29・さあ! 私のために争いなさい!
メーレルがグレイの肩を掴んでいた。
そして彼は、グレイの向こうに見える市場へと視線をチラ向ける。
そこには市場の鮮やかさにも負けない美麗な赤が、ひょこひょこと愛らしい動きで色んな店を覗いていた。
「手紙を見たのなら分かるでしょう? 俺は単に彼女に会いたいと伝えているだけです。店員と客という関係でも良い。それくらいの自由を、いくら彼氏だからといって、あなたに奪う権利はないはずだ!」
グレイは口の中で小さく舌打ちをした。
――案外しつこい。
彼氏だと名乗り出れば素直に諦めてくれると思ったが、どうやら彼は彼氏如きでは引くつもりはないらしい。
「……まあ、別に店員と客として会うことに口は挟みませんよ。それは貴方の仕事ですからね」
「だったら――!」
食い下がるメーレルに、グレイは一旦外に向けた足を再び店の中に向ける。
「だったら?」
グレイは肩に置かれていたメーレルの手を払い落とした。
「だったら望みがあるとでも? もしかしたら彼女が自分に気を持ってくれる可能性があるとでも?」
店の外は眩いばかりの日の光が降り注いでいた。
そのせいで店内は薄暗く、入口に背を向けたグレイの表情にも影を落とした。
彼の目元も口元も弧を描いているというのに、その表情は威嚇している様にしか見えず、思わずメーレルは唇を噛み、その得体の知れない圧に耐える。
「――ッか、彼女の気持ちは……彼女の自由ですから」
「自由……ねえ?」
グレイは腕を抱え、意味有り気な声を出しながら指で自身の顎を撫でる。
「んー、あまり言いたくはなかったんですがね……俺と彼女、許嫁なんですよね」
メーレルの眼が見開かれる。
「彼女、どう見ても貴族でしょ。幼くても許嫁がいることは貴族にとって別に珍しいことじゃない」
これでメーレルの希望は完全に断ち切った、とグレイは思った。
家同士の婚約を持ち出されては、メーレルが貴族というのならばまだしも、平民である彼には如何ともしがたいことだった。
――さて、そろそろスフィアの元へ戻らないと。コイツみたいな他に変な虫が寄ってくるかもしれないしな。
流石にこれでもう諦めるだろう、と店の外へ視線を仰いだ時、メーレルから確かな意思を持った声が発せられた。
「それでも……たとえ許嫁でも、結婚するまでは彼女が誰と付き合おうが自由なはずだ!」
流石のグレイも、あまりのメーレルの諦めの悪さに、今度は明らかな舌打ちを鳴らした。
そうしてグレイの手がメーレルの白いシャツを乱暴に掴み取った。力任せに自身の方に引き寄せれば、二人の身体は重い音を立ててぶつかる。
「素直に諦めると言っていれば、その心の中までは踏み込まないつもりだったんだがな?」
画に描いた様な整った顔が見せる怒気は、相手の息を詰まらせるには十分な迫力があった。
メーレルは目を丸くしたまま、抵抗を忘れて棒立ちする。
「いいか? 彼女には手を出すな。今この瞬間、ここですっぱりと諦めろ」
「――ッだ、から、何故……」
悔しさが滲むメーレルの声は、次に振り下ろされたグレイの言葉の斧で、無残にも千切られた。
「俺がこの国の王子だからだ」
目端が裂けるのではという程、メーレルは瞠目した。
「グレイ=アイゼルフォン――名くらい知ってるだろう? 王子の許嫁相手に万が一も億が一もない。それこそ、あってみろ。この国からお前の居場所を奪うくらい容易いぞ?」
「これが本当に自分と同じ年の少年か?」と、メーレルは驚きよりも畏怖を覚えた。
息の掛かる程の距離で向けられた藍色の瞳は恐ろしい程に美しく、メーレルは猛烈な羞恥心に襲われ視線を伏せた。
「もう一度言う。彼女にその好意の一欠片でも見せてみろ。店員と客以上の何かを求めてみろ。永遠に記憶の中の彼女にしか会えなくなると思え」
グレイは乱暴に手を離すと、よろめき視線の定まらぬメーレルを冷めた目で一瞥した。
「――あ、どうかこの事はご内密に」
そしてグレイは外面用の綺麗な微笑を残して店を出た。
もう、メーレルがグレイを引き留めることはなかった。
◆
「あら、お帰りなさい。グレイ様」
グレイが市場でうろうろしていたスフィアの元に戻れば、彼女は随分と呑気な声でグレイを迎えた。
グレイの予想通り、スフィアの周りには色々な虫が来ていた様で、ブーケの他にも沢山の物を腕いっぱいに抱えていた。
「きっちりお話はつきまして?」
グレイは眉を顰めて、至極面倒だったとでもいう様に嘆息した。
「ああ。もう彼は君への好意を表に出すことはないだろうさ」
「結構大変された様ですね?」
「本当だよ。あの店員のしつこいのなんのって。きっとスフィアが断りを入れても、食い下がって押し切られただろうね」
そう言って、グレイは後ろ髪を乱雑にかき混ぜた。
彼の表情からも漏れ出る溜め息からも、いかにメーレルの――いや、世界の予定調和の力が強かったか窺い知ることが出来た。
スフィアは、やはりグレイを行かせて正解だった、と心の中で微笑んだ。
「それをグレイ様はどうやって諦めさせたんですの?」
一体どんな手を使ったのだろう、とスフィアそのグレイの疲れた顔を見上げた。
すると、グレイは「あー」と何とも歯切れの悪い声を漏らす。
「まあ、身の程をわきまえさせたってところかな」
「身の程って……」
何となくグレイがどんな手段を取ったのか、見当が付いてしまった。
スフィアは心の中でメーレルに同情の念を送った。
――この世界で、王子に対抗できる身分を持った者など、片手も居ないでしょうに。
爽やかな笑みを向けてのたまう姿に、いつぞやのジークハルトの叫びを思い出す。
――確かに、これは腹黒いわ。
スフィアが自身の思考に一人で納得していると、グレイが先程よりも喜色を滲ませた笑みで顔を覗き込んできた。
「それで、頑張った俺にご褒美はいつくれるんだ?」
「ああ、そうですね! ご褒美でしたよね」
その言葉にグレイは意外な顔をした。てっきり渋るかと思っていたのに、存外にスフィアは笑顔を浮かべている。
「じゃあ、ご褒美です。ちょっと屈んでくれませんか?」
グレイは「まさか」と、淡い期待にニヤける口元を押さえる。
「ちょっと横を向いてくださると、やりやすいのですが」
スフィアの言葉に、グレイは溢れ出そうになる歓喜を押さえ目を閉じると、その瞬間を胸を高鳴らせて待った。
口か頬か――グレイの高鳴りは今や最高潮を迎えようとしていた。
「今回はありがとうございました。お疲れ様です」
目を閉じたことによって否が応でも全神経がそこに一極集中する。
今か今かとその感触を待ち侘びていると、期待した熱が来る前にスフィアの満足げな声が先に耳に届いた。
「はい! お疲れ様でした!」
訳も分からずグレイは目を開ける。
「……ん? あれ? ご褒美――は?」
全神経を集中させていたのだ。例え触れなくとも顔が近付いただけで分かるはずだが、その様な気配は一切無かった。
すると、スフィアはグレイの胸元を指した。
グレイが身体を起こして見てみれば、胸元が黄色に彩られていた。その黄色をよく見れば、一輪の花だと分かる。
「チューリップ……?」
「ええ、ご褒美です」
「綺麗でしょう?」と曇りなき眼で見つめられては、グレイもそれ以上は何も言えなくなってしまった。
「……ええ……綺麗ですね……とても」
思わず口調も丁寧になる。
グレイが少し拗ねた様に言えば、スフィアは肩を揺らしておかしそうに笑った。
そのあまりに無邪気に笑う姿を見ている内に、グレイも「まあ、いいか」と空に息を溢し微笑んだ。
そして空からスフィアに視線を戻せば、彼女の髪にも自分と同じ色の花が飾られていたのを思い出した。真紅の髪に黄色のガーベラはよく目立つ。
それはあの男が寄越した好意の象徴。
グレイはスフィアの髪からその花を引き抜くと、そのまま投げ捨てた。
「え!? ちょっ……グレイ様!?」
困惑の声を上げるスフィアを無視して、グレイは市場に並ぶ店の一つで素早く買い物を済ませると、それを先程まで黄色い花が飾られていた所に結びつけた。
「スフィアのこの髪には、黄色より青の方が似合う! 絶対!」
スフィアの髪に飾られていたのは、まるで誰かの瞳の色を映した様な青いリボンだった。
「それじゃあ、家まで送ってやるから帰るぞ!」
グレイが少し気恥ずかしそうに差し出した手を、スフィアは苦笑と共に躊躇わずに掴んだ。
「それで、いつまでその様な口調をされているんです?」
「砕けた口調の方が、心の距離も近くなった様な気がするだろ? スフィアももっと俺と普通に話してくれいいからな! なんたって許嫁だしな!」
「ほほほ、お心遣い大変いたみいりますが、何卒私のことなどお捨ておき下さいます様、お願いしたく存じますわ」
「……べらぼうに堅い」
肩を落としたグレイは、胸に挿さる花を慰めてくれとばかりに撫でた。
その姿をスフィアは微笑でもって眺めていた。
きっと彼は花言葉など知らないのだろう。
黄色いチューリップの花言葉――それは、『望みのない恋』。
本当はプレゼントなどするつもりもなかった。好意を助長する可能性があるからだ。だが、今回は協力の見返りの約束だ。致し方ない。
だからせめて、その裏に隠された意味で抵抗の意を表わした。
――私は、誰かのものになるわけにはいかないのよ。ごめんなさいね、王子様。
スフィアは口元を隠した手の下で、薄暗い微笑を浮かべた。
――――花屋のメーレル グレイ王子の功労により、シナリオ改変完了
お読みいただき、ありがとうございます。
応援する、続きを読みたいと思われたら、ブクマや★評価をお願いいたします!励みになります!




