31.俺の女になれ
向かい合う二人の距離は、五年前よりも近い。
水平だった互いの目線は、いつの間にかスフィアの方が随分と低い。
互いに相手を見つめる瞳の色は……
「正直、お前とはずっとこのままの関係で良いって思ってた。だが、お前が殿下と並んで楽しそうに歩いてる時、温室で二人して消えた時……自分の気持ちに気付いちまったんだよ」
ガルツは「気付かない方が良かったかもな」と、自嘲と共に目を眇めた。
「俺が今までへらへら子分していられたのも、お前が誰のものにもならないって信じてたからだ」
肩を押さえていたガルツの手が、肩に流れ落ちるスフィアの髪を掴んだ。指に絡む毛先を撫で、見つめるガルツの顔は、薄く笑っていた。
「この学院には、お前に本気で迫る奴はいねぇし、何となく誰のものにもならないって思ってた。正直、今の関係が居心地良いってのもある。お前の理不尽に振り回されて、でもお前の一番近いところにいるのは俺らで、他の男達が袖にされていくのを安全地帯から見ていられる、ちょっとした優越感もあった。だがな……それはこの学院にいる間だけだって分かっちまったんだよ」
「そんな急に……わ、私の見た目で、ガルツは一時的にそんな感情になっているんじゃないですか?」
このヒロイン補正の見た目に惚れた者は数多といる。
そうでないと、スフィアには自分のどこに彼が惚れる要素があるのか分からなかった。見た目と言われた方がまだ頷けるもの。
どんなあくどいことをやって来たか、近くでずっと見ていた彼なら知っているはずだ。
スフィアは恐らく初めて見せるであろう、曖昧に引きつった笑みでガルツを見上げた。
「お前……さすがに俺も怒るぞ」
ガルツの低く落ちたような声に、スフィアは後悔に奥歯を噛みしめる。
「じゃあ、一体どこに惚れる要素があるんです!? 近くで見ていたなら分かるでしょう、私がどれだけ酷い女かって!」
「まあ、後半は同意しかないな」
「だったら――!」
「馬鹿か。近くで見てきたからこそだろうが」
スフィアは目を裂けんばかりに見開いた。
「そりゃあ、俺だって最初の頃はお前の中々に最悪な策略劇に引いてたさ……子分にされるわ、生け贄にされるわ、昼飯は強奪されるわ、川には投げられるわで……」
記憶を追想するほどにガルツの顔が引きつる。
「……それでよく私にそんな感情抱けますね」
彼の情緒が心配になってくる。
「お前をずっと傍で見てきたんだ。その腹黒いところも、案外可愛いところも含めて全部な。まあ、多少見た目が綺麗って事もあるだろうけどよ……お前の悪行に手を貸すのも、お前に頼られるのも、お前にいじられるのも、お前と一緒に他愛ないことで笑うのも、全部ひっくるめてお前と一緒に居るのが楽しいし、好きなんだよ」
「その気持ちは、友人をとられるかもという独占欲を……勘違いしてるだけでは?」
「じゃあお前は、友人の髪をこうやって触りたいって思うのかよ」
ガルツは見せつけるように、弄んでいた毛先に口づけを落とすと、瞳だけをスフィアに向けた。その瞳はひどく静かで、真剣の一言につきた。
――これは……ダメだわ。
誤解を解けば――許嫁ではないと理解をさせれば、全ては勘違いだったで終わると思っていた。しかし、ガルツの顔を見ればそれは無理だと悟る。
――それでも私は……っ。
正直ガルツやブリックといるのは楽しいし、今では一番心を許せる友でもある。
しかしそれでも、目を閉じれば、瞼の裏に描かれるのはスフィアが一番に幸せにしたい彼女だった。
どうしようもないのだ。
生まれたときから、ずっととらわれているのだ。この呪いのような想いに。
「……では、もう一度言いましょう。私は、絶対に誰のものにもなりません。誰のものにも、です」
暗にガルツが言わんとしていることを、先んじて封じる。
しかし、ガルツの表情が緩むことはない。依然として厳しいままである。
「お前がいくらそう決心しようと、周りは分かっちゃくれねえよ。もう、『ガキだから』の一言で済まされる年も終わる。ガキの色恋沙汰には、大人も家も出て来なかったが、ここを卒業したら? さっきの殿下みたいなのが、お前に群がり始めたら?」
「それは……毎回ちゃんと断ってますから……」
スフィアが望んで、グレイとこれ以上の関係になる事はない。幼馴染みの第三王子と侯爵家令嬢。それ以上でも以下でもない。
そう何度も言っているというのに、なぜ、ガルツは呆れたような溜め息を吐くのだろうか。
「あれが王子の本気なわけねえだろ。俺達がまだガキだからあの程度で済まされてるんじゃねえか。本気でとりに来たら、貴族が皇族に逆らえるわけねんだよ。きっと、お前が大人になったら本気で来るぞ。下手な男共はあの王子が全部露払いするだろうさ」
スフィアは数年前の『花屋のメーレル』を思い出し、微妙な気持ちになった。
他の男達を払ってくれるのは有り難い。こちらが断る手間も省ける。けれどそれで自分が追い詰められているとするのならば、それは本望ではない。
じわじわと選択肢を削られ、最後に残ったのはグレイのみ。一番あり得そうな話だった。
しかし、だとすると、ガルツのこの行動はやはりおかしいのではないか。
「だったらガルツも同様に、グレイ様には払われてしまうんじゃないですか?」
ガルツは「確かに」と肯定の言葉を出す。しかし、その表情は全く以て諦めてはいない。
「許嫁だって正式に公表されてたら、打てる手立てはなかっただろうがな。だが、お前も言ったように、その許嫁ってのは正式でもないんだろ。だったら、まだ俺ならどうにかできるんだよ。三大公爵家令息って肩書きを持った俺ならな」
「ガルツ……なら?」
スフィアにはその意味が分からなかった。三大公爵家令息という肩書きが、とても魅力的なものなのは、周囲の令嬢達の反応から分かる。しかし、それがどうしてグレイに対抗しうる手段になるのだろう。
スフィアの困惑の空気を悟ったのだろう。
この短い間に何度聞いただろう。ガルツはクシャリと前髪を握り込み、やはり溜め息をついた。
「……っとに、お前はそういう事には疎すぎなんだよな。いいか、俺とお前が付き合って公認の仲になってれば、話は違うんだよ。癪だが、俺のこの肩書きは使える。そこの恋人令嬢を強奪するには第三王子じゃギリだ。これが第一王子――次期国王ならまた話は違ってくるがな」
ガルツの冷静で丁寧な説明に、スフィアは思わず息をのむ。言い返す言葉が出てこない。少なくとも、ガルツの言う事に一理を認めてしまったから。
押し黙ってしまったスフィアに、追い打ちをかけるようにガルツは言葉を続ける。
「つまり、お前は現時点では誰のものにもならないが、将来的には王子のものになる可能性が一番高いんだよ。そんでそれを退けられる選択肢も片手ほどしかない。その片手のうちの一本が俺だ」
スフィアよりも十センチは高いガルツ。スフィアが俯けば、まさにガルツの声は降ってくるようだった。
そして次に降ってきた言葉に、スフィアは声を失った。
「スフィア、誰のものにもなりたくないなら……俺の女になれ」




