39・姫のナイトは夜の猫
安宿の一室。
歩けば軋む床に、硬そうなベッドが一台と埃被った小机一脚。壁は勿論、戸まで薄そうだ。
今まで足を踏み入れた事のない雰囲気に、スフィアは物珍しそうに部屋を見回した。
「お兄さん、発狂してたけど良かったのかい?」
「いいんです。いつもの事なので」
ただの発作ですから。
食堂に現れた彼女に話があると言われ、すぐに「何の話か」を察したスフィアは、ジークハルトを残し彼女と共に食堂を出てきたのだ。
その際、しつこく「一緒に行く! 一緒に居ないと心がもたない! 僕の!」と発狂するジークハルトを、スフィアは「嫌われる覚悟があるのなら」と冷えた目を向け大人しくさせた。
今頃、「これでも食べていて下さい」と残してきたタコにでもかぶりついている事だろう。
「随分と過保護なお兄さんだね」
彼女はクスクスと笑い、薄汚いベッドに腰を投げ下ろした。
まるで柔らかさの「や」の字も感じられぬベッドは、ドスッというベッドらしからぬ音と共に埃を舞い上げた。
「悪いね、こんな安宿。貴族のお嬢様にはキツかったね。でも、アタシが良い宿に入って行ったらそれこそ目立っちまうからね。それにそんなのも着せちゃって……」
彼女の視線がスフィアの身体を上下に一巡りする。
「構いませんわ。郷に入りては郷に従えですもの」
スフィアは自分の身を纏う、薄手の綿のワンピースを摘まんだ。
彼女と食堂を出た後、一番初めに連れて行かれた場所は服飾店だった。
スフィアの格好はどうしてもこの地では目立つ。ただでさえ稀な赤髪のうえに、豪奢な貴族服を着ていては何処へ行こうと人目を引いてしまう。
だからスフィアは彼女に言われる通り、地味な綿のワンピースとドレスを交換した。
財布はジークハルトが持っており、彼女にお金を出して貰うのも忍びなかったので、交換をと交渉した。物々交換など出来るのだろうかと思ったが、店主は大喜びでドレスと交換してくれた。
スフィアは、懐かしい着心地のワンピースに表情を緩めた。
「さて、本題だよ。大人しく付いてきたって事は、アタシが誰だか見当は付いてるんだろう? スフィア姫」
わざとらしい呼び方でスフィアの名を口にすると、彼女はたわわな胸を揺らし黒髪を掻き上げた。
「はい。貴女が私の名を呼んだ時から」
会ったこともなく、レイランドの名も知らなそうな女性が、自身の名と容姿を知っているという事は、つまり誰かから伝聞したという事だ。
そしてその誰かとは、自分を「スフィア姫」と呼ぶ人物だ。
答えは至極簡単。
「ロクシアン先輩が頼んで下さった方でしょう? 私の前に現れたという事は、私の依頼を引き受けて下さったと理解してよろしいでしょうか?」
スフィアは窓を開け放つと、そこに腰を落ち着けた。埃っぽい空気が多少マシになる。
「ええ。男と寝てあんな額の報酬が貰えるなんて、アタシにとっては美味しい話だもの。喜んで引き受けたわ。アタシはベレッタだよ。よろしくね、雇い主のお姫様」
そう言うと、ベレッタはウインクをスフィアに飛ばした。
妖艶なだけかと思ったが、意外な茶目っ気を見てスフィアは彼女に好感をもった。
「こちらこそ改めてお願いしますわ。ベレッタ様」
丁寧に頭を下げれば、ベレッタはくすぐったそうに笑う。
「やめとくれよ! そんな『様』とか柄じゃないんだ! 『さん』とか『姐さん』で呼んでちょうだいな。ここらの皆はアタシの事は姐さんって呼ぶからね」
「それでは、ベレッタ姐さんと呼ばせて頂きますわ」
二人は笑みを交わすと、距離を近付けた。
今までの朗らかな声は潜める様な声へと変わる。
ベレッタが胸の谷間から紙を取り出した。それはスフィアがロクシアンに渡したものだった。
「取り敢えず、書いてある通りに『ライノフ商船の船乗り』と繋がることは出来たよ」
「ありがとうございます」
「そして、もう一つの依頼。『船乗りから海賊の情報を聞く』ってのと、『ライノフ伯爵について』ってのについても大丈夫だよ」
「領主様についてはありきたりな話だったけど……海賊については、ちょっと面白い話を聞けたよ。酒に酔わせてベッドに連れ込んじまえば、案外すんなり話すもんさ」
どうやって聞き出したかリアルに想像できて、スフィアは慌ててかぶりを振った。
ベレッタはその様子を見て「お嬢様には、まだ早かったかね!」と笑っていたが、全然笑えない。
無闇に知識があるのも考えもんだ。
ベレッタは笑いを収めると、またも胸の谷間から紙を取り出した。
――胸って、ポケットか何かだったかしら。
スフィアは仄かに体温の残る紙を受取る。
その紙をチラと開くと一瞬目を見張らせ、すぐにワンピースのポケットに入れた。
「ありがとうございます。どうやらじっくり読んだ方が良さそうですので、家で改めて拝見しますわ」
ベレッタは意味深な笑みを浮かべ頷いた。
「さて、アタシへの依頼はこれで良かったかい?」
ベレッタは仕事は終わった、と反動をつけてベッドから立ち上がった。しかし、スフィアの声がドアに足を向けようとした彼女を呼び止める。
「いえ、追加でもう一つ。『ライノフ商船の積み荷』についてもお願いしますわ。ベレッタ姐さん」
ベレッタは不可解といった表情を浮かべた。
「積み荷って……領主様の貿易品は紅茶だよ?」
「ええ。きっと皆さんも紅茶だと言います。けれど、紅茶以外の答えを聞き出して下さい。コレを聞き出せたベレッタ姐さんなら軽いものでしょう?」
スフィアが先程受け取った紙を入れたポケットを叩けば、ベレッタは肩をすくませて、やれやれと頭を振った。
「全てが終われば、報酬は二倍払いますわ」
ベレッタは苦笑した。
「ロクシアンの言ったとおり、中々面白いお姫様だね」
「光栄ですわ」
首を傾げて微笑めば、ベレッタが手を差し出す。
「さて、保護者の所まで送ってくよ。姫」
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