42・終章の前菜は美味しくいただきました
「そこで、何をしているんだい? お嬢ちゃん――」
男の声に、スフィアはゆっくりと立ち上がり振り返った。
男の顔がランプの明かりに照らし出される。スフィアはその男の顔に見覚えがあった。
船を案内してくれた、あの船員だ。
「今日は一人かい? こんな所に来ちゃ危ないよ……この辺りには悪い狼がいるからねぇ」
その声は気持ち悪いくらいに優しく、彼の顔には薄気味悪い笑みが張り付いていた。
「あら、もしかして……悪い狼さんって、おじさま達の事ですか?」
男は、一歩一歩とスフィアに近付く。
「まさか。おじさんは優しいよ。ほら、街に連れて行ってやろう。手を――」
「その手を取ったら、どこに連れて行かれるのでしょうねぇ? ライノフ伯爵家? 人身売買の裏市場? ……それとも、海賊船に乗せられるのかしら?」
男が歩み寄る足を止めた。
「何、を――」
下方より照らすランプの明かりは、男の顔の影を濃くする。
「あら? だって、ライノフ家の商船船乗りは、全員海賊でしょう?」
スフィアは楽しそうに肩を揺らして笑う。
少女特有のコロコロとした鈴の様な笑い声に、男の表情は強張った。
「お嬢ちゃん……どこでその話を?」
「だって、元々ライノフ家には黒い噂があったじゃないですか。今更何をそんなに驚く必要があるんです?」
スフィアは口に手をかざし、「まあ」と大きな目を丸くする。
「黒い噂……ね。確かに、領主様と海賊がグルになって、護衛を頼まなかった商船は襲われるって噂はあるな。それで手数料を稼いでるって。まあ、あくまで噂だけどね?」
「ええ、その噂はよく聞きましたわ。黒い噂だというのに、実に良く聞こえてましたもの。私、自分の耳が兎のお耳になったかと思いましたわ」
「ははっ! お嬢ちゃんは兎の耳でも可愛かろうなぁ。どれ……確かめてやるよ」
男の太い腕がスフィアの方に向かって伸びる。
「煙草葉の密貿易は御法度ですわよ」
男の腕がピタリと宙で止まった。
「煙草葉の生産管理は全て国の事業ですもの」
スフィアがライノフ家の家紋入り木箱を拳で軽く叩いた。ぎっしりと中身が詰まっているのだろう、くぐもった音が洞穴に響く。
「よく考えてますわね。密輸品を港場に持ち込むことなく、手元に置く方法――」
海賊に密輸品を奪われたとなれば、当然港場の検閲を受ける必要もなくなる。
密輸品を船に乗せた時だけ、仲間の海賊にライノフ家の商船を襲わせる。そして、紅茶葉でなく煙草葉の詰まった積み荷だけを渡し、あたかも海賊に盗まれた様に見せる――といった寸法だ。
「乗組員も全員海賊なら難しい事じゃありませんわ。仲間なら密告される心配もないですからね」
先程見た男達の姿は、どこからどう見てもただの船乗りだった。
――海賊って、映画みたいにいかにもな格好してるわけじゃないのね。
スフィアは前世の記憶の中にある海賊映画を思い出し、心の中で苦笑した。
「他の商船を襲っていたのは、ついでといった感じとカモフラージュですかね? そして護衛の噂は盗まれた『事』に目を向けさせ、盗まれた『物』から注意を逸らすため」
「違います?」と首を傾げれば、男は額を押さえ哄笑した。
ただでさえ大きい声が、洞穴の中で反芻して幾重にも重なり、スフィアの耳を騒がした。
その耳障りな大音声に、スフィアは顔を顰める。
「うんうん! お見事だ! そしてそこまで分かってるなら、悪い狼に見つかった赤ずきんちゃんがこの後どうなるかも分かるだろう?」
今まで優しさを装っていた男の声音が、一気に下品なものへと変わった。
男は一度は止めた足を再び繰り出す。
「珍しい赤髪だよなあ。港場を歩いてただろ? すぐにこの間のお嬢ちゃんだって分かったよ。一人で、しかも俺達の隠し場の方へ歩いて行くんだ。この間、妙に積み荷に興味を示していたしな」
男はまるで追い詰めた獲物にどうやって恐怖を与えてやろうか、と舌なめずりする狼のようだった。
「良かったよ、後をつけて。誰に頼まれたのか知らんが、依頼主もこんな愛らしいお嬢ちゃんを使うこたぁないのにな? お陰で、二度とお嬢ちゃんとは会えなくなるんだもんよ」
男は口元に下卑だ笑みを浮かべる。
「子供なら俺達海賊が油断するとでも思ったのかね……俺達がそんな良心を持ち合わせてるわきゃないのになぁ?」
いよいよ、男の手がスフィアの肩に伸びた。
そしてあと僅かで触れる、となった時――
「――痛ッ!!!?」
スフィアの手が男の手を渾身の力で弾き飛ばした。
男は想定外に襲いかかった痛みに、手の甲を押さえて驚きに声を漏らした。
「おいおい、お嬢ちゃん。せっかく優し、く……っ!?」
突如男が言葉を引っ込めた。
スフィアが見せつける様にして、取り出した物を見て。
「コレが何なのか御存知ですよね?」
スフィアの手には指に挟む様にして、三本の薬莢が握られていた。
「おじさま達が使う物よりか、少々大きいですが」
スフィアはチラと男の腰元に視線を向けた。男の腰の後ろからは銃のグリップが見えている。
「猟銃用の薬莢です。知ってます? これ一本に結構な量の火薬が入ってるんですよ」
今朝家を出るときに、スフィアが倉庫から何本か拝借してきたものだった。
円柱形をした薬莢は、よく見る金属製の銃弾よりも太い。勿論、それに使われる火薬量も、一般的なものと比べると凡そ五倍もの差がある。
男は慌てて身体を後退させた。
「火薬――って、まさかッ!」
そして男は気付いた。彼女の手に握られている薬莢が全て破られている事に。
つまり、火薬は既に薬莢の中には無いという事だ。
「ふふ、全部振りかけちゃいましたわ」
スフィアは無邪気な笑みで薬莢を逆さに振ってみせると、男の足元に投げ捨てた。
そして、邪気しかない様な笑みで男を見据える。
「困りますよねえ? 略奪品は勿論、このライノフの木箱まで燃やされては。貴方達の大好きな領主様の貴重な収入源ですからね。この一箱で一体いくらになるんでしょうね?」
男の目は据わり、ぎりと奥歯を噛む音が聞こえた。
「些かガキの悪戯にしちゃ、おいたが過ぎるぜ」
男は腰から銃を引き抜くと、細い銃口をスフィアに向ける。
刹那、スフィアでも男でもない、第三者の声が洞穴に響いた。
「おや、そのガキに踊らされてるあんたは、ママンの腹の中に戻った方が良いんじゃないのかい?」
「だ、誰だ――ッぶわ!?」
男が背後に気を取られた隙に、スフィアは男にある物を投げつけ、素早く横を潜り抜けた。
「ベレッタ姐さん!」
第三者の声のは、ベレッタのものだった。
スフィアは彼女のそのくびれた腰に勢いよく抱きついた。
「――ッぺっペ! 何を掛けやがったァ、ガキがッ!!」
男は、身体に纏わり付く砂の様な粒子に苛立たしげな声をあげる。
「お兄さん、その身体で銃をぶっ放すのはオススメしないねぇ。まあ……文字通り、怒りで身を焦がしたいってのなら構いやしないけどね」
「ふふ……私、持っている薬莢が三本だけとは言ってませんわ」
スフィアが楽しそうな声で空になった薬莢を男に見せた。
瞬間、男の顔が青ざめる。
男の身体に振り掛かっていたのは火薬だった。
「追う者は追われていることに気付かない――ずっと、ベレッタ姐さんが貴方をつけていたんですよ」
スフィアは、クスクスと目を細め微笑する。
洞穴に響く嘲笑の声に、男の顔が青から赤へと変わった。
「――っ銃が使えなくても、女子供に海賊様が引けをとるわきゃねえだろがぁぁっ!!」
男は銃を腰に戻すと、身体を低くして地面を蹴った。
それとベレッタがスカートを捲ったのは、ほぼ同時だった。
捲った下から出てきたのは、張りのある褐色の脚線美と黒いホルスター。
「おっと! それ以上無駄に動くんじゃないよ? むさ苦しい男の顔なんて、これ以上近くで見たいもんじゃないからねぇ」
彼女の手には、男の持っていた物より大きな口径の銃が握られていた。
次の瞬間、その黒い短筒は、派手な銃声と火花を連続で撒き散らし、スフィアが略奪品の側に置いてきたランプを破壊した。
ランプに灯っていた火は四方八方に飛び散り、略奪品に撒かれていた火薬に着火する。
火花は連鎖し、耳をつんざく破裂音を鳴らしながら略奪品を火の海に沈めた。
煙草葉はよく燃えるのか、炎は灰色の煙を巻き込みながら火の勢いをどんどんと加速させ、己をも包んでいく。
男は真っ赤に覆われた略奪品を見て力無く膝を付いた。
「あなた方海賊やライノフ家が法に触れようが悪事を働こうが、私は全く構いません。ですから、密貿易やここの事も誰にも言いません」
洞穴奥の熱気が入口まで這い寄ってくる。
燃えさかる轟音の中で、スフィアの透き通る様な高い声はよく通った。
「ただ、もし私達に仕返しをしようと考えた時は、こちらにも用意はある――という事だけはお忘れなき様」
スフィアの言葉が男の耳に届いていたかどうかは分からない。
しかしスフィアとベレッタは頷き笑みを交わすと、男の返事を待たずにもう用は無いと、その場を後にした。
◆
「おー派手にやったみたいだね。さすが君の妹。幼いのに凄いもんだ」
グリーズは港に面した食堂の窓から、半島を眺めていた。
半島の向こう側に、空に昇っていく灰白の煙が見えている。
「当然だろう? 俺の愛すべきレディなんだからな。それにレイランドの者ならば、これくらいやって当然だ」
「とか言って、心配でついてきたくせに」
「タバスコ飲むか?」
ジークハルトはグリーズの酒にタバスコを入れようとにじり寄る。慌てたグリーズが酒を飲み干しあっという間にグラスは空になる。
「と、まあ冗談はこれくらいにしておいて……ライノフと海賊をどうかするつもりなら、少し間は空けてくれよ? スフィアに火の粉が掛からないように」
「当然だよ。元々ライノフ家は私達も注視してたんだ。今すぐどうにかするような事はしないさ。……まだ」
グリーズの含蓄ある答えに、ジークハルトの口角が満足げに歪む。
それを確認したグリーズは、椅子の背もたれに体重を預け鷹揚とした声を出した。
「さてそれよりも、私の末弟は君の麗しの姫に敵うのかな」
「はっ! 是非ご遠慮願いたいね」
二人は遠くで上がる、雲に紛れた白煙を見つめた。
◆
「ちゃんとアタシがついてきてるって、分かってたんだね?」
「勿論ですよ。落葉の季節じゃないのに、あんな若い青葉が何枚も落ちてくるのは不自然ですから。姐さんからの合図だとすぐに分かりましたよ」
街道が走るパンサスの外れ。ベレッタは馬を引いていた。
「では、こちら。お約束の報酬ですわ。二倍と……少し色を付けておきました」
小さな袋をベレッタの手に乗せる。
ベレッタはその袋の小ささに首を傾げ中を確認した。
「へえ、驚いた! アタシ、金貨なんて初めて見たよ!」
「銀貨よりそちらの方が、持ち歩くには良いかと思いまして」
「ありがとうね、スフィア姫」
ベレッタは金貨を大事そうに懐にしまい込むと、颯爽と騎乗する。
「中に私の住所も入れてありますので、落ち着いたらお手紙下さい。またベレッタ姐さんの手腕に頼ることもありそうですから。色が付いた分は前払いみたいなものです」
「しっかりしてるねえ、ったく」
苦笑しつつも、ベレッタはスフィアの赤い頭を優しく撫でた。
「それじゃあ、アタシは行くよ」
「はい。お元気で」
ベレッタは一度馬を嘶かせると、軽快な蹄の音を立て街道の向こうに消えていった。
今回の一件で、ベレッタは海賊の残るパンサスに居ることが難しくなった。
申し訳なさそうにするスフィアに、ベレッタは「元々色々な街を流れているから丁度良かった」と笑っていた。
――海賊をふやけさせる手腕に、銃の技量もある。一体彼女は何者なのかしら……。
疑問はあったが、それ以上にスフィアはベレッタに好感を抱いていた為、今更詮索する気もなかった。
秘密は秘密のままの方が良い時もあるだろう。
「ご無事で……ベレッタ姐さん」
スフィアはベレッタの背に向かって、彼女の安全を祈った。
さて、パンサスでの件は片付いた。
これで残るはレニ=ライノフだけだ。
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