38.突然の訪問客
スフィアは宝石箱の中で輝く、金とサファイアのピアスを眺めては目元を和らげた。
『とても似合っているわよ』――アルティナのその言葉が何度も耳に蘇っては、スフィアを温かな気持ちにしてくれる。彼女はスフィアがこのピアスを選んだ理由を知らない。ただ本当に、一つの装飾品として似合っていると言っただけだろう。
しかし、スフィアにはそれで十分だった。
この世界では、ヒロインである自分と悪役令嬢であるアルティナは、並び立つことを許されない。少なくとも、世界はその役割を全うさせようとしてきている。
「この関係も……いつかは壊れちゃうのかしら……」
四年後には、ゲーム本来のストーリーが始まってしまう。
そうなれば、彼女のあの手が――口元を拭ってくれたあの優しい手が、自分の頬を打つ日がくるのだろうか。
針の筵の中心で彼女が涙する姿を、自分は見なければならないのだろうか。
「――っ!」
考えただけでも、胸を鷲掴まれたような痛みが走る。
「そんなの……っ、絶対に嫌」
自分のこの想いまで、シナリオに好き勝手されてたまるものか。
「…………想い」
視界で輝く金色は、また別の人物をスフィアに思い出させた。
「ガルツ……」
スフィアが学院を休んで二週間になる。そろそろ学院にも行かなければならないし、何より、はっきと答えを出さなければならない。
「いつまでも、中途半端なままにしておくわけにはいかないものね」
そう思った時、部屋の外からセバストの声がスフィアを呼んだ。
「スフィア様、ご学友のお客様です」
「…………はい?」
一瞬、痺れをきらしたガルツが家までやって来たのかと思った。
「それで、わざわざ家まで来るなんてどうしたんです? ブリック」
ご学友のお客様ことブリックは、出された紅茶を一息に飲み干すと「ふう」と満足気な息をついた。
「さすが侯爵家のお茶はおいしいね」
「良い飲みっぷりで」
ブリックがカップを置けば、すかさずスフィアが紅茶を注ぎ足す。トポポと音を立てながら、白いカップに少しずつ紅茶が満たされていく。その様子をブリックもスフィアも静かに眺めていた。
スフィアが役目を終えたポットをテーブルに置けば、それが合図だったかのようにブリックが口を開く。
「どうした、は僕が聞きたいんだけどさ?」
チラと向けられた視線に、スフィアは視線を膝に落とす。
「……僕さ、何となくガルツの気持ちには気付いてたんだ。スフィアに子分二号にされてからも、多分、ガルツはずっとスフィアの事が好きだったんだよね。気持ちの強弱はあれど」
スフィアの、膝の上で組まれた指がカリカリと手を引っ掻く。
「だけど、僕達の関係性を壊さないように、ガルツは本能的にその感情を押し込めてたんだと思うんだ」
ブリックの声音はいつもと変わらない。今日の天気を話すような調子で、そこにはスフィアを責めるような意図も、ガルツを擁護するような意図も、なにも含まれていなかった。
だからこそ、スフィアには事実のみを述べるブリックの言葉が耳に痛かった。
傍にいたのは自分も同じなのに、どうして自分は気付けなかったのかと。自分が不甲斐なかった。
「だからスフィアには、『突然なにを』って話だと思うけど、僕には『ついにか』って感じなんだよ」
「……どうして今……ガルツは私達の関係を壊すことを望んだんでしょうか」
ブリックは「そりゃあ」と、苦笑する。
「突然、強力なライバルが現れたんじゃ、焦って気持ちが露呈するのも分かるよ」
「…………聞いたんですか?」
「まあ、ね。プライベートな事だし、ガルツも最初は言ってくれなかったけど……スフィアが学院をこうも長く休めばさ……僕だって心配するよ」
最後の言葉に僅かな不満を滲ませたブリックに、スフィアは眉を垂らした。彼には申し訳ないが、その焦心を嬉しく思ってしまった。
「許嫁は正式ではないんですがね……」
「そんな事、ガルツにとったら重要じゃないんだよ。ガルツに重要なのは、この関係が壊れる可能性があるって事だけだもん」
スフィアは、ガルツに言われた『誰のものにもなりたくないなら――』という台詞を思い出す。
「関係が壊れるのを厭っているのに、自らその関係を変えようとするんですから……ガルツったら本当……」
――不器用な人。
「そりゃあ、いつまでも三人で、なんていられるとは思ってないけどさ……もう一年もないからね。僕達がこうやって一緒にいられる時間は」
ブリックは、なみなみに注がれたカップを手に取ると、内側で揺れる紅い水面を静かに眺めた。水面に映るブリックの顔は、五年前に出会ったあの頃よりも、随分と大人びたものに変わっている。
あっという間の五年間だった。であれば、この先の一年にも満たない時間なぞ、まばたきの一瞬なのだろう。
二人の間に、寂寥とも言える、しんみりとした空気が流れる。
スフィアがポツリと「貴上院ですか」と呟けば、再び二人の間の時間が動き始める。ブリックは、紅茶を今度は一口だけ口に含んだ。それは喉が乾いて飲んだというよりも、次の言葉を口にするための呼び水のようなものだったのだろう。
先程までの諭すような雰囲気から一変して、ブリックの眉間には皺が寄る。
「ガルツがさ、言ってたんだ。スフィアは『家や権力の怖さに疎すぎる』って」
「ええ、私も言われました」
「僕もそれは思うよ。女の子だからってのもあるんだろうけど、それにしたってスフィアは権力を知らなすぎる。今まで、何事もなかったのは、スフィアが北方守護のレイランド侯爵家であって、まだ貴幼院生だったからだよ。来年――貴上院生になったら、もう今までとは全部変わってくるからさ」
眉間を険しくしてスフィアを見つめるブリック。そこには憤りというより、不安が滲んでいる。
「貴上院は、ほぼほぼ社交界とかわらない。ただの交友関係にも、家格や損得が絡んでくるんだ。もちろんそんな人ばっかりではないと思うけど。だけど、貴幼院とは全くの別物とは言えるよ」
リシュリーの父親の職業を聞いた時の反応が、ガルツと比べ淡泊だったことから、ブリックも自分同様に、地位や権力にはそれほど興味がないのだろうと勝手に思っていた。
しかし、こうして貴上院の事を把握している時点で、そのような事はないのだろう。表に出さないだけで、彼もしっかりと自分の立ち位置や将来を考えているということか。
――私だけ、もしかしてずっと止まっていたのかも。
自分の目的は生まれたときから変わっていない。この先も変わらないと断言できる。だが、もうソレだけで生きていけるほど、自分も周りも幼くはないのだろう。
スフィアは瞼を閉じた。
閉じれば、皆の幼い頃の姿が浮かんでは消え、次に現在の姿が現れる。
そして、一番新しい記憶――温室でグレイに頬を撫でられ向けられた眼差しと、自分の髪に口づけを落としながら向けられたガルツの眼差しの映像を最後に、再び暗闇に包まれた。
――いつまでも、このままじゃいれないわね。
瞼をゆっくりと開けると、ブリックの曇った顔が最初に視界に入った。
「……ブリックは、もし私とガルツが付き合ったとして、嫌じゃないんですか?」
「僕は、ガルツもスフィアも好きだから。二人が幸せならそれで良いよ」
言って微笑んだブリックであったが、「いや、やっぱりソコにくっつかれたら僕の立場が……」などと、ボソボソと言っている。
「ふふ、相変わらず正直ですね、ブリックは」
「建前でこたえるほど浅い仲でもないからね」
ブリックは笑みを引っ込めると「それよりスフィア」と、真面目な声を出す。
「同情も逃げも、相手には失礼でしかないからね。それだけは言っておくよ。まあ、僕らのボスなら、そのくらい分かってると思うけど」
「そうですね。ボスは子分のお手本にならなければなりませんものね」
ブリックは、カップに残っていた紅茶をもう一口だけ飲むと、席を立った。
「ガルツは男の僕から見ても良い男だよ。きっと、今回の事はすごく悩んだと思うんだ。スフィアに気持ちを伝えたらどうなるかも考えた上で、それでも伝えたんだから。真剣に向き合ってあげてね」
「ああ見えて、メンタルは弱めだからさ」と、人差し指を口の前で立て、困ったように笑うブリック。かつてその男の後ろをくっついていた者の台詞ではないな、とスフィアも肩を揺らした。
「きっと一番スフィアと話したいのは僕じゃなくてガルツなのに、それでもガルツはこうして家に来ることもなく、律儀に君の方からくるのを待ってるんだから。どんな答えでも良いから、気持ちは直接伝えてあげて」
「本当…………私には過ぎた子分ですこと」
「ははっ、そう思うんならもうちょっと手加減してよね。僕達子分も、君に近寄る男達にも」
「それはできない相談ですね」
「ちぇ、さすがボスだね」
ブリックは「じゃあ、明日ね」と、『明日は学院に来いよ』と、強引にスフィアの心の整理期限を決めて帰っていった。
本当、変わったものだ。




