12.北方守護のレイランド家
『レイ』――それはレイドラグ国において『最上』を意味する。同時に王家のみに許された姓である。
時を遡ること約三百年前。
当時の王――アーサー=レイドラグによって、レイドラグ王国は治められていた。多少の諍いはあれど、国を揺るがすような変事は起こらず、レイドラグ王国は太平の世を謳歌していた。
しかし、そのつつがない平和は一人の王女によって終わりを告げる。
問題の王女の名は、『ステイシア=レイドラグ』といった。
国王と正妃は長年子に恵まれなかった。
周りは何度も側室を迎えるようにと国王を諭したが、国王は頑として頷かなかった。正妃との仲は悪くなく、むしろ歳を重ねても往事の熱意そのままに、互いが互いを愛していた。
だが残念なことに、仲の良さと子の有無は相関しない。
待てども待てども王妃との間に子は出来ず、いよいよ傍系から立皇嗣することも話し合われた。
しかしそこへきて、その憂いを払う報せが飛び込んできた。
――アーサー国王、齢五十にして第一子、ステイシア王女を授かる。
基本的には男系が継承優先とされるが、直系であれば女でも王として立った例は過去にはある。
これで、この国最大の憂いであった後継問題は解消した――かに思われた。
憂いは二十年後に再び芽吹く事となる。
「ステイシアはどこへ行った!」
ある日突然、ステイシアが姿を消した。
王宮内は荒れに荒れ、国王と王妃は狼狽した。
年老いてから授かった子というのもあり、二人はステイシアを蝶よ花よと溺愛して育ててきた。その娘の姿が見えないとあって、王妃は嘆きに暮れ、国王は朝政も上の空だった。
ステイシアが王宮から消えて、一週間が経とうとしていた。
「あぁ、ステイシアにもしもの事があれば、私……私っ!」
「大丈夫だ、きっと帰ってくるさ」
そうは言いつつも、王宮の誰しもが絶望的な気持ちに襲われていた。
しかしそんな中、一つの吉報が王宮に届く。
――ステイシア王女らしき女性が北方で目撃された、と。
すぐに北方に捜索隊が派遣され、遂にある村でステイシアを見つけることができた。
しかし、ステイシアは王女とは思えぬような出で立ちだった。
元々の容姿が良いおかげでどうにか下位貴族の風体くらいには見えたが、それでもやはり質素な衣服に身を包んだ姿は平民のようだった。
桜貝のような艶やかな爪には土が詰まり、絹のような肌も薄汚れ、自慢の林檎のように赤い髪も煤けて赤褐色になってしまっていた。
「ステイシア殿下、陛下も心配なされております! 早く王宮へ!」
捜索隊の者達は、彼女の手を掴み急ぎ王宮に連れ帰ろうとした。
しかし、ステイシアはその手を払った。と同時に、彼女を庇うように一人の青年が捜索隊と彼女の間に滑り込んできた。
「お願いします! スティアを連れて行かないでください!」
スティア――ステイシアはこの村では『スティア』と名乗っていた。
「どうかお父様とお母様には、ステイシアは死んだとお伝え下さい」
どうやらステイシアは、今彼女をその腕で守るようにして抱いている青年と恋仲にあるようだった。
青年は、この村一帯を治めるランド男爵家が令息の『ラルス=ランド』といった。
一応、貴族ではあるものの、男爵位などあって無いようなものだ。実際には地方豪族としての性質の方が強いと言っても過言ではない。
国に混乱を招かないように、王女失踪の件に関しては王宮内の秘事に留めていた。
その為、村民達は王女であるステイシアがこのような辺境にいるとは夢にも思わず、ラルスの恋人のどこぞの令嬢が来ているくらいにしか捉えていなかった。
騒ぎを聞き付けた村民達は、自分達の領主息子の恋路を令嬢家の者達が邪魔しにきたのだろうと思った。村民達は、心優しく農作業さえ厭わずに手伝ってくれる、貴族らしからぬラルスを慕っており、そのラルスの恋人を奪おうとする捜索隊に牙を向けた。
さすがに捜索隊の面々は、自分達では判断が付かないと一旦は王宮へと引き返した。
報告を聞いた国王は、自らの足で北方へと赴いた。
旅路の車中で国王は長嘆した。
「その若者を婿として迎える事が出来れば、問題はなかったのだが……」
婿にするには余りにも地位が低すぎる。
それ以上に周りの貴族連中が、自分よりも身分の低い者を王と仰がなければならないことに納得しないだろう。事実、その貴族連中の間では既に婿に――次期国王に相応しい者の名が列挙されていた。ステイシアのあずかり知らぬところで。
「これが侯爵――いや、せめて伯爵位以上であってくれれば……」
そうすれば全会一致とはいかずとも、そこまでの反対意見も出てこなかっただろう。
捜索隊からの報告は国王のみならず、失踪の件を知る王宮中の貴族達にも勿論伝わっている。当然ながら誰一人として良い色は見せなかった。
それどころか相手の青年が男爵位と知ると、「それであれば、私の息子の方がまだ……」とあわよくばを狙う者達も出始め、政争の兆しを見せ始めていた。
政争を起こさないために側室を拒み続けたのだ。
それが今、待ち望んでいた唯一の子によって再び沸き起ころうとしている。
「ままならんのう……」
国王にとって北方への旅路は、苦悩の行程となった。
「頼むから、素直に王宮へ戻ってきてくれ」
「お父様が何度言われても、私は王宮へは帰りません!」
「ステイシア……」
場所は、ランド家屋敷の一室。
先程から国王とステイシアの間では、この問答ばかりが繰り返されていた。そんな二人の様子をラルスが心配そうに見やる。
「――スティア、やはり僕は君に相応しくない。君がここに来てくれたことは、とても嬉しかった。君のためなら僕も、家も爵位も捨てられる。だけど君はダメだ。君の代わりはどこにも居ない。この国にとって唯一無二の王女様なんだ」
「私にとってラルスも唯一無二よ! ラルスにとっての私もそうじゃないの!? 何でそんな事言うの!?」
ステイシアは椅子を跳ね倒し席を立った。ラルスを睨み付ける瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れている。その雫を拭いもせず、ステイシアは顔を国王へと向けた。
「私はもう子供じゃありません。一時の高揚を恋だと勘違いしてはしゃぐ小娘じゃないんです! 私はこの人を――ラルスを心から愛してるんです。愛した人と共に居たいと願うのは我儘でしょうか!?」
顔を真っ赤にして肩で息をするステイシア。初めて彼女が見せる激情に、国王は瞠目した。
「……ねえ、お父様。お父様だってお母様を愛していたからこそ、側室をとらなかったのでしょう? なのに、私は国のために……いえ、貴族達の体面のために心を殺さなければならないのですか」
過去の自分の行いを出され、国王は言葉に詰まった。
「……王女の位を捨てても良いと思う程にか?」
「彼と共に居られるのならば、喜んで手放しましょう」
「王宮でのような暮らしは出来ないぞ?」
「今更です」
言って広げたステイシアの手は、国王が知っている白魚のような、庇護される者の手ではなかった。
涙の痕を乱暴に袖で拭う姿は、国王の知らないステイシアだった。
国王はラルスに目を向けた。
「ラルス卿、君はこの子を支えきれる自信はあるのか? はっきり言って、ステイシアと君では育ってきた環境が違う。絶対どこかで価値観の相違が起こる。それに、もしステイシアを妻として迎えても、彼女を社交界に連れ立つことも、他の貴族家の前で妻としてお披露目する事もかなわないだぞ?」
ラルスは眉を下げておかしそうに笑った。
「本当、そうですね。毎日こちらが驚かされることばかりで……雑巾の絞り方も分からないと言った時には、それはそれは驚きました」
ステイシアは顔を赤くし、国王は額を押さえた。
「しかし、そんな彼女との毎日が僕はとても楽しいんです。僕は他家に見せびらかすような妻が欲しいわけではありません。彼女と共に在れるのであれば、二人きりの辺境の地でも荒れ地でもどこだって構いません。さっきは格好付けた事を言いましたけど……僕にとっての唯一無二は、後にも先にも彼女一人だけなんです」
「嬉しいっ! ラルス、愛してるわ!」
ステイシアは飛び込むようにしてラルスに抱きつき、その胸に頬ずりする。
その王宮では見せたとこのない様なステイシアの笑顔に、国王は目を閉じ沈思した。
「――ステイシアは死んだ」
ステイシアとラルスの顔が強張った。
「と、言う事にする」
「お父様……っ!」
国王の言葉の意味が分かって、ステイシアは表情を綻ばせた。
「元々ステイシアが出来なければ、傍系の後継を立てるつもりだったのだ。選択肢が二十年前に戻っただけと思えば、大きな混乱も起きまい。むしろ貴族達の余計な諍いが減って、少しは王宮も落ち着くだろうて」
「ありがとうございます、お父様! お父様がもし無理矢理連れ帰るようでしたら、北の国までラルスと逃げようと思っていたんです!」
「お前なら本当にやりそうだな……こんな娘だが、ラルス卿、よろしく頼んだよ」
「必ず。最後のその時まで共にある事を誓いましょう」
国王は満足そうに頷いた。車中の苦悩が嘘のように晴れていた。
「もしかしたら私は、こうなる事を心のどこかで望んでいたのかもしれんな――」
村の外から見えたステイシアの姿。
質素な衣服を纏ってはいたが、その輝くような笑顔は、王宮で見る時の何倍にも彼女を美しく見せた。
その姿に、国王は安堵と同時に連れ帰ることに躊躇いを覚えたのだった。
「ステイシアの名は今この場で捨て、これよりはスティアとして――ラルス卿の妻として生きていきなさい」
「――っお父様ごめんなさい。ありがとうございます」
「王宮の方は私が何とかしよう。ステイシアが亡くなったとなれば、傍系後継者の正当性も増すしな。それと――」
国王はランド家の爵位を侯爵位に上げた。それに伴い、元々治めていた領地に加え、北方国境一帯の領地を授かる事となった。
これにはラルスだけでなく、ランド家の者達も驚いた。
「もちろんタダではない。ランド家にはその血を守る義務を申しつける。ステイシアが生きていることはもちろん秘中の秘であり、王家の血統については口外無用とする」
ステイシアを死なせた事によって、レイドラグ王家の正統な血筋はアーサー国王にて潰えることになる。
表立っては。
「レイドラグの正統な血を絶やさないでくれ」
国王はレイドラグの血を引く証と、せめてもの名残として、ランド家の姓に最上―王家―を意味する『レイ』の文字を与え、『レイランド』と名乗るように命じた。
加えて、国王が敢えて爵位を上げたのにも訳がある。
国境に隣接する領地を持つ侯伯爵には、特別に軍事力を持つことが許されている。
「何かステイシアの身に……この先将来にわたってその血を絶やすような危機がふりかかった時、男爵位ではほぞを噛む思いもするだろう。侯爵位はそれに対抗しうる力としなさい」
こうして北方守護の侯爵家――レイランドが誕生した。




