記憶と悪夢
夢を見た。
また、あの日の悪夢だ。
ミアはあの優しい切れ長の目で、俺の目をまっすぐに覗き込みながら、言ったのだった。
「ねぇ、タカシ。青い空が見たいの」
無理もない。モグラのような生活が続いていた。移動は専ら地下を走るカプセル型モーターカーで、久しく地上を歩いていなかった。
腕にはめた小型レーダーを見る。研究所で俺が作ったものだ。オオカミが接近すればその位置と距離を正確に感知する……はずだった。
何の反応もレーダーに映っていないことを確認すると、俺は重たいシェルターの扉を開け、彼女の手を繋いで外へ出た。
青い空はそこにはなかった。
紫色がかった空に灰色の細長い雲がたなびいており、瓦礫と化しているビル群と相まって、まるで世界はもう終わっているかのような景色だ。それでも空を仰ぐとミアは腹いっぱいに外の空気を吸い込み、気持ちよさそうに笑った。
「やっぱりヒトには外の空気が必要ね!」
終末のような景色の中で、これから始まる楽しい未来を語るように、ミアがその唇を動かした。
「地下に篭ってばっかりじゃ、悪いことしか考えられなくなるわ」
「そうだね」
ミアの無邪気な笑顔に、俺はくすっと笑った。
「一刻も早く君があかるい空の下を散歩できるように、オオカミ対策の研究を急ぐよ」
「きっと出来るわ。あなたはわたしが選んだひとだもの」
そう言って俺を見つめたミアの笑顔が眩しすぎて、ずっと瞼に焼きついている。
「ちょっと向こうまで歩いてみましょうよ」
そう言われて俺は腕のレーダーに目をやった。反応はなかった。
「あんまり遠くまでは行けないよ? 反応があったらすぐにシェルターに戻らないと──」
「わかってる。でも、あなたの作ったそのレーダーがあれば安心じゃない。ちょっとだけ、ね? いいでしょ?」
二人で瓦礫を避けて、平坦なアスファルトの上を並んで歩いた。景色は荒れ果てていたが、風がやわらかく二人の間を流れていった。
「海が見たいな」
ミアが、ぽつりと言った。
「もう随分、あの広くて青い景色を見てないもの。……懐かしいな」
少なくとも二人で海を見たことはなかった。
それまで鉱物研究施設だった地下研究所の食堂でアルバイトをしていた彼女と知り合い、仲良くなり、交際を始めた頃に、ちょうどオオカミが地球に襲来し始めたのだった。
増えすぎた人口対策に、ちょうど地下都市の建設を人類は進めていた。人間は皆、地下に潜り、オオカミどもから身を隠した。地上は地獄絵図と化してしまった。
地下の教会で彼女と結婚式場を挙げた。
しかしハネムーンなどにはとても行けなかった。青い海に囲まれた南の島での思い出作りなど、人類にはまるで数世紀前の夢物語のようになってしまっていた。
「ねぇ……、タカシ」
紫色の空の下、瓦礫の町を歩きながら、少女のように振り返り、ミアが言った。
「オオカミがいなくなったら、一緒に海を見に行きましょうよ!」
「そうだね」
俺は力強い笑顔を彼女に見せながら、約束した。
「必ずオオカミは俺たちが何もとかする。やつらの脅威を一日も早く取り除く。君と安心して青い海を見に行けるようにね」
その時、何度も夢で繰り返し聞いた、その音が鳴った。
腕にはめたレーダーが突然、けたたましいほどの警告音を鳴らし始めたのだった。
そんなはずはなかった。俺の作ったレーダーはオオカミが半径100km以内に近づけば感知し、接近に伴って徐々に警告音を大きくする。いきなり鳴り出したレーダーは、オオカミが既に5km以内まで接近していることを報せていた。
オオカミは進化していたのだ。俺の思い上がっていた自信を嘲笑うほどのスピードで。
ミアの手を取り、シェルターへ向かって走り出した俺の背後の空から、オオカミどもがやって来るのが見えた。
そのうちのほとんどは別の方向へ駆けて行ったが、2体がこちらを感知したようで、まっすぐに俺たちのほうへ駆け降りて来た。
俺に手を引っ張れられながら、ミアは子鹿のような悲鳴をあげながら、しきりに謝った。
「ごめん、タカシ! わたしが外に出たいなんて言ったから……!」
「いいから走れ!」
シェルターはすぐ目の前だった。
万が一に備えて扉は開けてあった。
オオカミの1体がすぐ後ろに迫り、緑色の巨大なカタツムリのようなその目で、俺たちを捉えた。
汗で手がすべった。
ミアの手が、離れてしまった。
「タカシ!」
ミアがその手で、俺の背中を強く突き飛ばした。
「タカシ! タカシ! ──あなただけでも生きて!」
振り向いた俺が見たのは、シェルターの扉を外からボタンを押して閉めながら、まるで豆腐のように砕け散るミアの姿だった。
目を開けると頬が涙で濡れていた。
研究所の仮眠室だった。精を注ぎ込みすぎたようだ。ベッドに体を横たえた時の記憶がない。
壁に浮き出た数字が朝の4時47分を告げている。2時間と少し眠れたようだ。
もう、未来はないと思い込んでいた。しかし時は俺に前へ進めと背中を押している。
ベッドから身を起こすと、いつも重たい体が少しだけ軽く感じた。コーヒーメーカーから紙コップにブラックコーヒーを注ぐ。意識が徐々に覚醒する。
アーリンに会いたくなった。あれからずっと再会を望んでいるが、こんな夢を見た後は、殊更に彼女と会話がしたい。
オオカミを滅ぼしてもミアは戻って来ないと思っていた。何よりオオカミの進化に勝てる気がせずに、俺はずっと絶望していた。生きる意味など、なかった。人類がどうなってももう構わなかった。
しかし、彼女との約束が、また俺を前へ進ませてくれる。
アーリンに、会いたい。
あれからオオカミの襲来は止まり、ゆえにシルバー・アーリンの出現もこの辺りでは確認されていない。アメリカのどこかで戦闘はあったらしいが、それはアーリンと同タイプの、別の人間型兵器であることが確認されていた。
部屋の扉が鋭い音を立てて開いた。
戦士のように体格のいい、白衣に白髭の老人が、入って来るなり俺を睨みつけるようにしながら、低い声で言う。
「お疲れ、大神くん」
「おはようございます、所長」
俺は所長が訪ねて来たことに少し驚き、思わず身を固くする。
藪龍所長は回転椅子にドカリと音を立てて腰掛けると、また俺を睨むように見た。約半年も研究所に来ていなかった俺のことをまだ許していないのだろうか。
その半年間、俺は妻を失って生ける屍となっていた。後を追って死ぬことも出来ず、研究員仲間との連絡も拒絶し、ひたすら無為な毎日を送っていた。
研究員仲間は新婚の妻を失った俺の心情を察し、復帰した俺を暖かく笑顔で迎えてくれた。しかし所長だけは違った。このひとはとにかく情よりも論理ですべてを判断する。オオカミへの恐怖だの妻を失った悲しみだので心を折った俺を、みんなの意向に抗えずに迎えてくれはしたものの、『心に闘志なき者に研究員の資格なし』と役立たず扱いにしている。
「……俺もコーヒーをもらおうか」
勧める前に所長がそう言い、俺はコーヒーメーカーから紙コップに琥珀色の液体を注ぐ。香ばしい湯気が部屋に漂った。
所長がコーヒーを所望するのは長話が始まる前兆だ。それは一方的な説教ではなく、質疑応答のようなことをする前に、所長はコーヒーを欲しがる。
コーヒーを一口啜ると、所長が聞いた。
「シルバー・アーリンと会話をしたそうだな」
「はい!」
「なぜそれを早く俺に報告せん?」
もちろんその報告は真っ先に所長にしようと思っていた。しかし俺を役立たず扱いにして、取りつく島もなかったのだ。俺が「すみません」としか言えずにいると、「まあ、いい……」と所長は質問を始めた。
「あれは一体、何だ? 我々の味方なのか?」
所長の問いに、アーリンから直接聞いた通りのことを話した。
「オオカミから人類を守り、地球に平和をもたらすのが使命だと言っていました。どこかの組織が彼女を作り、遣わしたのだと……」
それ以外のことは聞かれても答えられなかった。どこの組織が作ったのかだとか、アンドロイドなのかそれともサイボーグなのかだとか、それは俺にもわからなかったからだ。
ただ、アーリンがミアの記憶をもっていたことは所長には言わなかった。どうせセンチメンタルな軟弱者の戯言として聞き流され、それどころか俺への評価が下げられてしまいかねない。
「それで……」
所長が紙コップのコーヒーを飲み干し、俺に聞く。
「君はシルバー・アーリンと仲良くなったのか?」
俺は即答した。
「はい!」
嘘じゃない。彼女と心と心で繋がった気がしたのだ。オオカミを滅ぼしたら、一緒に海を見に行く約束をしたのだ。
所長はそんな俺を鼻で笑うと、言った。
「──ならば、彼女に頼んでくれんか。オオカミの残骸サンプルを提供してくれるように」
考えつかなかった。
確かに、オオカミの体を分析すれば、我々にとって有益なものが得られるかもしれない。特にあの目玉だ。あそこから発射される緑色の光線がどういうものか、それがわかれば──それを防ぐ鎧を身に纏って抗戦出来るかもしれない。今まではそんなサンプルなど入手する望みもなかったが……
「わかりました」
俺は力強く、頷いた。
「今度、彼女に会ったら、頼んでみます」
「ウム。……あと、これも聞いておいてくれ。彼女はなぜ、あんなにかわいいデザインをしておるのだ? オオカミと戦うのにあのかわいさは要らんだろう。ただの機械の形でいいはずだ。女性型である必要も……」
警報が響いた。
依吹隊員の甲高い声がスピーカーから報せる。
『オオカミ来ました! 南西の方角からです! 街南部の人口島の方向へ向かっている模様!』
俺と所長は顔を見合わせた。
オオカミが来た……
と、いうことは──アーリンもきっと現れる!




