23.始まりの初まり
とある高等学校。三年二組と表示された教室の片隅に「涼花」は居た。
比較的普通と言える高校生活を送ってきた涼花。隣の席の詩織とは一年生の頃からずっとクラスが一緒だった為、いつの間にか親友と言える関係になっていた。しかし涼花にとって、詩織との関係はそう単純なものではなかった。
涼花は、詩織に常に好きな人を奪われ続けてきた。
いや、正確には『奪われる』という表現は正しくない。なぜなら、涼花はその時々の思い人の名を、詩織には伝えていなかったからである。
『偶々(たまたま)』――そう、涼花の好きな相手を知らない詩織が、偶々同じ人を好きななっただけだ。たとえ、好きな人全てが被っていようとも、きっとそれは好みのタイプが類似していたに過ぎない。
だから涼花は、特に詩織を責めることもしなかったし、『私も詩織の彼氏が好きだったのよ』などと、わざわざ波風を立てるような事は、決して口にしなかった。
それに詩織は同性から見ても魅力的な女性だった。
制服から覗く、細くか弱そうな白い腕。カナリアのようによく通る澄んだ声。濡れたように濃い睫毛に縁取られた大きな瞳は色素が薄く、桃色の唇で笑えば、パッと一面花が咲いたような空気をかもしだす。
詩織は、同性の目から見ても庇護欲を掻き立てられる程に可愛かった。
もしも、この世界に役割があるのならば、彼女は間違いなく『ヒロイン』なのだろう、と詩織を見る度に涼花は思っていた。
『涼花ってさぁ、よく詩織と一緒にいられるよねぇ。すごいわぁ』
よく友人達から言われた台詞である。
『あの子顔は可愛いけど、性格悪そうだし』
『あたしなら無理ー。一緒にいたくないもん』
その台詞は、暗に涼花に『引き立て役だよ』と言っている事と同じだった。まあ、言った彼女達は、そんなに深く考えて発言はしていないのだろうが。
『私はそんな目で詩織のこと見てないから』
彼女達の問いに、涼花はいつも同じ台詞を返す。
元々涼花には、詩織と容姿で競い合うつもりなど全くなかった。詩織とは顔の系統もキャラも違う。比べる方がおかしい。それに涼花は、それほど自分の容姿を卑下してはいなかった。良くもないけど、悪くもない。真ん中の女の子。普通で十分だった。
それに詩織だとて、友人を容姿で選びはしないだろう。そう思っていたからこそ、周りの雑音など気にならなかった。
『ねぇねぇ、涼花聞いてよ! あのね、好きな人が出来たの!』
詩織からこの台詞を聞くのは、何十回目だろうか。
『また? てか、一ヶ月前に隣のクラスの人と付き合い始めたとか言ってなかった?』
『ん~、何か思った反応が得られなかったって言うか……飽きた』
このやり取りも何十回としてきた。
最初の頃は、その飽きっぽさを逐一諫めたりしていたのだが、最近は『へぇ』くらいにしか言葉を返さない。
――相変わらず、恋愛脳だなぁ。
きっと、恋をしていないと息も出来ないのだろう。ならば、彼女がどれだけ男を取っ替え引っ替えしようと仕方無いことだ。だって、生きていけないのだから。
涼花はさして気にもならないと窓枠に腰を乗せ、適当に相槌を打つ。
『それでね、その好きな人はね――伏見君なんだ』
――ああ、またか。
このパターンも何度目か。
『へぇ、そう。まあ……頑張りなよ』
『うん! 応援してね、涼花』
嬉々としてはしゃぐ詩織はやはり可愛かった。
『それにしても、やっぱり涼花は違うなぁ。中学生の頃なんて、いっつも好きな人ができる度に、周りの子達は離れて行っちゃうし……何でだったんだろうね?』
『さあ、何でだろうね』
涼花は笑っていた。
たとえ詩織の口から出てきた次なるターゲットの名が、自分の好きな人だと知っても。彼女の口から自分の想い人の名を聞くのは、なにもこれが初めてではない。慣れたと言うよりも、涼花はもう半ば諦めていた。
――だって、自分は好きな人の名を口にしたこともない。
自ら行動できていない時点で、詩織には負けていた。彼女相手に戦う気すら起きない。不戦敗だ。
その二日後、やはり彼女の隣には自分の想い人――伏見がいた。
仲睦まじく手を繋いで並んで帰る姿は、微笑ましくもあり、心の底に沈めた感情を再び巻き上げ濁らせるようでもあった。
――仕方無い。これは仕方無いこと……。
そう自分に言い聞かせるのも何回目だろうか。
――別に本気で好きだったわけじゃない。ちょっと良いなって思ってただけだし……。
いつの間にか自分を慰めるのが上手くなってしまった。しかし、仕方無い――そう思って今回も心に折り合いを付けていたところ、涼花は詩織に衝撃的な事を告白された。
昼休み、詩織といつものように話していると、突如彼女の表情から笑みが消えた。
『ねえ、涼花。昨日、私と伏見君が一緒に帰ったの知ってるよね? そこの窓から見てたもんね?』
『え? あ、まあ……』
『じゃあどうして、そんなに普通でいられるの?』
『…………は?』
彼女の言わんとしていることが分からなかった。
彼女の顔は憮然としていた。それどころか涼花を睨み付けるような目には、怒りのような悔しさのような色が浮かんでいる。
『ど、どうしたの急に……詩織?』
状況が読めない涼花に、詩織はうんざりしたような溜め息を漏らす。
『もういいよ。今回も思ったような反応は見られなかったし……いい加減飽きちゃった』
それは、よく彼女が彼氏と別れた時に言う台詞。
『今まで私の隣にいた子達は皆、大体二人目くらいでギブしたんだけどね』
『二人……目? ギブ?』
薄らと何かが繋がりかけるが、それを理性が拒む。
『ははっ、ただ単に涼花が鈍かっただけ? ねえ、今まで涼花の好きな人を、偶然私も好きになってきたと思う?』
今まで見たこともない、寒々しい薄ら笑いを浮かべる詩織。詩織の方が身体が小さく、目線は下なのに、なぜか涼花の方が見下されてる心地だった。
『涼花って、好きな人ができるとすぐ目で追うし、分かりやすかったんだよねぇ。なのに全員私の彼氏にしても全然怒らないしさ、嫉妬もしてくれないし……もういい加減同じ方法も飽きちゃったなって』
つまりは今まで、恋多き女だから好きになった人が偶然被る――と思っていたことは、全て彼女の意地悪だったと言う事だ。
『な、なんで、そんな事を?』
震える口を懸命に動かし、それだけを紡いだ。
誰の目にも動揺していると分かる涼花の様子に、ようやく詩織はいつものような愛らしい笑みを浮かべた。
『え~だってぇ、女の嫉妬って気持ちいいじゃなぁい? けど、涼花は全然嫉妬しないし、つまんなかったよ』
カッと頭に血が上った。
興奮した脳で冷静な思考などできるはずもなく、涼花は力任せに詩織の胸ぐらを掴んだ。
『あ、そうそう、実は伏見君には最初断られたんだよねぇ。涼花が好きだからって。けど、どうしても好きだからっておしたら、最後はオッケーくれたんだ。これって、やっぱり伏見君の涼花に対する気持ちって、その程度だったってこと――――ッキャ!!』
悲鳴を上げ、ガタガタッと煩い音と共に、詩織は椅子から崩れ落ちた。生まれて初めて、人の頬をぶった。ぶたれた方が痛いのはもちろんだろうが、ぶった方も痛いのだと、掌が訴えてくるジンジンとした痛みで初めて知った。
二人の騒ぎに、クラスメイト達も何事だと異変を察知する。
『――っ酷い涼花! 偶々好きな人が被っただけなのに……』
『どの口が――っ!?』
今まで見ない振りをしてきた感情の澱が、一気に噴出した。
しかし、時と場所が不味かった。
頬を押さえてうずくまる涙目の美女と、拳を握りそれを見下ろす女。周囲の同情の矛先は、当たり前のように全て彼女へと向かった。男子はもちろん、今まで涼花に『すごいね』などと言葉を掛けてきた彼女達も皆、詩織に駆け寄った。
口々に聞こえるわざとらしい『大丈夫?』の大合唱。
詩織を気にする風でいて、瞬時に被害者と加害者の構図を作り上げる彼女達。そして抜け目なく被害者の(有利な)方へつく彼女達。
すると、騒ぎを聞いて一人の男子が涼花達の方に駆け寄ってきた。
『伏見……君』
昨日まで――詩織に告白されるまでは、自分の事が好きだった彼。
――伏見君、お願い! 私にどうしたのって聞いて。声を掛けて、私に……っ!
涼花と伏見の目が合った。彼は涼花に向け、一歩足を踏み出そうとした。しかしその時、彼は周囲の涼花への視線の厳しさに気付いた。途端、彼の足先は方向を変え、涼花の目の前でしおらしく泣く詩織の隣で膝を折った。
『大丈夫か、詩織』
『伏見くぅん……涼花がぁ……っ』
伏見は非難するような目で涼花を見上げた。瞬間、涼花の中で何かが折れた。
――あぁ、所詮こんなものか。
目、目、目、目、目、目――涼花を見る幾つもの目。そのどれもが涼花を非難していた。
涼花は最後の半年を、針のむしろの中で死んだように独りで過ごした。




