42 赤ずきんと狼と猟師と
テーブルに押さえつけられるようにして唇を塞がれる。
「――んっ! あ……っんぅ……、……このっ!」
口内を浸食してくるゾワリとした感触に一瞬脳を揺さぶられるが、スフィアが抵抗を強めようとしたところで、レニはスッと離れていった。
はぁ、とレニは満足げに熱い吐息を吐きながら、自分が組み敷いた女を見下ろしていた。ちろりと己の唇についた口紅を舌先で舐める姿は恍惚としていて、獲物を前に舌なめずりする蛇のようだ。
「良い格好だな、赤髪……さて、いつまでその気丈さがもつかな」
楽しみだ、と言ってレニは再び噛みつくような口づけを落とした。
今度は、先ほどとは比べものにならないほどの長い口づけ。
執拗に何度も角度を変え、それこそ本当に食べようとしているかのような荒々しさで、レニはスフィアの唇も舌も口内も侵し続けた。
「ん、や……ぁ、ふ……っ……」
次第に脳から酸素が奪われ、与えられた熱で思考がぼうっとしてくる。
「目を、開けろ……赤髪……っ」
至近距離でレニの顔など見たくはない。スフィアは閉じていた瞼をさらにギュッと強く閉ざした。
舌打ちが聞こえた。
「開けろ。そのエメラルドの瞳に私を映せ」
唇を触れさせたままレニが喋るものだから、そのたびにくすぐったく、疼くような感覚に襲われる。
それでも今できる唯一の抵抗として、スフィアは頑なに目を開かなかった。
しかし――。
「――っん!!?」
突然、太股に生暖かさを感じた。それは膝から太股までを撫でるように、何度もゆっくりと往復して這い回る。
「開かなければそれでもいいさ。ただ、お前が言うことを聞かないのなら、私の手も好き勝手させてもらうがね」
次第にレニの手は太股の付け根まで這い上がり、内側へと滑りこむ。爪で引っ掛けるようにして這う生き物のようなそれの感触に、とうとうスフィアはまつげを震わせながら瞼を開いた。
至近距離で覗き込まれる暗い瞳。その奥に緑色が輝いているのが見える。
「そうだ……この輝かんばかりのエメラルド。そしてこの燃えるような赤髪。これだ……。これだ、私がほしかったのは!」
上体を起こし、上から眺めるように見下ろすレニが、うっとりとした卑しい笑みを浮かべた。手はテーブルに散ったスフィアの赤髪をすくいとり、食むような口づけを落とす。
「…………っ」
そんな光景を見ていたくなくて、スフィアは顔を背けたが、それもすぐに頬を掴まれ正面へと戻される。
「逸らすな。私を見ろ。私だけを、その瞳に映せ」
再び、レニの身体がスフィに覆い被さった。
「閉じるなよ?」
「んぅ……っ!」
そう言うと、またレニはスフィアの唇を弄びはじめる。噛みつくように、いたわるように、何度も唇を食んでは、その奥へと舌先を進める。浅いところをなめ上げ、遊ぶように味わうように、口内を蹂躙される。
閉じることも逸らすことも許されない瞳は、満足そうにレニの目が細まる姿を映し続けるという、苦行を強いられていた。
そうして、レニがより深い口づけを落とした時。
「――っ痛……ッ!!」
レニは、跳ぶようにして素早くスフィアから距離を取った。
彼の唇からは血が滴っている。
「食いちぎって差し上げようと思いましたのに……」
ゆっくりと身体を起こしたスフィアは、レニに不敵な笑みを向けると、口に残る錆び臭い唾を床に吐き捨てた。
「案外ちぎれないものなのですね、唇って」
唇を乱暴に袖で拭う姿に、レニは血が滴る口を歪めた。
「ハッ、とんだじゃじゃ馬だ」
レニも唇を乱暴に手の甲で拭っていたが、それでも血は滲み続けている。しかし、それすらもレニはどこか愉しそうに見えた。
「じゃじゃ馬だと思うのなら、しっかりと手綱を握っていてもらわなくては困りますわあ。まあ、握れたらの話ですけど?」
レニは舌先で血を舐めとりながら、スフィアを好戦的な目で見つめている。
――さて、離れることには成功したけど、どうやってこの状況から逃げようかしら。
テーブルに腰掛けたままのスフィアと、その向かいに立つレニ。離れたとはいっても、二人の距離は三歩程度しか離れていない。
チラ、とスフィアは扉を見遣った。
――せめて、足をくじいていなかったら……!
エノリアを蹴った時に捻ってしまった怪我だ。最後まであの男は本当、とことん人を不愉快にさせてくれる。
「ではご希望通り、じゃじゃ馬を乗りこなしてみようか?」
焦燥が顔に出てしまっていたのだろう、レニの声には余裕が含まれていた。
追い詰めた獲物をいたぶるような顔で、レニがスフィアに向かって一歩、足を踏み出した。と、同時に、扉がドンという音と共に揺れた。
二人の視線が一斉に扉へと向けられる。
「スフィア! いるんだろ!!」
扉を叩いている相手が誰だか、姿を見ずとも分かった。
「グレイ様!?」
「スフィアか! やっぱりここか。くそっ鍵が……スフィア、扉の近くにいたら離れてろよ!」
言い終わらぬうちに、扉の隙間からは鈍色の剣先がとびだす。そして、外側から蹴っているのか、ドン、ドンという音の後、何かがバキッと折れる音がした。
留め具を失った扉はひとりでに開き、グレイの侵入を迎え入れているかのようだ。
「スフィア!」
スフィアを捉えたグレイは、二人の間に割って入るように、スフィアを背にしてレニと対峙する。
「無事か、スフィア! 何もされて……ないわけじゃなさそうだな……」
肩越しに窺ったスフィアの口端には、掠れた血の跡が残っており、正面へと目を向ければ、レニの口には血が滲んでいた。
グレイの目の下が痙攣する。
「これはこれは、殿下。男女の蜜月を邪魔するなんて、無粋ではありませんか?」
「蜜月? そんな甘さどこにもないように見えるがな。痛そうだな、それ」
グレイが己の口を指で叩いてみせる。
「ああ、これですか。いえいえ、私の姫は少々照れ屋でしてね。なに、挨拶みたいなものですよ。どうやら私の血の味が好きらしい」
「吸血鬼は類い稀なる美貌をもつと言う。なるほど、彼女がそれなら俺も納得だ。ならばきっと彼女も、悪に染まった不味い血より、俺のような優しくて頼りがいのある男の血を好いてくれるだろう」
勝手に人を吸血鬼にして話を進めないでほしい。
「というわけで、彼女は俺の姫だからもらっていくぞ」
テーブルから下ろすように、グレイに腰を引き寄せられたスフィア。
腰に回された手は、いつもなら秒で払い落とすのだが、この場では彼の強引さに安堵を覚えている自分がいた。それは、グレイの胸元を握るスフィアの手にも現れていた。
スフィアの手は、縋るようにグレイの上着を強く握り込んでいた。
「スフィア」
「はい、グレイさ――っ」
名前を呼ばれ顔を上げたスフィアは、そのまま唇を塞がれてしまう。
ただ、その口づけは、先ほどまでのレニの欲望をぶつけたようなものとは違い、癒やすような触れるだけの優しいもの。
驚きの展開に、スフィアは目を見開いたまま、離れていくグレイの顔を見続けた。
「もう大丈夫だから、スフィア。離れていて」
ふっ、と微笑まれ腰の手が外される。
スフィアが壁際まで離れるのを見届け、グレイはレニへと向き直る。その表情からは既に優しい雰囲気は消え去っていた。
「レニ=ライノフ。以前ライノフはパンサスで犯した罪で領地替えをさせられたというのに、まだ懲りていなかったようだな」
レニは肩をすくめ、仕方ないだろとでも言うように片眉を上げる。
「別に悪に手を染めるのは、今に始まったことでもありませんしね。元々ライノフ一族とはそういうものですから。お咎めが怖くて悪なんか気取れませんよ」
「気持ちいいほどの開き直りだな、実に見下げ果てた根性だ。お前達は捕まえて法の裁きにかける……が、それは王子としての役目だ。個人的に、俺は今とても……そうだな、言葉にするのなら……俺はとても切れている」
言葉通り、グレイの額には青筋が立っていた。これほどに彼が怒りを露わにした姿を初めて見る。
「だから、お前はこの場で叩きのめす! 安心しろ、半殺しで留めといてやるよ!」
「こちらこそ、王子様を合法的にいたぶれて光栄ですよ!」
グレイは剣先をレニに向け、レニは懐から取り出した銃口をグレイへと向けた。




