4.……攻略対象!!!
「はっ……ぁ、ふぅ……っ」
「だめですよ、トレド。まだ……」
とある貴賓室で、男女の熱のこもった声が響く。
「もっ、もう……侯爵令嬢様…………っこれで……!」
「まだまだですよ。そんな腰使いで、もうへばったのですか? 随分と……ふふ、我慢がきかない子なんですねえ」
トレドの額には玉のような汗が滲み、頬は赤らみ、口から出る息は途切れ途切れである。もう勘弁してくれとばかりに声を漏らすトレドに対し、しかしスフィアはまだまだだと首を横に振る。
「もっとですよ、トレド……もっと――」
スフィアは見下ろしていたトレドに顔を近づけ、その耳元に口を寄せる。
次の瞬間、スフィアの手に握られていた棒が鞭のようにしなり、ペシンッと床で弾けた。
「――もっと腰を入れて磨けぃ! トレドオオオオオ!」
「もっ、申し訳ございませえええええん!」
スフィアは、這いつくばって床を磨くトレドに、鞭――という名の、掃除の万能棒――を差し向けた。
なぜ、アルティナのいる屋敷で、執事と客人がこのような状況になっているのかは、少々時間を遡る。
目眩がするのなら少し休んでいきなさいという、アルティナの慈悲深い言葉により案内された貴賓室。そこのソファでスフィアは横になり、その看病をトレドがしていた。
しかし本当の病気でもないので、看病と言っても冷たい水を貰ったくらいで、スフィアはすっかり元気になっていた。
それにしても突然の使用だろうに、貴賓室は随分と清潔が保たれていた。勤める者達のレベルの高さが窺える。
二階の半数ほどを占める貴賓室。やはり大公家というのはそれなりに付き合いも多く、晩餐会などで客人をそのまま泊める機会も多いのだろう。
その中の一つ、スフィアが通された部屋は、先程までいたアルティナの私室よりも、落ち着いた印象の貴賓室だった。豪奢すぎるところはなく、ベージュとアンティークグリーンを基調としたシックな内装は、思わずよその家だというのに、存分に寛ぎたくなる居心地良さがある。
しかし当然のこと、スフィアは休むため、ましてや寛ぐために貴賓室に来たのではない。
レモンやミント入りの水を、デカンタからコップに注ぐトレド。その様子をスフィアは注意深く眺めた。
黒目がちでな垂れ目に、端が緩く上がった口元。格好いいという評より、可愛いという評が勝つ甘い顔立ちである。
――お姉様ったら、守備範囲が宇宙なのよね。
多種多様百人の男達に惚れる彼女にはきっと、『好み』などという概念はないのだろう。なんと素晴らしい平等愛。是非とも、その愛の一欠片でもいただきたいものだ。
しかし愛の欠片どころか、スフィアはアルティナに憎しみを丸ごと向けられる予定である。しかも憎しみを向けられるだけならまだ良いが、結果的にそれが原因で、彼女をざまぁしなければならなくなる。
そのような未来を、少なくともスフィアは望まない。というか、誰にも望ませない。この世界の神が望もうが、屈しはしない。
――だから、危険物はさっさと除去しなきゃだわ!
スフィアはおもむろにソファから腰を上げると、部屋の窓辺に近寄る。窓の外には秋咲きの薔薇が華やかにほころんでいた。ピンクや白、黄色に、斑。そして彼女のシンボルカラーでもある深紅。緑の中に、それらの色が散っている様は、まるで宝石を撒き散らしたかのように煌びやかな光景だ。
「とても見事な薔薇園ですね、トレドさん」
「侯爵令嬢様、どうぞお気づかいなさらず。呼び捨てにしていただいて結構ですよ」
「では、トレド。あの薔薇園は、お姉様が?」
「ええ、お嬢様は花がお好きで。本来ならば庭師の仕事なのですが、お嬢様は自らお世話したいからと彼等に混じられ、一緒に手入れされているのですよ。特に、薔薇園はお嬢様が一番愛でられている庭園です」
「さすがお姉様ですね。植物は人の心が分かると言いますし、育てる者の心の美しさがそのまま現れているから、このように一際美しいのですね」
スフィアの言葉に、トレドは誇らしげに頷いていた。
やはり使用人たる者、自分の主が褒められるのは嬉しいのだろう。自分の主人や好きなものが、一番であって欲しいと願う気持ちは理解できる。だからこそ、スフィアもアルティナに『一番』幸せになって欲しいのだ。
二人にこやかに視線を交わしていたが、しかしスフィアは「でも」と顔を曇らせた。
「でも、少々残念ですわ」
「何がでしょうか?」
トレドは怪訝に眉を顰める。
「お姉様の……いえ、大公家のお屋敷ですのに――」
次の瞬間、スフィアは窓枠を触っていた指を、ズイとトレドの顔の前につきだす。
「こ~~んなに、汚れているだなんてっ!!」
つきだした指には、薄らと埃が付着していた。
「なぁ……っ!」
「あらあらまあまあ、大公家の使用人はこの程度だったのですね~? あまり人目に付かないような場所は手抜きしちゃうような、その程度のお覚悟で大公家にお仕えしているのですねぇ~!」
スフィアは鬼の首を取ったとでも言わんばかりの勝ち誇った顔で、トレドを煽る。語尾をねっとりといやらしく上げ、目の前でわざとらしく汚れた指に息を吹きかけて見せる。
「そ、そんな事……っ! 私達は誠心誠意をもって大公家にお仕え――」
「言い訳は見苦しいですよ、トレド」
「ぐっ……」
自分達の忠誠を疑われ、懸命に否定しようとするトレドであったが、スフィアの指に埃が付いていたのは事実なので、言い訳と言われれば口を噤むしかなかった。
やはり大公家に仕えているという矜持があるのだろう。トレドのスフィアを見る目は、悔しさに目尻が痙攣していた。
「さあ、トレド。教育的指導のお時間ですよ」




