37 逃亡:到着
「ひっ! ったあああああああい!?」
ふがっ、と豚のような声を上げて、リシュリーはスフィアの足元で尻餅をつき、顔を押さえて痛みにのたうち回っていた。
スフィアは素早く椅子から立ち上がると、椅子の後ろへと回り込む。
重厚な作りの椅子はなかなかに重く、手が使えない状態で転がすのは大変だったが、渾身の力を足の裏に込めて、床に転がるリシュリーの上に蹴倒した。
「あがァッ!!!」
むっくりとした椅子がリシュリーを床に押しつけていた。
これで簡単には起き上がれないだろう。
「悪いですけれど、誰かに幸せにしてもらうなんてまっぴらなんで! 幸せは私自身が決めますから、ご心配なさらず、そこでゆっくりしててくださいね!」
後ろ手に結ばれたまま、スフィアは部屋を突っ切る。
扉近くに立つカドーレに止められるかもと思ったが、カドーレは目を伏せたまま、こちらを頑なに見ようともしなかった。
口を引き結んで、リシュリーを助けようともスフィアを止めようともしない彼は、ただの置物のようだ。邪魔もしなければ、助けもしないといった感じか。
何か事情がありそうな気はしたが、今彼を気にしている暇はない。
手が使えず、内開きの扉を開けるのに苦戦していたら、間延びした声がすぐ外からかかった。
「リシュリー、そっちはどーお? お姫様は目覚めたのー?」
忘れもしない、あの時の怖気が走る声。
「ねえ、リシュリーってば、あ――!?」
扉が開き、正面にエノリアが現れた。
それはエノリアも同じこと。
扉を開けたら正面に足を上げたスフィアが現れ、彼が驚愕に目を見開いた次の瞬間。
「『次はない』って言いましたよね?」
「な! ――っあ゛!!?」
スフィアは、驚きに動きを止めたエノリアの腹に、正面から渾身の蹴りを入れた。もちろん足の甲などではなく、令嬢の矜持であるピンヒール部分をその腹部に目一杯めり込ませる。
エノリアは悶絶してその場に崩れ落ちた。
「ドアを開けてくださって助かりましたわ! ごきげんよう!」
スフィアは、風のように部屋を飛び出していった。
◆
――それは、デビュタントよりも前。グレイがアルティナを訪ねた後。
「グリーズ兄上! すぐにエノリア子爵を調べてください!」
アルティナの屋敷から帰ってくるなり、グレイはグリーズの執務室へと飛びこみ、声を上げた。グリーズは『何故』という部分を聞かずに、即座に情報省へ指示を飛ばした。
そうして上がってきた調査報告書を前に、国王のヘイレンをはじめグレイとグリーズが顔をつきあわせていた。
「なるほど……。さすがに目立たないどこぞの子爵など、誰も気に掛けない。ましてや、その家の息子など一層だ」
回ってきた報告書を読み終えたヘイレンが、やれやれと書類を投げるようにして卓へと戻す。
報告書には『テオ=エノリア伯爵』と、その息子の『ドロワ=エノリア』の名前が並んでいた。しかし、ドロワの方は一年前に籍が抜かれていた。亡くなったわけでもなく、跡取りが他にいるわけではない。ただ、籍が抜かれていたのだ。
貴族は跡取りがいなければ廃位されてしまうし、財産は親族の手、もしくは国に接収されてしまう。通常であれば跡取りが他にいない状況で、子の籍を抜くようなことはしない。
「当たり前が通じない相手だな、ライノフ一族というものは」
「それにしてもよく気付いたね、グレイ」
「アルティナ嬢の屋敷で、使用人の妙な行動を見ましてね。名前は元々知っていましたけど、さすがにエノリア子爵と結びつけては考えませんでした。どこかで聞いたことがあるな、程度で。しかし子爵の名前を思い出した時、それがセヴィオの一件で、そこにはスフィア嬢が絡んでいたことに気付きまして」
「偶然にしてはできすぎているな」
「ええ。エノリアは自分は平民だと言っていましたけど、大公家の使用人になったのはブリュンヒルト侯爵の紹介だという話。どうやったら、いち平民が騎士団統括相などと知り合うというのでしょうか。知り合い、大公家の使用人になり、かつエノリア子爵と同じ名前……これら全てが揃う確率はいかばかりかと……それに、ブリュンヒルト家の別荘があるアルザスの名前を出した時、あえて知らないふりをしているようでしたしね」
「そしてブリュンヒルト家がライノフ一族となれば、もうこれはほぼほぼ黒だね」
お見事、とグリーズがグレイに拍手を送る。
「にしても、ドロワはなんのために大公家の使用人になんか……」
「大方、アルティナ嬢とスフィア嬢の仲を引き裂くためでは? 現に今、彼女達は仲違いをしていて、それが社交界にも影響してレイランド家が孤立しかかっていますし。今の状況なら、スフィア嬢を奪っても社交界では気付かれにくいでしょうし。というか、父上良いんですか? レイランド家を助けなくて」
グレイが眉を寄せて心配そうに言えば、ヘイレンはグリーズと顔を見合わせ大笑した。
「ははっ! 無用な心配だ! ローレイは私からレミシーを奪った男だぞ。王太子から女性を奪っても社交界に立っていられる男が、娘が大公家に睨まれた程度で背を丸めるものか!」
「そうそう。なんだかんだ、あの穏やかな気性で北方をまとめ上げている方だよ。相当の切れ者さ。あとは、まあジークがいるからね」
「後半の説得力が半端じゃないですね」
ジークハルトなら、今頃スフィアの悪口を言った貴族達の弱みを、片っ端から握っていそうだ。
「それに、私たち王家は特定の貴族家に肩入れはできない。仲の善し悪しは別としてね」
それもそうだ。
「で、今日はレイランド家のお二方がいないようですが。この件については?」
「二人とも、ちょっと今は家を……というか、スフィア嬢の傍を離れたくないみたいでね。調査報告については手紙を逐一出してるから大丈夫だよ。もちろん、エノリアのことについても伝えてある。それどころか、ジークは一族と繋がりの深い情報提供者を味方につけたみたいでね……」
「何者なんですか、ジークハルト卿は……」
「はは……それは私も常に思っている」
さて、とヘイレンがコツンと卓を拳で叩く。
「情報省の総ざらい調査も終わった。ライノフ一族は、ライノフ伯爵、ブリュンヒルト侯爵、エノリア子爵のこの三家で間違いはなさそうだ」
「エノリア子爵の居所がまだ掴めていないようですが、ブリュンヒルト侯爵はいかがしましょう? このまま騎士団統括相として、王宮内に関わらせるのもいい気はしませんね」
ブリュンヒルト侯爵が一族というのは、外部からの情報提供によって早い段階で分かっていた。それでも動かなかった、いや、動けなかったのは、拘束するだけの理由が何もないからだ。
おそらく、血の秘密を知っていたごろつきを牢塔内で殺したのは、ブリュンヒルト侯爵だろう。騎士団に関わる彼ならば、牢塔に入っても何も不思議ではない。
しかし、彼を犯人とする証拠はない。
全ては、外枠から埋めていった状況証拠のみの結論でしかないのだし。
「奴らが動くまでこちらも動けない。どうしても後手に回らざるを得ない」
悔しそうにヘイレンが口角を下げた。
「後手に回ったとしても、その先で叩ければ良いんですよ。私はスフィア嬢を渡すつもりはありませんから、誰にも」
グレイのはっきりとした言い様に、ヘイレンは嬉しそうに「ほぅ」と口を丸くし、グリーズは「頑張ってね」と笑っていた。
ヘイレンが席を立てば、二人も腰を上げる。
「常にいつでも動ける準備はしておくんだ。事情が事情だ。公にして動くことは難しい。各家各人についての監視もおこたるな。私達が後手に回るのは一度きりだ」
国王の言葉に、臣下として「はっ」と声を揃えて二人は返答した。
◆
「――その味方にした情報提供者ってのが、ナイスバディなレディだったんですね」
「僕が味方にしたわけじゃないけどな。元はスフィア繋がりだ」
「あ、もしかしてそのレディって、スフィアが姐さんって呼ぶ……」
「察しが良いな、公爵小僧」
「こ、小僧……」
初めて言われた呼び名にガルツがショックを受けていると、隣に来たグレイが「慣れるさ」と笑顔で声を掛けていた。気休めにもならない。
「さあ、馬鹿王子と公爵小僧。そろそろだぞ」
ジークハルトの声で二人の顔が前を向く。
さすがは騎士団の馬ということだけあり、三頭の馬は時折歩速を緩めながら進み、別の馬に交替することなく目的地まで目と鼻の先というところまで来ていた。
ずっと西にとり続けていた進路はいつからか南へと変わり、いくつもの領地を抜け、悪路を走り、疲労と夜道のせいで周囲を把握もできず、ひたすらジークハルトの後ろについて駆け続けてようやく見えてきた、片田舎の小高い丘の上に立つ古城。
東の空が白くなりはじめ、暗闇に包まれていた古城の輪郭を浮かび上がらせる。
「え、まさかここって!?」
ガルツが見覚えのあるそれに声を上げた。
「僕たち三人には懐かしいだろう?」
「アルザスか……」
そこは、かつて旧友と友好を深めたブリュンヒルト家の別荘だった。




