自殺を選択する程そこまで追い詰められていたとはー⋯⋯くっ、私とした事が気付けなかったー⋯⋯」
「おまえ⋯⋯大根役者だな」
全文棒読みの無表情で言い切ったアンクに、思わず呆れた視線を送った。
それを平然と、というか、無表情のままアンクは受け止める。そして、口を開いた。
「で、結局王子は自殺したかったんですか?」
「そんな訳ないだろ。剣を磨こうとしただけだ。まあ、必要無かったけどな」
汚れ一つない刀身を見せる。例え飾りでも、いざという時使える方が良い。
聞いてきた割にふぅんと気のない返事を返したアンクは、淡々とした声で続けた。
「なんでこんな夜遅くに剣を磨こうとしてたんですか?」
「眠れなかっただけだ」
「へぇ、祟られましたか?」
「何でそうなる……。そんな非現実的な事を信じる訳ないだろ」
昼間、レンドルにも言われた言葉に思わず遠い目をした。
「まず私が信じてませんよ。……しかし、昔、王族には青だか、紫だかの血が流れているという迷信を気にしていた人とは思えない台詞ですね」
昔からベルンハルト王国に伝わるお話。
魔物が溢れ返っていたこの地に降り立った軍神様が、とある村娘を見染め、結婚し、この王国を作った。その軍神様の血を引いている王家の人間の血は、青いらしい。等というものだ。
確かに俺は、気にしていた。
自分は他の人間と全く違う生き物なんじゃないかって。
「……エリに言ったら、『じゃあ、アルは神様達が住む世界に行っちゃうの?』と返されて、気付いたんだ。俺が居られるのは此処しかない。例え人間でなくても、俺はこの世界でしか生きられない。そう考えたら悩むのが馬鹿らしくなった」
平民でもない、貴族でもない。王族としてしか、俺は生きられない。
王族という名に、生まれた時から縛られている。
「姫も中々可愛らしい事言いますね。ま、王族は魔力が強いだけの人間ですよ」
「だな。昔転んで擦り傷作った時、赤い血が出た」
余談だが、アンク達暗部の人間は、エリザベス嬢の事を“姫”と呼ぶ。
外見がお姫様みたいだから、なんだと。
「……王子、成長しましたね」
「……それは……何?身長の事?」
「王子の被っている猫がとんでもなく図太くなったという事です。身長は心配しなくても伸びてませんよ。むしろ縮みました?」
「嘘だろ?!」
「嘘です。現状維持ですよ」
それはそれでどうなのか、とも思ったが、よくよく考えてみるとアンクと最後に会ったのはつい最近だった。
「それで、何の用?」
「王子が自棄になってないか、胃に穴が開いてないか、見に来ました」
……自棄に、ね。
まあ、以前の自分だったら、とうの昔にキレていただろう。この足掻いても抜け出せない状況に。
でも、耐えなければならない、理由がある。
フッと半ば見下したような笑みを浮かべ、腕を組んだ。尊大な態度でアンクを見る。
「それは、おまえ達次第だな」
「そうでしたね」
暗部の働きに、全てが掛かっている。
まだ、足りない。だから、自棄になる訳にはいかない。
「俺はいつも通り、皆の理想の王太子様を演じる。敵にだって、嫌いな奴にだって、媚を売ってやる。だから、おまえ達は俺の事は構わずに全力で任務を遂行しろ」
「分かってますよ。ちゃんと仕事はします。でも」
「俺は大丈夫」
言い切った俺に、アンクは少しだけ表情を変えた。
無表情から、ほんの少しだけ、困惑した色を滲ませる。
「……本当に申し訳ありません。全ては我らの責任です」
「いや、おまえ達だけのせいじゃない。気付けなかった俺も悪い」
「しかし」
「裏切り者がいた。始末をした。だけど、全部間に合わなかった。それだけの事。今は裏切り者が何処と繋がっていたのか調べる事と、リーゼンバイスとの国交をどうするかを考えるべきだ。戦争を回避する為に」
無理矢理話を終わらせた俺に、アンクはもう何も言わなかった。言っても無駄だと思ったのだろう。
代わりに溜め息を一つつき、「報告です」と声の調子を重々しいものに変えた。
アンクが雰囲気をガラリと変えると同時に、部屋の空気も変わる。それに呑まれないように、俺は身構えた。
「リーゼンバイスは、王太子を寄越して来るそうですよ。王妃様が上手くやってくれているお陰で」
「へぇ、フリードか。まあ、人選としては悪くないか。留学生としてくるのか?」
「ええ、恐らく。向こうも3ヶ月間の留学になる可能性が高いですね」
リーゼンバイスとの国交が保たれているのは、王妃様のお陰だ。直ぐに戦争にならなくて、本当に良かった。
「そして、王妃様からの言伝です」
「言伝?」
「ええ、借りは返せと」
「……まあ、かなりの無茶振りをしたからな」
一国の戦争を延期させろだなんて、無茶振りもいい所だ。
一体どんな内容かーーと、アンクから受け取った紙を広げてみて、拍子抜けした。
本10冊分。王妃様の要求はそれだけだった。
いや、でも貴重な書物なのかもしれない。
「分かった。直ぐに手配させよう。他には?」
「いえ、以上です」
恭しく一礼したアンクは、去らずにそのまま佇む。
「……どうした?」
訝しげにアンクを見る。
アンクは少し迷っていた様だったが、いつも通りの淡々とした口調で聞いてきた。
「王子。姫を殺したんですか?」
何の前触れもなく、いきなり出た話題に俺は一瞬息を止めた。
呆然とアンクを見返す。
だけど、瞬き1つする間に平静を取り戻し、真っ直ぐアンクを見据えた。
これはアンクに試されている。
態度を間違えてはいけない。常に、王太子は冷静でなければならない。
俺の一挙一動を事細かに観察するアンクは、まるでこれから魂を狩る死神のように俺を監視していた。
冬の寒い空気が、更に凍った気がした。
「⋯⋯愚問だな。お前だってその場に居ただろ?」
「ええ、そうですね」
アンクが頷いたと同時に、重苦しい雰囲気が霧散する。
どうやら、合格だったらしい。
「リーゼンバイスの王太子には、くれぐれも気を付けて下さいね。余計な事は悟られない様に」
「分かってる。あいつを敵に回すと厄介だからな」
無意識に張り詰めていた力を抜き、冷たい空気を吹き飛ばすように魔法で部屋の暖炉の火を灯す。
温かみのあるオレンジ色に照らされて、部屋とアンクの顔がほんの少し見えやすくなった。
「本当に、よくやりましたね。流石、次期国王。よっ、血も涙もない冷血漢」
「馬鹿にしてるよな。それ」
鞘から抜きっぱなしの長剣の剣先を向けると、相変わらずの無表情で軽く両手をヒラヒラと上げた。
「やだな。冗談ですよ。王子が血も涙もない冷血漢なわけないじゃないですか。もしそうだったとしたら、私の首はとうの昔に無くなってますって。うちの王子はとても温厚で、優しくて、泣き虫で、ヘタレの腰抜け野郎ってちゃんと分かってますから」
「やっぱり馬鹿にしてんだろ?!」
ハァと深々と溜め息をつきながら、剣を鞘に戻す。そして、部屋にある水差しの水をコップに注ぎ、飲み干した。
冬の寒さで冷えた水が、喉を通っていくとなんとなく目が冴えた気がする。
「王子。ちょっと調子戻りましたね。やっぱり王子はいじられキャラの突っ込み役じゃないと。大人びた王太子キャラなんて似合わないですよ」
「いじられキャラの突っ込み役てなんだ?」
「そういう所ですね」
まだ、婚約者とも出会っていない頃から仕えてくれている古い部下は、ほんの少しだけ口元を緩ませた。
王妃様と婚約者と暗部の部下達。
酷く閉鎖的な環境で育った俺は、このほんの一部の人間しか心から信用出来ないし、素を見せない。
王妃様と婚約者は居なくなった。
もう俺の側にいるのは、暗部の部下達だけ。
だから、アンクと話す他愛のない会話が、とても楽しかった。
気は緩んでいなかったと言えば、嘘になる。
「王子、死にませんよね?」
「ーーえ?」
「戦争を回避する方法は、幾つかあります。リーゼンバイスの方に有利な貿易条件を提示するか、リーゼンバイスの属国に下るか、無血開城するか、他にも方法はあるでしょう。ーーでも、」
アンクの言いたい事がなんとなく分かって、俺は黙り込んだ。
追い打ちを掛けるようにアンクは言い募る。
「一番簡単なのは、王族の首を差し出して不戦敗になる事ですよね」
そして何も言わない俺に向かって、片膝を床に付け、アンクは頭を垂れた。
「私達暗部の者は、貴方様と命運を共にする所存で御座います。私達の全ては貴方様の為に。それが私達闇に生きる者達の存在理由であり、存在意義です。私達は知っています。貴方様の努力を、苦労を」
スッと顔だけ上げ、アンクは真っ直ぐに俺を見据える。
黒曜石のように煌めく黒眼には、目を背けたくなる程の忠誠心が宿っていた。
「王子。それを簡単に捨てて、命を投げ打つなんて、しませんよね?」
参ったなあ。なんだか、泣きそうだ。
俺は王太子や国王なんて器じゃないのに。
「…………それは最終手段だ。たまにおまえ達の忠誠心が重いと感じるな」
俺の苦労を知っていてくれる人が居る。応援してくれる人がいる。
きっとそれは、何にも代え難い大切なものだ。
だけど俺は感情を込めない無機質な声で、アンクを突き放した。
優しくされると甘えてしまいそうだから、ここから逃げ出したくなってしまいそうだから。
長い付き合いの部下はそれを察してくれたらしく、一礼して俺に背を向ける。
そして、「あ」と間抜けな声を漏らした。
「なんだ?」
「バイゼン皇国が不穏な動きをしているので、気を付けて下さいね?」
「………え?は?!ちょ、おい待て!!」
俺の呼び止めには応えずに、アンクは搔き消えるようにして姿を消す。
思わず伸ばした腕をダランと下ろし、俺は深々と溜め息をついた。
「……バイゼン皇国か」
別名、砂漠の永世中立国。我がベルンハルト王国は東にリーゼンバイス王国、西にバイゼン皇国と挟まれている。
もう一つの隣国が一体何をしているというのかーー。
ふと、窓越しに見上げた冬の夜空に掛かる月は、妖しく俺を照らしていた。
“何か”とんでもないものを建築(立てて)してしまった気が……。




