5.序の口ね
という経緯があっての、今この状況である。
「四角い部屋を丸く掃くような素人は、大公家……いや、アルティナお姉様の使用人には相応しくない! お姉様は可憐である!!」
「はい! 侯爵令嬢様!」
スフィアは手に持った万能棒を、鞭のように自らの手に叩きつけながら、トレドの手元にまるで指導教官のような厳しい目を向ける。
「まだまだだ。仕える者の事を思いながら、丁寧優しく、されど迅速に磨け! お姉様はお優しく、心が綺麗で、絶世の美女であられて最高である!!」
「はい! 侯爵令嬢様!」
トレドの返す言葉には、下士官のような緊張感が漂っており、スフィアの口調も完全に上官のそれになっていた。
もはや病人の風情はない、というより令嬢の風情さえ微塵もない。
「万能棒は手の届かない狭い場所でも、埃のたまりやすい角にも使える! 棒と使い古した端布があれば作れる、お手軽で懐にも優しい、まさに万能の棒である! 覚えておけ! お姉様は結婚したい女性殿堂入りである!!」
「はい! 侯爵令嬢様!」
毎度毎度、発言の最後につけられる、全く関係ないアルティナへの賛辞。サブリミナル効果。トレドの深層心理に、アルティナの素晴らしさを植え込んでおく必要があった。
――さあ、アルティナお姉様がいかに優しく、メシアなのかを胸に刻み込みなさい! そして称え崇めるのよ!
そうすればただの主従関係の時より、未来のアルティナとトレドの恋愛成就率は上がる。
サブリミナル効果を使いアルティナへの愛を埋め込み、同時に、上官のように威圧的なイチャモンをつける事で、自分の存在を恋愛対象外へと位置づける。
――私ったら天才だわ!
自分でもこんな彼女は嫌だ。重箱の隅をつつきすぎて破壊するような嫁、絶対貰いたくない。しかも、つつかれる度にブートキャンプ同時開催など、トラウマにしかならない。
スフィアは、キラキラと輝きだしそうなほど綺麗になった部屋を見回した。先ほどは「こーんなに汚れている」などと言ったが、その実、全くと言って良いほど汚れてなどいない。
大公家の名誉のために言えば、この程度、汚れでもなんでもない。スフィアの机の中の方が汚い。
窓枠に残る埃の量としては十分に許容量であったし、普段使わない部屋の棚の裏側まで、日常的に掃除をする使用人は王宮でもいないだろう。
「レイランド家の使用人ならば即刻クビにしていたよ。良かったな! お姉様が慈悲深くあられて!」
嘘である。四角い部屋を丸く掃除した程度でクビにするような、パワーでハラスメントするような人間はレイランド家にはいない。もし、そのような狭量な貴族がいたら、間違いなく使用人達で噂になり、笑いものにされているだろう。
というか、使用人の人事権などアルティナが持っているはずもないのだが。
しかし、トレドはスフィアの言葉に疑問を持つことなく、間髪入れず「はい! 侯爵令嬢様!」と、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返した。従順な下士官の出来上がりだ。
スフィアに作り方を習った万能棒を駆使して、部屋の隅々まで掃除して回るトレド。その表情は、最初の惨憺たるものから一変して、次第に爛々と輝きはじめていた。やりがいを見出し始めたのだろう。この従順な下士官め。
そうして、スフィアの精神もブートキャンプに犯されはじめそうになった頃、貴賓室は文字通り隅々まで綺麗になった。
スフィアは検査官のような厳しい目つきで、窓枠を指でなぞる。その指はなぞる前と後とで全く変わらない。スフィアは、フと片口を上げた。
「……よくやった、トレド。だが、これで終わりだと気を抜くなよ!」
「私はいつでも見ているからな」と、獲物を見逃してやった殺し屋のような台詞を吐いて、スフィアは貴賓室を後にした。
背後では「はい! 侯爵令嬢様!」との声が響いていた。
上出来だクソ野郎。
◆
上官の顔から一転して、何食わぬか弱い令嬢顔でアルティナの私室へと戻れば、アルティナもグレイも心配の言葉をスフィアにかけた。
「もう大丈夫です。お姉様に会えた嬉しさのあまり、興奮に気が遠くなっただけですから」
「色んな意味で重症よ、それは」
スフィアの自重しない愛に慣れつつあるアルティナ。その横では、グレイが羨ましそうに湿った目でアルティナを見ていた。
「……俺も、金髪になったらスフィアに愛してもらえるかな」
「金髪碧眼が私の性癖だと思っていたんですか? 違いますよ、私の性癖はお姉様です」
「やめて。人を勝手に癖のいち分類にしないでちょうだい」
「レポートにして学会に提出しても?」
「どうしてすぐレポートを作ろうとするの」
新分類として人間科学分野に貢献できそうだと思ったのだが。
しかし、アルティナの望まないことはしない主義なので、スフィアは口を尖らせつつも大人しく引き下がる。
「まあ、この調子なら大丈夫そうだな。念の為、俺が帰りは送っていくよ」
「ええ、お願いしますわ、グレイ様」
「そんな……私一人でも大丈夫です、お姉様」
正直、このつかみどころのない王子と同じ空間にいるのは、なるべく避けたかった。どれだけ贈り物や拒絶の手紙を返そうと、次の時にはあっけらかんとして近寄ってくるのだから、始末に負えない。
「駄目です。私の客人が帰路で倒れたなんて事になっては、一生の不覚ですもの」
不服の声を上げるスフィアに、きっぱりとノーを突き付けるアルティナ。ノーと言えるご令嬢素敵。
異論は聞かないとでもいうように、ツンとそっぽを向いたアルティナに、スフィアも渋々とだが首肯する。
「そうそう、大人しく俺に送られるんだな」
一方、嬉々とするグレイ。その様子にアルティナは額を押さえ溜息と共に釘を刺した。
「ないとは思いますけど……グレイ様、送り狼になったらただじゃおきませんわよ?」
「安心して下さい、お姉様! 我が家には優秀なスナイパーがおりますから!」
「スナイパー?」
アルティナは何のことだか分からないと首を傾げたが、グレイはにこやかだった口を引きつらせ、静かにスフィアから一歩離れた。
「それではごきげんよう、お姉様! また来ますから! 絶対!!」
見送りに出てきてくれたアルティナ達に馬車の中から声を掛ける。
「はい、ごきげんよう。来なくても結構ですわよ」
「そんなクールなお姉様も素敵っ! 絶対来ますから! ……ね、トレド?」
「はい! 侯爵令嬢様!」
まるで将校の前で直立する一般兵の様に背筋を緊張させるトレドに、スフィアは「グッボーイ」と、満足そうに頷いた。犬を褒めるときに使う言葉だが、トレドは子犬のような見た目をしているから問題ない。
周りの者達は二人の間に漂った一瞬の緊張が何かは分からなかったが、なぜかトレドのスフィアを呼ぶ声が「サー! イエッサー!」に聞こえたという。
――――ウェスターリ家使用人・トレド シナリオ改変完了




