26.ぐぬぬぬぬぬ
ロンバルディア貴幼院の正門前に、普段見慣れている生徒達の馬車とはレベルの違う、意匠の凝った馬車が到着した。
惜しげもなく金装飾がなされ、それをひく馬も一際凜々しい。きっと馬界の中のイケメンなのだろう。心なしか、すれ違った馬車の馬達がチラチラと気にしているように見えた。
そしてそのイケ馬の馬車から降りてきたのは、これまた一際目立つ容貌の青年。後ろには護衛の騎士や側近を連れている。
一気に正門前の空気が張り詰める。皆が粗相のないようにと緊張するなか、スフィアだけは、粗相したくて堪らなかった。しかし恐らく、眼前の彼は粗相ごときではどうにもならないだろう。
――粗相程度で気持ちが冷めてくれる殿方なら、どれほど良かったことか。
不敬罪に問われるレベルの粗相なら、今までにも幾度とやってきているが、結果はご覧のありさまである。
「お待ちしておりました、殿下」
生徒会と教師一同が頭を下げて、グレイを出迎えた。
グレイはざっと出迎えの者達を見渡すと、列の中にたった一色しかない、よく目立つ髪色の女子生徒に目を留めた。誰と名乗らずとも分かる稀色。
スフィアが頭を上げれば、自分を見つめていただろうグレイと、真っ先に視線がぶつかる。スフィアは対外的な笑みを貼り付けたまま、じわり、と視線を外した。
「出迎え感謝します。昨今の教育現場がどのようなものか知りたくて、このような機会を設けさせていただきました。私も貴幼院を出て久しい。ぜひ、縁遠くなってしまった教育現場を、我が国の将来を担ってくれる子らを見せていただきたいと思いましてね。こちらの学院の皆様には視察を快く受け入れて下さり、ありがとうございます」
グレイは、丁寧な王子然とした態度を取る。その角のない丁寧な対応は、その場に居並ぶ者達に感心と尊崇の念を抱かせた。スフィアを除いて。
――本当、なんでうちの学院なのよ。ぜひ偶然であってほしいもんだわ。
疑念の目を向けるスフィアに気付いたグレイは、満面の笑みで頷いた。
――あ、偶然じゃないわコレ。
スフィアはグレイから顔を背け、密かに舌打ちした。
しかし、偶然でなくとも『公務』という名目で来ているグレイは、下手な行動には出ないはず。そう思えば、少しだけ息もつけるというもの。
しかし、スフィアは忘れていた。グレイがそんな常識的な考えの持ち主ではない事を。
「――では、案内をお願いしますね。赤髪の素敵なレディ」
スフィアが胸を撫で下ろしたのも束の間、グレイはスフィアに視線と言葉を向けた。
「どうして私に言うのだ」と喉から出かかった瞬間、言わせないとばかりにグレイはスフィアの手を掬い取り、そこに唇で挨拶をした。
唐突すぎるグレイの行動に、学校側の者達もグレイ側の者達も、皆口をあんぐりと開けて空気を凍らせた。
無論、いつもなら即座に反撃するスフィアも、この時ばかりは例外ではなかった。まさか公務で来ておいて、このような事をされるとは思ってもいなかった。こんな特別扱いされたら、周りは自分達の関係性に疑問を持つだろう。そうなれば、このややこしい関係性を答えなければならなかった。なんとも面倒臭い。
――ハッ、待って! リシュリーも同じ挨拶を受ければ、この口付けは女性へのただの挨拶になるわよね!?
スフィアは隣のリシュリーを確認した。リシュリーの両手は、腰の後ろで固く結ばれていた。
――なんでしっかり対策してんのよっ! 裏切り者ォ!!
思わずスフィアの口もキュッと引き結ばれる。素知らぬ顔をするリシュリーを、恨めしそうな目でスフィアは睨み付けた。
一方、「さて、それでは」と、スフィアの手を引き、校内へと意気揚々踏み込もうとするグレイ。
スフィアは反射的に手を振り払おうとした。しかし、スフィアが腕を引き抜こうとした動きに乗じて、グレイが「おっと」といかにも嘘臭い声をあげて、スフィアにしがみつく。
「ちょっ、グレ――」
「大人しくしていないと、周りに俺達の関係を怪しまれるぞ」
グレイは体勢を崩したふりをして、スフィアの耳元に口を寄せ、不穏なことを囁いた。その言葉に、スフィアの怒鳴りかけていた声も、思わず引っ込む。
「許嫁だとは知られたくないだろう? あれだけ嫌がってたんだ。どうせ、周りには俺達の関係性は言っていないんだろ」
脅しとも取れるグレイの発言に、スフィアは、込み上がる怒りを「ぐぬぬぬ」と、眉間に皺を寄せて抑えこむ。
そしてパッと顔を上げた次の瞬間には、スフィアの顔には綺麗な微笑が貼り付いていた。その微笑顔の名は『営業スマイル』。
「では、当学院の副会長である私、『スフィア=レイランド』が殿下のご案内役を承ります」
スフィアが副会長としての態度をとった事で、周囲に渦巻いていた困惑の空気は霧散した。グレイがスフィアを選んだのは、単に美しい令嬢だったからなのだと。二人の間に特別な関係はないのだと。




