40・さて、そろそろ終章を始めましょうか
スフィアが食堂に戻れば、案の定、不機嫌な顔をしてタコの足を忌々しそうにしがむ男が鎮座していた。
不機嫌に顰めていても美男である事が滲み出る顔で、口からタコの足を飛び出させている姿は、異様な雰囲気を醸し出している。
ジークハルトはスフィアの姿を確認すると、するすると口の中にタコの足を収め高速で噛み砕き、もどかしかったとでもいう様に早速に口を開いた。
「スフィア! その服はどうしたんだ!? まるで町娘に扮して地上に戯れに降りた女神――ッぐ!!」
良くまわる口に、再びタコを詰めて沈黙させる。
――人の目を気にしないシスコン程怖いものはないわね。
これ以上何かを叫ばれて目立つ前に、スフィアはジークハルトの手を引いて家に帰った。
◆
「全く、兄様と出掛けるのも考え物ね」
思い出し疲れの溜め息を、窓の外に向かって吐いた。
スフィアはいつもの如く窓台に座り、二枚の手紙と睨み合っていた。
一枚は先日ベレッタの胸の谷間から出てきた手紙。そして、もう一枚は彼女から今朝届いた手紙だった。
今、スフィアの手の中には『海賊』と『積み荷』のカードが握られていた。
「これで全て揃ったわ」
――見てなさい、レニ=ライノフ。貴方の言うつまらない女がどこまで出来るか!
そして、格下に見た相手に膝を折る苦痛を味わえば良い。
スフィアは清々しい青空とは正反対の仄暗い笑みを浮かべた。
次の瞬間、部屋のドアがノックされた。
「入るよ?」
ノックの主はジークハルトだった。
「どうぞ」と声を掛ければ、彼はするりとドアの内側へと入ってくる。
「どうされたのですか?」
「んー……」
ジークハルトは部屋の中をきょろきょろと、何かを探す様に顔を巡らしながら歩く。
すると、スフィアの手に握られた手紙を見つけ、片方の口端を深く上げた。
「スフィア。その手紙……誰からだい?」
「……お友達からですわ」
スフィアはゆっくりと自然な動きで手紙を折り畳んだ。そしてジークハルトの視線を避ける様に体の陰に隠す。
「へぇ、学院の?」
「え、えぇ……そうですわね」
――一体どうしたことかしら……。
手紙が来たことなら幾度もあった。しかし、今までジークハルトが一度だってこの様な反応を示したことはなかった。
ジークハルトの、自分と同じエメラルドの瞳が真っ直ぐにスフィアを見ていた。目を少し細め口元に笑みを描くその顔は、スフィアには『訳知り顔』に見えた。
スフィアと一定の距離を開けたまま、ジークハルトはそれ以上は近付こうとしなかった。いつもなら瞬で近寄ってくるというのに。
「……ジークハルト兄――」
スフィアが怖ず怖ずと口を開いた時、ジークハルトが被せて言葉を発する。
「スフィア……大丈夫かい?」
全く以て前置きも文脈もない、あまりにも突然の言葉にスフィアは言葉を失った。
意図は分からなかったが、意味は分かった。
「……ええ。とても頼りになる方ですから」
「それなら良いよ」
ジークハルトは素直に踵を返し、ドアへと向かった。
「――それにしてもスフィアは察しが良いね。流石は僕の妹だ」
肩越しに振り向いたジークハルトと視線が交われば、彼は満足げに目を細め、ドアの向こうへと消えた。
スフィアは暫く、彼が出て行ったドアから目が離せなかった。
――狂気的シスコンですっかり忘れてたけど、あの人はレイランド家の跡取りだったわ。
彼はスフィアを案じて「大丈夫か」と聞いたわけではない。
スフィアがやろうとしている事について「問題はないか」と聞いたのだ。
「我が兄ながら、恐ろしい洞察力だわ」
恐らくスフィアが行動を起こすに至った原因や、詳細までは分かってはいないだろうが、少なくともこれからスフィアが『誰に』『何をするか』は分かっているのだろう。
貴族家系といえど、毎日食っちゃ寝して領地を見回れば家督を継げるわけではない。
跡取りには家格に見合った相応の品格、教養、知識、武力が必要となる。
「もし、大丈夫じゃないって答えてたらどうしたのかしら?」
きっと、今スフィアが考えている結末では済まない様な気がする。
特定の人物への態度を除き、いつも上品で物腰柔らかいジークハルトだが、その貴族然とした仮面の下には、レイランド侯爵家跡取りであるという高い矜持が隠されている。
もし、その矜持を少しでも傷つけようもんなら――
「感謝しなさいよ、レニ=ライノフ」
――あんたの相手が私だった事に。
スフィアは脳裏に浮かんだレニに、褪せた笑いを漏らした。
◆
昼休み。スフィアは一人で屋上に来ていた。正確には、屋上に入るドアの前に、だ。
静かにドアノブを回してみれば、鍵は開いていた。
――やっぱり、昼休みはここに来てるのね。
スフィアはゆっくりとドアノブを逆回転させ、正位置に戻す。
そして、ロクシアンから拝借した鍵を取り出すと鍵穴へとさし込んだ。
ガチャ、と鍵の閉まる金属音がドアから響く。
途端に、ドア一枚を挟んだ向こう側が騒がしくなる気配があった。
眼下のドアノブが荒い音を立てながら左右に回る。しかし、途中で引っ掛かった様にノブは浅くしか回らない。
ドアの向こう側で「クソッ!」と、苛立たしげに吐き捨てる声が聞こえた。
その声はやはり予想通りの人物のものだ。
「こんにちは、レニ先輩」
ドアを挟んで呼び掛ければ、動揺した声が返ってくる。
「はぁ!? その声……スフィアかッ!!」
「ふふ、ご名答です」
楽しそうに答えれば、レニの声音は怒号に変わる。
「ふっざけるなよ!? どうやって鍵を閉めた! 鍵は私が持ってるだろう!!」
「言うわけないじゃないですかぁ」
瞬間、ドアが爆ぜる様な音を立てて揺れた。
向こう側でレニが殴ったのか、蹴ったのかでもしたのだろう。
「あら、いいんですか? 私がこのままここを立ち去ったら、先輩はそこで誰かが通るまで大声を上げ続けるハメになるんですよ?」
そう言えば盛大な舌打ちが聞こえ、ドアの向こう側は沈黙した。
「仕返しかよ……」
「まさか。こんな仕返しはしませんよ」
そう。こんなちゃちなのは仕返しとは呼ばない。
「だったら――」
「ねえ、先輩。今そこで私をつまらない女って侮辱した事を詫びて、屋上の鍵を返すと約し、今後私とは関わらないと誓って下されば、事は穏便に済みますが……いかが致します?」
「はっ! どうせ、詫びなきゃ開けないんだろ!?」
「いえ? お話が済めば開けますよ。流石にこんな陰険な手は使いませんよ」
「じゃあ、君の条件を飲むことはないね」
レニの嘲りを含んだ声に、見えずとも彼がどんな表情をしているか容易に想像が付いた。想像が作り上げた彼の顔も中々に腹立たしいものがある。
「それが先輩の最終回答と思ってもよろしいですね?」
「最終も何も、私は君に頭は絶対に下げないね。君みたいな、つまらない女に!」
「つまらない女」という部分をいやに強調する。挑発しているのが見え見えだ。
しかし、見え見えの挑発でも苛つくことには変わりはなく、スフィアは冷笑を浮かべた。
「良かった。先輩が思った以上に馬鹿で」
「っ誰が馬鹿だって!?」
再びドアが騒がしい音を立てて揺れた。
「牙を剥く相手を見誤られませんよう――といっても、今回は手遅れですが。良い勉強になったと諦めて下さい」
「はぁ? 意味が分からないんだが……」
レニが不愉快な声を上げるも、もうドアの向こうから反応が返っては来なかった。
彼がゆっくりとノブを回せば、ドアはキィィと甲高い音を立て静かに開いた。
そこには誰も居なかった。
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