31・その殿方、危険につき……
肌にじわりと滲む汗。降り注ぐ日の光は以前より暑さを増していた。
濃緑だった制服はその重厚な空気を脱ぎ捨て、軽快な真っ白へと変わっていた。学院の至る所で翻る白は目にも涼やかで、夏の太陽と森の奥を思わせるひやりとした風も相まって、心までも軽くなる様だった。
――この世界の夏って随分と楽だわ。
前世での夏は正に地獄だった。外で卵を落とせば目玉焼きが出来るという、最早狂気の季節だった。それに比べこちらの世界の夏は、まるで避暑地の様で心地良い暑さだ。
「青空の下で食べるお弁当って、なんでこんなに美味しいのかしら」
家の料理人に作って貰った正方形のサンドイッチ。
スフィアはその正方形の角に齧りつく。本当は生徒は食堂で食事を取らなければならないのだが、人混みの中よりも、こうして屋上で食べた方が開放感があって気持ち良い。
「で、お二人は無理して付き合わなくても良いんですよ?」
スフィアは正方形一つを咀嚼しおわり、次の正方形を手に取る。その姿を横目に、ブリックとガルツも持ってきていた弁当を口に入れる。
「俺達も人混みは嫌なんだよ」
「暑い中、もっと暑い場所にわざわざ自分から行きたくないからね」
三人は、屋上入口にある塔の影に並んで座っていた。
「まあ、鍵の事を喋らなければ別に良いですけどね」
「喋ったら真っ先に二人を先生に突き出しますし」とスフィアが呟けば、二人は食事する手を止め、小さく「はい」とだけ返事した。
「さて、ご飯も食べ終わりましたし教室に――」
立ち上がり大きく背伸びをすれば、スフィアはふと鼻につく匂いに気付いた。
「あれ……何か、煙? ……臭くありませんか?」
スフィアがそう言えば、ガルツとブリックも腰を上げ、鼻を突き出しながら匂いの元を探し始める。
「確かに……でもこれただの煙の匂いじゃない気がする」
「つか、妙に鼻につくな。すえた匂いっつーか……」
二人はこの匂いが何なのかまでは分かっていない様だったが、スフィアはこの匂いを知っていた。
――煙草の匂いじゃないの。
学院には教師も居るのだから、煙草の匂いがしていてもおかしい事はないのだが、本来ならば屋上までその匂いが届くことはないのだ。
何故なら、教師達の喫煙場所は専ら職員室の一室だったからだ。
そしてその職員室は正門近くの一階にある。今、スフィア達の居る屋上とは反対側の棟の。
「ここに匂ってくるって事は、割と近くですね」
匂いの元を辿って手すりの隙間から下を覗き込めば、普段は使われていない特別教室の窓が細く開いているのに気付いた。
――誰よ!? 教室で煙草なんて! ていうか、これ先生じゃなかったら大問題じゃない!
教室が真下に位置している為、中の様子まではスフィアの所からでは見えない。ただ、時折その窓の隙間から、灰白の煙と白い棒を持った手がちらと姿を覗かせていた。
その手首には細く白い腕輪が飾られている。
「――模様?」
よく見れば、腕輪の表面には黒で何かの模様が描かれており、特徴的な作りになっていた。
「スフィア、何か見つけたの?」
柵の間に顔を突っ込んで動かないスフィアに、ブリックが声を掛けた。
彼はスフィアにだけ声を掛けたつもりだったのだろうが、その声は予想外の人物にまで届いていたらしい。
真下にあった窓が勢いよく全開にされ、そこから人の頭が覗いた。
スフィアが「やばい!」と思った時には手遅れだった。
飛び出してきた赤褐色の頭は、キョロキョロと左右を見回した後、最後に上を向いた。
「――あ」
飛び出してきた頭の持ち主――大人びた顔をした男子生徒はスフィアと目が合うと、目を見開き感嘆詞を漏らした。
スフィアは見てはならないものを見てしまった様な気がして、すぐに柵から頭を引っこ抜いた。そして、慌てて柵から距離を取った。
「ん? どうしたの、そんな驚いて。スフィ――ッんぐ!?」
スフィアは、呑気に自分の名を呼びながら近付いてくるブリックの口を押さえ込んだ。
――目が合ったけど一瞬だったし、上級生っぽかったし……きっと大丈夫、よね。
スフィアはブリックとガルツの手を取ると、足早に屋上から退散した。
◆
「で、あんなに慌てて、何か見たのか?」
教室に戻り人心地つくと、ガルツが先程慌てて屋上を後にした事について不思議そうに尋ねてきた。
「いえ……覗き込んだら、教室から顔を出した人と目が合ってしまって驚いたんです」
煙草のことについては二人には伏せておいた。
校則やら世の中のルールやら、たとえ色々違反していようが敢えて個人の趣味嗜好に関わる気はない。
面倒事は攻略キャラだけで十分だ。
「へえ。誰だったの、それ?」
「大人っぽい雰囲気でしたから上級生だとは思うんですけど、流石に名前までは分かりませんね」
「確かに知り合いでもない限り、顔見ただけじゃ分からないよね」
ブリックは特に誰かというのを絶対に知りたかったわけではなく、話の流れとして聞いただけのようだった。それ以上は深くは聞いてこなかった。
「あ、ただ左手に白い腕輪をしてました。あと、赤髪」
スフィアは自身の腕に指を巻き付け、腕輪を模す。
「赤髪ぃ? お前みたいな色か?」
ガルツがスフィアのルビー色の冴えた赤髪に目を向ける。
「いえ、褐色の赤髪です」
「それじゃあ分かんねぇな。お前みたいな赤髪ならまだしも、褐色の赤髪なんざそこら中にごまんと居るからな」
そう言って、ガルツが肩越しに背後へ目を向ける。
確かに、教室の中をざっと見回しただけでも、片手位は赤髪の生徒が居た。
「それと白い腕輪ねぇ……。んー何か聞いた事ある様な、ない様な……」
ブリックは頬杖をつきながら視線を天井に彷徨わせる。
「白地に黒で何か模様が描いてありました。流石に何が書いてあるかまでは見えませんでしたけど」
そういえば、と思い出した様にスフィアが言葉を付け加えれば、ブリックの眉間に皺が寄る。
「ん? 白地に黒い模様の入った腕輪? ん?」
ブリックは何か思い当たる節でもあったのか、右に左に頭を揺らし呻り声を出す。
そして彼が「あっ!」と叫んで顔を跳ね上げた丁度その時、クラスメイトがスフィアを呼んだ。
「スフィア嬢ー、お客さんですよー」
クラスメイトが、教室の入口から間延びした声でスフィアを呼ぶ。
スフィアは入口の方に顔を向けた。
ドアの影に見えるシルエットは背が高く、お客さんだという者は少なくとも下級生ではない事が窺えた。
――上級生?
下級生の教室に上級生が来ることは本来ならば珍しいことなのだが、昨年のロクシアン、春先のルシアスとテトラの騒ぎがあったせいで、今やスフィアに上級生が訪ねてこようが最早誰も驚かなくなっていた。
スフィアは小走りに入口へと向かい、クラスメイトに取り次ぎの礼を言うと、その客を確認した。
次の瞬間、スフィアのただでさえ大きい目が、瞳が落ちそうな程大きく見開かれた。
スフィアは思わず一歩後退る。しかしその客はスフィアが下がった分、足を踏み出し教室へと身体を侵入させた。
「あッ!!」
その瞬間ブリックが驚きの声を漏らした。
すぐに彼は自分で自分の口を塞いだが、教室中に響き渡った叫びを無かったことには出来なかった。
ブリックは教室中の視線を一手に引き受けた。もちろん、スフィアと客だという『男子生徒』の視線も。
ブリックは諦めた様に、ゆっくりと口を塞いでいた手を下ろすとその名を呟いた。
「レニ=ライノフ……先輩」
その名は、冬休みに二人から届いた手紙にも記されていた。
『レニ=ライノフ』――彼は、攻略キャラだ。
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