36 囚われの姫
――頭がクラクラするわ……ここは……っていうか、どうしたんだっけ?
寝起きだからだろうか、上手く頭が働かない。もやが掛かったように、直前の記憶が思い出せないのだ。
「とりあえず、ここがどこだか調べないと……」
豪華なベルベット張りのアームチェアに座っていたようで、スフィアは立ち上がろうとして違和感に気付いた。
「って、何よこれ!? 誰よ、こんなことしたの!?」
自分の手が後ろで縛られていたのだ。しかも思いのほかしっかりと結ばれており、手首を動かしても揺すっても、縛っている紐が緩む気配はない。
間違いなく、危ないにおいしかしない。
「なんで……誰が……」
とりあえず手以外は自由にできるため、首を巡らせ部屋の様子を窺う。人けはない。
部屋のしつらえは、一般的な貴族屋敷の一室だ。少し寒く感じるのは、この屋敷が石造りだからだろう。床は絨毯が一面に敷かれ分からないが、壁は規則正しく石が積まれている。
「待って、思い出すのよスフィア。確か、私はお姉様を幸せにしたのを確認してホールを出て、それで声を掛けられて……」
誰に?
「……リシュリー……?」
◆
スフィアが目覚めた部屋とは別の部屋で、三人の男女が顔をつきあわせている。
「はぁ、疲れたー! 久しぶりに馬なんて乗ったわよ。やっぱり馬車よ馬車。馬なんて野蛮人の乗るものだわ」
リシュリーは疲れたとばかりに肩を揉みながら、どっかと椅子に腰を下ろした。
「お前より、お前の犬のほうが疲れただろうよ。眠った女抱えて手綱さばいてたんだから」
「いや、まあ、アレは仕方なかったのよ。まさか遠回りしたあんたに追いつかれるとは思わなかったし。やっぱり馬車って遅いのねえ」
集合場所に向かう途中でエノリアに追いつかれたことで、リシュリーとカドーレは馬車を捨てた。
王都から集合場所まで、馬車旅であれば途中の休憩なども入れて二日だが、馬だと、途中で何回か馬を替える必要があるが、一夜駆け続けば着く。
心配はないとは思ったが、もしスフィアがいなくなったことに彼女の家族が気付けば、すぐに捜査網が敷かれる。そうなれば、馬車は全て検問で止められ中をあらためられる。それよりも早く、集合場所に滑り込む必要があった。
「念には念を入れろ。悪いことをする時は、些細なことにも気を抜くな」
「えっへへー? それって主の教訓? スフィアちゃんにやられてからの」
主と呼ばれた男――レニは、エノリアに目だけを向けた。エノリアは怒られるかもと、首をすくめたが、レニは予想に反して口元に深い笑みを描いたのみ。
「主ったら、本当スフィアちゃん大好きじゃん。オレ妬けちゃうな~。ねえ、主。スフィアちゃんが消えたら、オレが代わりになれる?」
「は? スフィアと対極にいるあんたが、代わりになんかなれるわけないでしょ、燃えないゴミが。もしやったら、あたしがあんたをすり潰すわよ」
「はあ? 対極ってんなら、じゃあスフィアちゃんは燃えるゴミなんだ?」
「あんたと一緒の世界線で考えるんじゃないわよ。彼女は萌える神よ」
いったい目の前の奴等は何を話しているのか、とレニはいつものように溜息と共に額を押さえた。
「紙が燃えるも燃えないもどうでもいい。とにかく、国を出る準備をしておけよ。明日には発つからな」
「あーあ。あたし、この国が好きだったんだけどなあ」
「スフィアさえ手に入れば、国を手に入れたも同然だ。こんな偽物の国、いつでも奪ってやれれる」
「それもそうね。スフィアと一緒に観光旅行って思えば、どこでも楽しいし」
リシュリーが上機嫌に鼻歌を歌う中、レニが懐から出した時計を確認する。
朝日が姿を見せた頃だ。
「そろそろスフィアも目を覚ましたんじゃないか?」
「スフィアちゃん逃げてたりしてー」
「大丈夫よ。部屋の前にカドーレを立たせてあるから。でもそうね、一度様子でも見に行ってくるわ」
よいしょとリシュリーが椅子から腰を上げたとき、レニが「待て」と手で動きを制した。
「……外が騒がしい」
「え、嘘!? エノリア、あんたまさかつけられたんじゃないでしょうね!」
「そんなヘマやるかよ。むしろ時間稼ぎしてやったんだから、まず感謝の三回まわって『エノリア様下僕にしてください』だろうが」
「そのきったない口むしり取るわよ」
「うるさいっ! まったくお前らは……」
レニの一喝で、リシュリーとエノリアは渋々とだが口をつぐむ。
「誰か……家族以外に気付いた者がいたんだろうさ。予想外に早かったな」
たちまち、口をつぐんだ二人は先ほどのふざけたものから、鋭利な刃のような空気を纏わせる。その二人の表情を見て、レニの片口がつり上がった。
「まあ、この早さ……どうせ来たと言っても少数だろう。騎士団が動くには早すぎる。ちょうどいい。中に踏み入ってきたら、エノリア、お前が相手しろ」
「へいへーい、りょうかーい」
「じゃあ、あたしはさっさとスフィアの所へ行こうかしらね」
そうして、レニを残し二人は部屋を出て行った。
◆
スフィアが記憶を呼び起こし、最後に出会ったのがリシュリーだと気付いた時、ちょうど部屋の両開きの扉が開いた。
「あら! やっぱり目を覚ましてたのね、スフィアったら。もう朝よ、おはよう」
彼女は、スフィアが曖昧ながら記憶していたレモンイエローのドレス姿だった。
自分をこんな状況に追いやったのは、彼女で間違いないと確信する。
「リシュリー、これはどういうことか説明してください!」
「あぁん! こんな状況、普通の令嬢なら鼻水垂らして汚く命乞いする場面なのに、スフィアはどこまで行っても気高いままなのね、素敵ぃ! 最高よ!」
はぁはぁと息を荒くし、頬を包み全身をくねらせるリシュリー。いつもと変わらない反応だが、いつものように適当にいなせる状況ではない。
「リシュリー、今ならまだ冗談で済ませられます。あなたの気持ちが本気なのは分かりましたが、私はその気持ちには応えられません。私があなたに渡せるのは友情のみです」
「ああ、スフィア……こんな時でもあたしに友情をくれるっていうの? それはちょっと優しすぎるわよ……もっと惚れちゃいそう」
スフィアの怒気にも拒絶にもリシュリーは怯まず、コツリ、コツリ、と嫌になるくらい優雅な裾捌きで近づき、スフィアの前に立った。
膝と膝を付き合わされ、スフィアは立つことを封じられてしまう。
艶然とした笑みで見下ろすリシュリーが、チロッと赤い舌先で唇を舐めた。その薄い目も相まって、まるで獲物を前にした蛇のようだ。
「でも、あたし達がほしいのは友情じゃないの」
「あたし……達?」
妙な言い方に引っかかりを覚えれば、リシュリーはニンマリと笑みを濃くして、スフィアの頬を両手で包んだ。
「ああ、あたしの可愛い可愛いスフィア! ようやくあたし達のものになるのね! 本当はあたしだけで独り占めしたいんだけど、主が欲しがってるからそれはできないの、ごめんなさいね」
「お気になさらず。元より誰のものにもなりませんし……それより、この状況の説明を――」
「あぁっ! きっと、この状況でもそう言えちゃうあなたの強さに主は惚れたのね。高貴で崇高で華麗で妖美で聡明で清雅で明敏篤実! やっぱりあなたは、あたし達一族のお姫様に相応しいのよ!」
「リシュリー、スフィアが困惑してますよ。せめて説明を」
声がしたと思ったら、次に部屋に入ってきて者の顔を見て、スフィアが目を大きく見開いて叫んだ。
「カドーレ!? どうしてあなたまでここに!」
ますますどういうことか分からない。
「うるさいわね。ちょっと眠り姫のお目覚めに興奮しちゃっただけじゃない。今から説明しようと思ってたの」
カドーレが入らなければ、延々と礼賛されていた気がするが。
「スフィアはこれからあたし達と一緒に暮らすの。こんな腐った貴族達が巣くう国なんて、捨てちゃいましょうよ。あなたさえいれば、そこが国になるの。あなたはあたし達のお姫様で王妃様なのよ!」
リシュリーでは話が通じない。
スフィアは一縷の望みをかけてカドーレに視線を送る。
「カドーレ、どういうことですか!? 今なら何もなかったことにできますから!」
「無駄よ、スフィア。カドーレはね、最初からこっち側だもの」
「最……初……?」
リシュリーのすらりと長い華奢な指がスフィアの頬をなで上げる。
「ねえ、スフィア。おかしいと思わなかった? 色んな男があなたのことを好きになるの……。しつこいと思わなかった? 突然、振っても振ってもボウフラのように、彼女持ちの男達が次々と迫ってくるの。全部、カドーレがやってくれたの」
彼女は何一つ答えは言っていない。
ただ、このような聞き方をされれば、もうそれは確信的だろう。
「……私が邪魔だったんですか」
「逆よ。あなたの回りが邪魔だったのよ」
スフィアの顔がカクンと、糸が切れた人形のように俯いた。瞳孔は開き、口はわなないている。
動きを止めたスフィアの脳裏には、今までの記憶が走馬灯のように流れていく。リシュリーの言いようだと彼女と別れて告白してきた男達は皆、カドーレに何かを吹き込まれた結果の行動だったのだろう。
ではそれだけか?
貴幼院の頃から二人は一緒で、その二人と自分も一緒だった。
猜疑が止まらない。
「ね、寂しい? 悲しい? ああ可哀想なスフィア! でも、もう大丈夫。他人にちらっと吹き込まれただけで、言動を変える男なんてスフィアには相応しくないし、そんな奴等より、あなたを本当に愛してる人と一緒にいたほうが幸せよ。あたし達はずっとスフィアを大切にするし、ずっと愛してるわ! 純粋な愛に包まれて、あなたは幸せになるの!」
「純粋な……愛?」
違う。これは純粋な狂気だ。
他者を一切かえりみない、彼女が愛しているという相手すらも、自分の信じて止まない狂気に取り巻こうとしているこれが、愛であるはずがない。
しかし、単なる狂気でここまで実行できるものなのか。
それに先ほどから繰り返し『主』という言葉が出て来る。
「リシュリー……あなたは……あなた達はいったい何者なんですか……」
「それを教えるのはあたしじゃなくて、将来の夫の役目よ。楽しみにしてて」
首を傾げて微笑む彼女の姿は、学院で「おはよう」と交わした時となんら変わらない。
変わらないからこそ、肌を焼くようなヒリヒリとした危機感が、スフィアを焦らせているのだ。
「――グッ!」
突如、スフィアが身体をくの字に折り、呻きを上げた。
「きゃあ、スフィア! どうしたの!? どこか具合悪いの!?」
心配にリシュリーがスフィアに駆け寄ったその時。
「ねえ、スフィア! 大丈――っが!!」
スフィアの頭が勢いよく上げられ、スフィアの後頭部が、様子を窺っていたリシュリーの顔面を強打した。




