39.あの時あの場所で
「……っん……ぁ……んっ」
ガルツの頭の中は、今にも熱で溶けてしまいそうだった。
「やっ……ぁ! ッ……ら、めれ……す、ガ……ゥ、ツ」
耳に聞こえる声だけで、これほど馬鹿になれるのか、と思わず心の中で自嘲する。
「……っはぁ……!」
どちらの息遣いかも、近すぎて、混ざり合って、溶け合って、ふやけて、もう何も分からなくなっていた。
今まで聞いた事ないようなスフィアの鼻に掛かった甘い声。この声をあの王子は知っているのだろうか。誰か他にこの声を聞いたことのある男はいるのだろうか。
スフィアが胸に爪を立てる。しかしそれは制服に阻まれ、生地をカリカリと引っ掻くだけだ。
拒絶ともとれない可愛らしいささやかな抵抗。優越感が背筋を這い上がる。
あれだけ数多の男達を無下に見下し排除してきた彼女が、今自分の腕の中で誰も知らない顔で、声で、瞳で、吐息で鳴いている。
何度も何度も、もっと深くと角度を変え、奥まで味わい尽くす。
「ふ……ぅあっ、もぅ…………っ」
その度にスフィアの口からは水音と甘い声が漏れ出る。しかし、それもまたこぼさずに全て飲み込み、彼女のより深いところへと舌先で押し込む。
薄らと目を開ければ、スフィアは苦しそうに眉を寄せていた。そこでやっとガルツはスフィアの濡れた唇を解放する。それでも身体は解放しない。寄せ合った身体は制服越しにも分かる程の熱を帯び、力の抜けたスフィアをガルツは両腕でキツく抱き締めた。
胸にしな垂れて息を整えていたスフィアが顔を上げる。
「……ッガルツ…………もっと」
ガルツは再び瞼を閉じた。
「――――ッ痛だ!!!?」
ガルツは瞼を開けた。
見えるのは見飽きた天井。後頭部にズキズキと走る痛みは、この間のと合わせて二倍痛い。そして腕の中に居るのはスフィアではなく、たっぷりに空気を含んだ上質な枕。
「……………………夢かよ」
ガルツは呆然と天井を眺め、落ちたベッドへ暫く戻る事が出来なかった。
支度をして馬車に乗り込む。いつもと変わらないルーティン。何か変わるとすれば、この後、馬車が学院に着いてからだった。
「何っつーもん見てんだよ、俺は……」
顔を覆った手の下でガルツは嘆息した。罪悪感半分と快感半分。
こんな夢を見たのも、この間あんな事になったせいだ。
『――俺の女になれ』
そう言った瞬間、俯いていた顔の下で彼女が息を飲むのが分かった。否定も肯定もせずに、ずっと俯いたままのスフィア。
そりゃあ、ついさっきまで友人と思ってた者に、自分の女になれなどと言われれば、すぐに答えを出すことなど出来ないだろう。しかし、ガルツも今は呑気に「考えといて」などと言える余裕はなかった。
耳の奥で繰り返される「許嫁のスフィアをよろしく」という、勝ち誇ったようなグレイの言葉。たとえ許嫁だろうが、自分の方がスフィアを良く知っている、という自負がガルツにはあった。
自分の方が彼女に近い存在なのだと。
思わず口の中で舌を打ってしまう。
『黙ってんなよ……判断方法が分からねえってんなら教えてやる』
スフィアの頬を包み、上向かせる。驚きに真ん丸になった緑色の瞳が見上げてきた。
『キスしてもいいか』
確認するように問えば、彼女は小さく、友達じゃダメかと漏らす。
ダメだからこその今この状況だ。
『……聞き方を変える。嫌なら殴ってでも拒否しろ』
『――待っ! え、ちょ!?』
背けようとした彼女の顔を手で固定する。そこで冗談で言っているのではないと悟ったのか、情けなく眉を八の字にして本気で狼狽えはじめるスフィア。
初めて見るスフィアの姿に、自然とガルツの口角も上がる。
『き、拒否してもガルツはお友達ですよね!?』
『お前、今この状況でそれに「はい」って答える奴がいると思うか?』
暗に、拒否だと言われ少し傷つく。
しかし、完全なる拒絶でもないと知った喜びの方が打ち勝った。
『その言い方だと、これからも俺とは関係を持っていたいとは思ってるんだな?』
『そりゃあ長い付き合いですし……一緒に居るのも…………悪くはないですから』
拗ねたように言う彼女がまた可愛かった。
周りには学院に君臨する魔性の女帝くらいに思われているのに、今この瞬間、自分の前でだけはただの少女だった。その優越感にまた高揚する。
『ありがたい言葉だがな、もうそれだけで満足出来るような状況でもなくなってきたからな。来年には俺達は貴上院生になるし、成人までもあと四年しかないんだよ』
絞り出すようにガルツは声を漏らした。
恐らくその四年は今までと比べものにならない程、男達がスフィアに群がるに違いない。今でも十分に人の目を惹き付ける美貌の持ち主だが、これからの成長を考えれば手に負えない事態になりそうだとは安易に予想できる。
それに王子なんていう厄介なものまでわいてきている。悠長なことを言ってもいられない。
『簡単だろ? 「はい」か「いいえ」だ』
かつて自分がこの場で彼女に問われた問い掛けを、今、彼女にそっくりそのまま返す。
『いいえと答えたら……もうブリックや私とは一緒にいないということですか?』
『まあ、まるっきり今まで通りとはいかないな』
『……ずるいです』
『どっちがだよ。友達のまま今まで通りいてくれなんて虫がよすぎんだよ。選べ』
何かスフィアが言おうとしていたが、ガルツはそれを全て無視して覆い被さるように顔を近づけた。
「――チクショウ……まだ後頭部が痛ぇ」
もう数日経つというのに、まだ痛みを訴えてくるたんこぶをガルツは忌々しそうにさすり、先日の回想に口をまごつかせた。
彼女なら殴ってでも拒否してくるかと思っていた。「子分のくせに生意気よ!」とか言って。それならそれでも良いと思った。常日頃誰のものにもならないと豪語しているのだし、他の男もその調子で拒否してくれるだろうと思えたから。しかし――
「……ったく」
馬車が止まった。どうやら学院に着いたようだ。
ガルツは自分の頬を両手で力一杯に叩き気持ちを切り替えると、いつもと変わらぬ足取りで馬車を降りた。
会長ともなると上級生棟の方ではまあまあに顔が知られる。廊下ですれ違う生徒達が声を掛けてくる。それを適当に返しながら教室へと入る。
「おはよう、ガルツ」
「……おう、ブリック」
教室に入ると、入り口に近い席のブリックが一番に声を掛けてきた。その声に反応するように、ジン、と後頭部が痛みを訴えれば、思わずガルツのブリックを見る目も重くなる。
わざと目の前で後頭部をさする姿を見せるも、ブリックは「ハハ」と笑うばかり。
「お前、スフィアにつられて、随分とメンタル強度増したな」
「心を強く持たないと、とても生きていけなかったからね」
走馬灯のようにナニカが駆け巡ったのだろう。一瞬にしてブリックの黒い瞳から光が消え、ドブ底のような救いのない色に変わる。
「……お前が子分になった経緯が気になりすぎるわ」
ブリックは、口にするのもおぞましいとばかりに、静かに首を横に振っていた。
「で、そのスフィアだが……今日もか?」
「そうだね。まだ来てないってことは、今日も休みみたいだよ」
スフィアの席を眺め、薄い溜め息を鼻から漏らすガルツを、ブリックはじっと見つめた。
スフィアが学院を休み始めてから、そろそろ一週間になろうとしていた。
「……ねえ、そろそろ話してくれないかな、ガルツ。君がスフィアに何を言ったのかは見当が付くけど、どうして急にそんな行動に出たのかは分からないんだ」
「それは……」
「リシュリーもカドーレも心配してる。スフィアだけじゃなく君のこともだよ。生徒会長が周囲に気を遣わせたままで良いの?」
ブリックは席を立つと、教室を出た。ガルツが「どこへ」という目を向ける。
「さ、二人きりになれるとこに行こっか」
振り返ったブリックは、言外に『話せ』と有無を言わさない言葉を、子供を諭すような優しい声音で放った。




