6.火にあてられた二人
火にあてられたからだろうか。
いつまでの身体のほてりが冷めず、スフィアは屋敷を抜け出し、一人夜の浜辺を歩いていた。砂浜の真ん中には、キャンプファイヤーの残骸が、大きな陰の塊のように鎮座している。すっかり焼けてしまって灰だけだろうが、まだ熱を持っていそうで、スフィアは近付かないようにして、海との際を歩く。
折良く月はまん丸で、星も昼間の明るさに負けじと頑張って輝いており、歩くには不便ない。
海が南に面しているため、海の向こうから砂浜まで月の道で繋がれる。
誰が言ったか忘れたが――この月の道を通れば、異世界へ行けるらしい。
考えてスフィアは失笑した。
異世界から来た自分が何を今更と。
「もし、本当に戻れるとしたら……」
きっと元の世界では死んだのだろう。だとすると、もう一度転生するということになるのだろうか。果たして自分はそれを望んでいるのか。もし、アルティナを幸せにすることが出来たとして、その先、自分は一体――
「スフィアにも、戻りたい時があるんですか」
「――っ!」
不意をついて背後から聞こえた声に、スフィアは息を詰まらせた。
「カ……カドーレですかぁ。もう、驚かさないでくださいよ」
慌て振り返れば、残骸の山の向こうにカドーレが座っていた。まさか、自分以外にこうして出歩く者がいるとは思わなかった。
彼は、そんなつもりはなかったと律儀に頭を下げてくる。
スフィアは少し考えると、カドーレの方へと歩みより隣に腰を下ろした。さすがに声を掛けられて、そのまま「じゃあね」というわけにもいかない。
昼間よりも薄着なこともあって、丸太のゴツゴツとした感触がダイレクトに伝わってくる。
「……今のところ、戻る気はありませんけどね」
腰を落ち着けたところで、掛けられた言葉の答えを口にすれば、カドーレは目を瞬かせた。
普段眼鏡をしている彼だが、今は遮るものがなく、はっきりと瞳の動きが見える。その表情は、予想していた答えと違ったと言っていた。
アルティナを幸せにすることが、自分の至上命題なのだ。戻れたとしても、中途半端にして戻る気などさらさらない。
「強いですね」と、カドーレはポツリと呟いた。その声には羨望のような、自嘲が含まれている。
「僕は、ふと戻りたくなる時がありますよ」
「どこにですか」
「……どこ……というより『いつ』ですかね」
「では、いつですか」
互いの視線は正面の灰山に向けられており、交わらない。
「ずっと昔の、嵐の前日ですか」
スフィアは耳を傾ける。
「僕にとって火は強さの象徴なんです」
「まあ、何となく分かりますね」
「火そのものもですが、それを手にした人の姿が忘れられなくて……」
もしかするとカドーレは、その火を思い出してここに来たのだろうか。いつも見る蝋燭の火とは比べ物にならないほど、今夜の火は強かったのだから。
カドーレの、薄く空気を削るような深呼吸の音がした。
「……真っ暗な、今にも嵐が来そうな日の真夜中。僕はその日、風で窓が揺れる音が怖くて、寝なさいと言われても、いつまでも寝られなかったんです。ガタガタと、何か良くないものが、今にも無理矢理窓をこじ開けて入ってくるんじゃないかと。ベッドに丸まって布団を被って、ただでさえ小さい身体を、もっともっと、くしゃくしゃに丸められた廃紙のように小さくして震えていました」
彼の声は、潮騒に掻き消されそうなくらいに静かだったが、しっかりとスフィアの耳に届く不思議な声だった。
「すると、窓が揺れる音に混ざって、コツン……コツン……と、窓をなにかが弾く不規則な音が聞こえたんです。窓が揺れる音は怖がるくせに、明らかに意思をもっているその音には好奇心が勝って……はは、子供ってわけ分かりませんよね」
スフィアは怪談でも聞いている心地だった。目の前のただの灰山ですら、今にも動き出しそうに感じてしまう。
「それで、どうしたんです」
スフィアが先を促す。
「窓を開けて外を覗いたんです」
ゴクリ、と喉を鳴った。
「風が吹きすさぶ中、そこにいたのは一人の女の人でした」
「い、生きた人……ですか」と、思わず尋ねてしまう。脳裏には、白いワンピース姿の黒髪ロングの女性像が浮かぶ。するとカドーレは申し訳なさそうに「期待に添えず残念ですが、ちゃんと生きた人でしたよ」と笑った。
「手に煌々と燃える松明を持ち、僕に手を差し出していました。風に彼女の声は掻き消されていましたが、何と言っているのか、その手と向けられた瞳を見ればすぐに分かりました。彼女があんなに目を輝かせている姿は初めて見ました。暗闇の中、松明に照らし出されたキラキラと希望を宿した彼女は、とても魅力的でした」
――リシュリーの事かしら?
彼が語った光景にリシュリーとカドーレを当て嵌めてみれば、案外とすんなり想像出来た。スフィアの中では、リシュリーがカドーレの手を引っ張って、連れ回しているイメージがある。
――ただ、子供の頃ならリシュリーも子供でしょうし……『女の人』って言い方をするかしら?
たった一言、「リシュリーの事ですか」と聞けば良い。それなのに、カドーレの過去に思い馳せる横顔を見れば、口を挟むことすら憚られた。
「――でも、僕は彼女の手を拒んだんです。その時の僕には、とても家から出る勇気はありませんでした。僕が首を振ると、彼女はすごく悔しそうな顔をして、背を向けて行ってしまった」
荒れた風が吹き嵐が来ている中、家を飛び出せる者も少ないだろう。ましてや子供など。カドーレの行動はさして間違ったものとは思えないが。
「あの時は意味が分かりませんでしたが……今なら、彼女の行動も意味も分かります」
「では、もしその時に戻れたとして、カドーレは今度は彼女の手を取りますか?」
戻りたいという事は、やり直したいという事だろう。
しかしカドーレは、縦か横かも分からない曖昧な首の振り方をした。
「分かりません。手を取りたい思いもありますが、同時に僕には、手を伸ばさなければならない人もいますから。僕一人だけ助かろうとは思えません」
「助かる……ですか?」
良く分からない、とスフィアは首を傾げたが、カドーレはその先を話そうとはしなかった。まあ、もしも話でもあるし、詳しく突っ込んで聞く事もないだろう。
人それぞれに、語れる過去の範囲は決まっているのだから。
「ああ、すみませんが、この話はリシュリーには内緒にしてください」
人差し指を口に当てるカドーレ。
眼鏡がないことで、彼が『リシュリー』と言った時に目尻を和ませたのが、ハッキリ見てとれた。
――もしかして、いつもこんなに優しい目でリシュリーを見てたのかしら。
なんだか秘密を知った得した気分になり、スフィアは「もちろんですよっ!」と、嬉しそうに同じポーズを返した。
さて、合宿らしい事――キャンプファイヤーもした事であるし、もう数日海でゆったりと過ごして終わりだろう。せっかくだから明日はアルティナへの土産として、浜辺で綺麗な貝でも探すとしようか。
それにしても最初はどうなるかと思ったが、学院生活だけでは知ることが出来なかったであろう、リシュリーとカドーレの事も深く知れたし、家でゴロゴロと過ごすよりもずっと有意義な休みに出来たと思う。
しかし、実に良き思い出となったキャンプファイヤーであったが、火に集うのは、何も楽宴の民ばかりでない。
蠅しかり、そこには招かれざる客というものが、往々にして現れたりもするのだが、ほてりも治まり、ほくほく顔で眠りにつく今のスフィアには、微塵も予期できぬ事であっただろう。
◆
「突然の来訪の無礼をお許しください!」
朝、今日は何をして過ごそうかと、談話室に集っていれば、本当に突然に屋敷を訪ねる者があった。
何だ何だ、と皆が顔を出せば、入り口には見るからに貴族の青年が立っている。
「わたくしめは、このアルザスを任されております、『ウェリス=ハーバード子爵』と申します」
「ガッデムッ!」と、スフィアは頭を抱え、大きく海老反った。
心の中で。
令嬢たる者、殿方の前では淑やかさを忘れてはならない。スフィアは淑やかな動きで天を仰ぐと、盛大に舌打ちをした。
何の音だ、と近くのグリーズが辺りを見回していた。
スフィアは素知らぬ顔して、どうされました、などと言っていた。
『ウェリス=ハーバード』――彼は、当然の如く攻略キャラであった。
「キャンプファイヤーと一緒に、この世界も焼くべきだったかしら」とぼやいた彼女なら、巨神な兵を使いこなせる日も近い。




