43 脱出
「随分と逃げるのがお上手ですね、殿下。まるですばしっこいネズミのようだ!」
「常日頃、命を狙われているものでね。どこかの侯爵子息に」
うちの兄がすみません。
「俺の心配はしてくれなくていいぞ。それより、こんな間合いを詰められて大丈夫か――銃が死んでるが」
次の瞬間、下から上に跳ね上げた剣先がレニの肩を裂いた。
「――っく!」
スフィアは、「すごい」と思わずこぼしていた。
銃と剣では、絶対に銃が有利だろうと思っていた。だが、蓋を開けてみれば、グレイは狙いを定めさせないように姿勢を低くして無軌道にレニに近寄り、素早い斬撃を繰り出していた。レニも銃とは反対側に持った短剣で何度か受け流していたが、距離が詰まりすぎて右手の銃は思うように使えないでいるようだった。
さすがは、長年誰かに銃撃され続けてきたことはある。
そして、とうとうグレイの剣がレニの銃身を真っ二つにした。同時に切っ先がかすめたのか、レニの腕からも血飛沫が散る。
いつも冗談ばかり言うし、情けない姿ばかりみてきたが、彼がこれほどに強く、頼りになるとは思わなかった。
バランスを崩して、床に倒れたレニに、グレイの剣先が突きつけられる。
「殺しはしないが、手足の一本はもらっておくぞ」
グレイがその刃を振り下ろそうとした時、空気をつんざく銃声が部屋にこだました。
「え……」
思わずスフィアの口からも呆気にとられた声が漏れる。
レニの銃は使い物にならなかったはず。
では誰が、どこから、と思ったら目の前でグレイの身体が傾いだ。
そして、グレイの姿に重なっていたレニの姿が現れて、銃声の出所を理解する。レニの左手には短剣ではなく、右手のものとは別の銃が握られていた。銃口からは白煙が立ち上っている。
「誰も銃がひとつだなんて言ってませんからね」
「――っグレイ様ぁ!!!」
スフィアは力なく床に崩れ落ちたグレイに駆け寄る。
息はあるが、脇腹を押さえてうずくまるようにしていた。その手の下からは血が白いシャツににじみ出している。
「グレイ様!? しっかり! お願い、グレイ様!!」
どうしていいのか頭が真っ白になって分からず、倒れたグレイの横で狼狽えるスフィアだったが、突如、引き離すように腕を引っ張られる。
「来い、赤髪」
「ちょっ! やめ……イヤッ!?」
腕を掴んでいたのは、あちらこちらから血を滲ませているレニだった。彼はそのまま暴れるスフィアの力など無視して、単純な力の差でスフィアを入り口へと無理矢理引っ張っていく。
「ス、フィ……」
「グレイ様!? グレイ様!!」
グレイが震える手を伸ばしてくるが、スフィアにはどうすることもできず、引きずられるようにして部屋を連れ出された。
レニはスフィアの手を引いてどんどんと廊下を進んでいく。
「ここの別荘は気に入っていたんだがな。王子達に見つかっては二度と使えまい。仕方ない、処分するか」
言うやいなや、レニは廊下の壁に掲げてある燭台を次々と落とし始めた。燭台に満たしてある油の量はそこまで多くはないが、掲げてある数が数である。
それらが廊下に敷かれた絨毯で燃え始めれば、あっという間に火の海となる。廊下に充分に火が回ったら、今度は燭台を空き部屋に放り込んで、中まで燃やすという手の込みようだ。
「他に物音がしないな。エノリアもリシュリーも先に出たか」
「ちょっと! 離して!!」
「うるさい、黙って着いてこい」
腕を引っ張るやはり逃げることはかなわず、スフィアはレニと共に廊下を進んでいく。しかし、レニは不思議なことに出口であるはずの表ではなく、なぜかキッチンへと向かった。なぜこんな所と思っていると、レニは壁際に設置されていた食器棚の下段扉を開けたのだ。ますます意味が分からない。
しかし、開いた扉の中を覗いて、すぐに理解した。
扉の向こうにあったのは、食器でもグラスでもなければ棚でもない。
薄暗い中にあったのは、地下へとのびる階段だった。いわゆる隠し通路。
先に身体を潜らせたレニだが、腕は依然として掴まれたままだ。
「待って、グレイ様が!!」
「諦めろ。あんな身体で火の海を渡ってこれるものか。表扉にたどり着く頃には丸焼けだ」
「そんな――っ痛い! 離して!! やめて!」
隙をついて抵抗を試みたが徒労に終わり、しかも今度は腕でなく髪の毛を鷲づかみにされてしまう。
そのまま引っ張り込まれるように食器棚の中に入り、階段を下りる。下りきった先は、ゴツゴツとした岩壁にかこまれた通路となっていた。一定間隔でポツポツと松明に火が灯っていた。「使ったようだな」とぼそりとレニが言っていたから、先に通ったものがいるのだろう。
薄暗く冷たい通路を足早に進んでいくレニに髪を引っ張られ、スフィアは足を怪我していることもあり、半ば引きずられるようにして歩く。
すると、背後――隠し通路の入り口の方で、地響きのような重低音が聞こえた。二人して足を止め、天井を仰ぐ。
「思いのほか火の回りが早いようだ――――ぐっ!?」
レニは、気を抜いていたところへ横っ腹に衝撃を受けた。
何事だと天井から視線を戻せば、スフィアが身体に取り付いていた。そしてレニがそれが、腰に挿した短剣を奪い取るためだったと気付く前に、スフィアは奪い取ったそれを頭上で薙ぎ払った。
「な――っ!?」
赤い髪がひらひらと舞い散る。
引っ張っていたものが突然消え、体勢を崩したレニは二、三歩よろけてスフィアとの距離が開く。
レニは己の手に絡みつくそれを見て驚愕の表情を浮かべる。手には、長い赤髪がだらりとまとわりついていた。それは先ほどまで、スフィアの頭を彩っていた赤。
「嘘……だろ……切ったのか……」
「赤髪赤髪とうるさかったので。そんなにほしいのなら、差し上げようと思いまして」
「お前……」
スフィアの髪は、肩口につかないほどに短くなっていた。
リシュリーのように髪の短い女性もいるが、やはりここまで短いとなると、しかも剣で切るなどと、驚くべきことなのだろう。全てはレニの表情が物語っている。
「ご心配なく。私の価値は髪の長さごときでは決まりませんから」
レニは唖然として、手の中の髪とスフィアとを交互に眺めていた。
せっかく髪まで犠牲にしたのだ。ここで再び捕まっては意味がない。
スフィアは奪った短剣をレニに向ける。
「私、ちょっとお屋敷に忘れ物をしたようです。あなたはここで見逃して差し上げますから、さっさと私の視界から消え失せてくださいませ」
「まさか……上に戻るって言うんじゃないだろうな。あの男のために」
「まさか、自分のためですよ。ただでさえしつこいのに、幽霊になられた日には、一生つきまといそうじゃないですか」
「上は火の海だぞ」
「だから? そんなに命が惜しいのでしたらあなたはお先にどうぞ? 今回は見逃してあげるっていってるんですよ」
「ハッ、つくづく上からの女だな。まあ、王子様の焼死体を見て、悲しんでいるお前を慰める役に今回は回るとするか。せいぜい、その綺麗な顔に傷をつくってくれるなよ?」
短剣で牽制しながら、スフィアはじりじりと後退し、距離を広げていく。そして、彼の一息の範囲から出たところで、素早く踵を返し、スフィアは来た道を戻った。
食器棚の扉の隙間からは、灰色の煙が入り始めていた。
スフィアは腕で口元を覆って扉を開ける。と、すぐ先に脇腹を押さえたグレイが壁を支えにしながら、こちらへとやって来るではないか。
「グレイ様!」
「その声……スフィアか……っ!」
パッと上げられたグレイの顔色は良くない。
「早くこちらへ」
スフィアは食器棚の扉を限界まで開け、グレイを通路へと招き入れた。
煙がこれ以上入ってこないように扉をきっちりと閉め、階段を下りる。
「グレイ様、どうしてあんな場所に!?」
本当に運が良い。
普通であれば、屋敷から出ようとして入り口に向かうはずなのに。
グレイは階段の麓で疲れたように座りこむと、新鮮な空気を吸うように深呼吸を幾度か繰り返していた。
「何かあればここへ来るようにと教えられていた」
「どなたにです? それにしても無事で何よりです」
「君たちの学友だったカドーレだ。良かった。キッチンへの道は燃えるものが少なくて、火の回りが遅かったんだ。良い場所に隠し通路を作ったものだ。さすがはと言うか、用意周到と言うか」
「本当に良かったです。しかし、ここも安全とは言えませんから、さっさと行きましょう。レニもここを通ったので、外の安全な場所へ繋がっているはずです」
グレイは片腕を石壁で支え、もう片方はスフィアに支えられて進む。
どうしてもグレイの歩速に合わせることになり、なかなか先が見えてこない。
すると、グレイがずるりと床に崩れ落ちた。
「グレイ様!?」
「大丈夫……だ」
ずっと腹部を押さえている彼の手を外せば、その下のシャツはどす黒くなっていた。
スフィアは躊躇わずにドレス破き、グレイの腹にそれを巻き付けた。
「っ何が大丈夫なんですか! どうしてそこまで我慢されるんですか!」
グレイは浅い息を吐き続ける。
「ス、フィア……ははっ、やっぱり君は優しい……な」
グレイの指が、スフィアの短くなった髪にのび、首筋をかすめる。
「長いのも、美しかったが……短くても、君の美しさは、何もかわらない……な」
「黙ってください! もうそれ以上喋らなくて結構ですから!!」
「困ったな。君を、見てると……いろんな感情が、口からあふれて、しまう……」
「黙って! 後でたくさん聞いてあげますから!? お願いっ!!」
「好き、だよ……スフィア」
「知ってますから……っ」
「全てが……君の敵にまわろうとも、俺は、君の味方だよ」
「――っお願い……黙って……っ」
「きっと……アルティナも、分かってる……ほんと、きみは……不器用……」
グレイの瞼が次第におりはじめる。
「いやっ!? 嘘でしょ、グレイ様! お願い、嫌っ!!」
「愛して、る……ス、フィ……」
「――っいやああああああああああああ!!!」




