33 さあ、断罪を始めましょう
ずっと、彼女に笑ってほしかった。
ずっと、彼女に幸せになってほしかった。
それが、涼花からの願い。
それが、スフィアの目的。
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先ほどまで賑やかだったホールが、一瞬で時が止まったかのような、不気味な静寂に包まれた。
コツン、コツン、とスフィアのヒールの音だけが響き渡る。
スフィアが進めば、自然と彼女の周りに空隙ができていく。まるでモーセの海割りだ。
――この世界では、スフィアの人海割りとでも伝わるのかしら。
目を眇めてスフィアを睨む者もいれば、聞きかじった噂に、興味でスフィアを覗こうとする者、揶揄いの目を向ける者、茶話会のネタを仕入れたとばかりにヒソヒソと喜ぶ者、反応は様々だった。
ただ、皆一貫していたのは、スフィアの進路を塞がないということ。
スフィアが歩を進めれば、自然と、アルティナまで一本の道が開いた。
両側には人垣。ウェスターリ大公すらも、今は人垣にまぎれて娘を貶めた令嬢に厳しい視線を向けている。
そして開いた道の正面には、ブロンドの髪をフルアップにして、純白のドレスを纏ったアルティナが佇んでいた。
彼女の装いは、まるでウェディングドレスのようで、二人を繋ぐ道はバージンロードのようだ。
今ここで、彼女の胸に走って飛び込んでいけたらどんなに幸せだろうか。
だが――。
スフィアは、アルティナまであと十歩というところで足を止めた。
「――っあいつ、なんでこんな所に!?」
二階のバルコニーから成り行きを息を詰めて見ていたガルツが、『止めに行く』とばかりに階下へと向かおうとした。
「静かに見守ってやれ、ガルツ卿」
しかし、それは思いのほか近くで聞こえた男の声に止められる。
声の主を確認すれば、ブリックの奥に彼がいた。
「グレイ……殿下」
「これが彼女の意思だ」
「……っはい」
奥歯を噛んで小さく返事したガルツは、重い足取りでブリックの隣へと戻った。
視線を向けたホールでは、美しい令嬢二人が向かい合っている。
彼女はいったい何をするつもりなのだろうか。
互いの瞳の移ろいまで見えるのに、手を伸ばしても到底届かず、遠いと思える距離。
それが二人の、今の距離。
「スフィア……」
久しぶりに聞いた彼女の声は相変わらず麗しくて、しかし、自分の名前を呼ぶ声は初めて聞く躊躇いがちなもの。
「お姉様、社交界デビューおめでとうございます」
青いドレスの裾を広げ、優雅にカーテシーをするスフィア。
「その結い上げの御髪に純白のドレス。とても似合っており素敵ですね」
「……っそう」
アルティナは身を守るように右手で左腕を抱きしめ、ふいっとスフィアから顔を背けた。
対して、スフィアはにこやかな顔でアルティナだけを見つめ続ける。
「何しに来たんだ、レイランドの!」
そこへ、幾人もの男女が出てきて、アルティナを守るように彼女を取り囲んだ。
「まさか、まだアルティナ嬢を苦しめ足りないって言うの!? いい加減にしなさいよ!」
「どうせここでも、男あさりするつもりでしょう? 今日は私達の最良の日なの。はしたない者は出て行きなさい」
――ああ、この目には見覚えがあるわ。嫌というほど。
口々に浴びせられる嘲罵に蔑視の数々。
どうやら、自分は前世も今世もこの視線からは逃れられないらしい。笑える運命だ。
しかし、スフィアの笑みは一変も揺るがない。
――それよりも、よかった……。
ゲームでは、この場面、アルティナはひとりぼっちだった。彼女が滂沱の涙を流そうとも、悲痛な声で叫ぼうとも、誰も彼女を守ろうとしなかった。
かつて彼女を取り巻いていた友人と言われる者達でさえだ。
しかし、間違いなく今この場において、ヒロインは悪役令嬢だった。
「……スフィア……どうしてここに……」
本当は……出来ることなら同じ場所にいたかった。
こんな、手も届かない対岸ではなく、あなたの隣にいたかった。
でもそれは許されない。
「あら? だって以前お姉様が仰ったことじゃないですか」
だって、どこまでいっても私達に与えられた役目はヒロインと悪役令嬢だから。
「え、何を……」
「『お祝いに来てくれたら嬉しい』って。だから来たんじゃないですか」
しかし、最良ではなくとも最善を迎えることはできる。
スフィアはクスクスと、珊瑚色の唇をいやらしく歪めた。
「――そ、その時はだって……っ」
まだ信じていた時の約束だから、とでも言いたそうに、でも最後まで言えず顔を伏せる彼女は、ああ、なんと優しいのだろう。
彼女さえ笑っていてくれればそれで充分だ。
「お姉様……今、幸せですか?」
二度と彼女の笑みが自分に向けられなくとも。
「…………っ」
アルティナが唇を噛むのが見えた。
こちらのことなど気にせず、幸せって言えばいいのに。
「ちょっと、何よそれ! 嫌みを言いに来たわけ!?」
「好きな男がなびかなかったからって、デビュタントを邪魔しに来るなんて!」
過敏に反応する周囲の令嬢達の声など、今のスフィアの耳には届かない。
スフィアが見つめるのは、ただひとりなのだから。
周囲からの批難の眼差しも、ヒソヒソとした草のざわめき程度の悪意も、彼女の膝を折る要因になり得ない。
しかし、見ている方はそうも言っていられなかった。
「――っ!」
一度は留まったガルツだったが、これはあまりにもだと、再び飛び出していきそうになる。しかし、彼の肩をグレイが掴んで引き留めていた。
「殿下! 何故です!?」
振り払おうと大きく手を薙いだガルツだったが、グレイの腕に重い音を立てて当たっただけで外れることはない。
そんなに王子の体面が大切か、と思い睨み付けたが、ガルツは自分の考えが誤りだと気付いた。
「殿……下……」
肩を掴んでいない方のグレイの手は、拳を握り、指の隙間からは血が滲み出ていた。
「これは、スフィアが望んだことだ。男なら……彼女を愛しているのなら、彼女の意思を見届けてやれ」
流れる血を前に、ガルツは募る悔しさを、バルコニーの手すりに爪を立ててぶつけることしか出来なかった。
「お姉様、黙ったままでは分かりませんわ?」
ああ、これがお姉様が受けるはずだった視線、嘲弄、孤独。
でも、それらは今、全て私に向けられているわ。
お姉様を誰も蔑まない。誰も、彼女に悪意を向けていない。
良かった。私は世界に勝った。
「ねえ、お姉様。その美しいお声を聞かせてくださいな」
「……スフィア、今は……帰りなさい」
だから……やるのよ、スフィア。
今の私ならできるでしょう?
お姉様は涼花で、私は詩織なんだから。
始まりは、ゲームの中と外だった。
同じような苦しみを味わう彼女に自分を重ね、何度、ゲーム画面に向かって負けないでと嘆いたことか。
『悲しまないで、アルティナ様』
『笑って、アルティナ様』
『負けないで、アルティナ様』
『お願い……』
『幸せになってよ……アルティナ様……っ』
さあ今こそ、アルティナ様を救う時よ、スフィア。
史上最高の悪女を演じなさい!
男達だけでなく、この世界全てを狂わせてみせなさい!
「――っあっはははははは! お姉様ったら、こんな時まで私の心配ですかぁ? 優しさ通り越してお人好し過ぎますって。そんなだから想い人を全て奪われるんですよ、わ・た・し・に」
アルティナの顔が跳ね上がった。
「スフィ……ア……?」
「人のものを奪うのって楽しいですよねえ。皆様もそうは思いません? あの子が持ってるネックレスよりももっと煌びやかなものを。あの人の指輪の宝石よりももっと大きなものを。あの子が付き合ってる彼氏よりもっと家格がいい令息を、もっと美しい令嬢を、もっと金持ちを……! ね、皆様もそうでしょう?」
周囲を見回せば、心当たりでもあるのか、顔を逸らす者や伏せる者のなんと多いこと。
「お姉様ったら本当、心根が素直で大変助かりましたわ。本当……気が強いふりして、誰よりも優しくて、面倒見がよくて……素直で分かりやすくて……人を全然疑わないほど義理堅くて…………」
「や、やめて……スフィア……」
まだだ。
「――っ本当、お姉様の好きな人はいつも分かりやすくて助かりましたわ!」
まだ、俯くな。
「スフィア! もうやめなさい……っ!」
泣くな、最後まで演じきれ。
「それにしても、さすがはと言うべきでしょうか、お姉様。これだけ大勢の者達に囲まれ、守られるだなんて頭が下がりますねえ」
今、私はどんな顔をしているのだろうか。
前を向けているか。
胸を張れているか。
しっかり立てているか。
最悪の悪役令嬢として、皆の目に映っているだろうか。
「そうやって、ずっとずーっと守られていると良いですよ」
大丈夫。きっと大丈夫、上手くいっている。
だから……ねえ、お姉様……そんな困ったような顔をしないで。
私は過去の私を救いに来たんだから……。
彼女の結末に自分を重ねて、幸せになってほしいと願った涼花。スフィアとして生まれてもずっと涼花の思いが抜けなかった。
それはきっと、全てこの日のため。
あなたを幸せにするこの瞬間のため。
だからどうか――。
「お姉様……幸せですか……?」
「……っええ、幸せよ」
笑っていてください。
「そう……ですか」
ああ……良かった。
涼花、あなたのやったことは間違ってなかったのよ。あなたがなりたいと願っていた気高き彼女は、皆に囲まれて幸せになったわ。
大丈夫、彼女に破滅は訪れない。
スフィアはふー、と細く長い息を吐きながら、天を仰いだ。
――ならば、次は『スフィア』の番だ。
前世の涼花の思いはこれで救われた。
今度は、今世の私が幸せになる番だ。
スフィアとアルティナの会話が途切れたことで、今まで息を呑んで傍観していた大人達が、スフィアを捕まえるために動きはじめる気配があった。
悪役令嬢の結末は、お決まりの国外追放。
そんなことさせてたまるか。
追放されるくらいなら、自分の足で出て行ってやる。
「あららぁ、せっかくお祝いに来ましたのに、そんな目で見られては居心地が悪いですわぁ」
自分の人生は自分で決めてやる。世界のシナリオなんかにゆだねて堪るか。
スフィアはくるりとドレスを翻し踵を返すと、史上最高の笑みを聴衆へと向け、声高らかに叫んだ。
「それでは、ごめんあそばせ、皆様方!」
ホールにいる全ての者達を、その笑顔で釘付けにして、スフィアはホールから走り去った。
◆
背後で大ホールの扉が重い音を立てて閉まった。
ヒールが地を蹴る音だけが、宵の世界に響く。
「さあ、どこへ行こうかしら! まずはドレスを売って平民のワンピースでも買って、余ったお金で船にでも乗ろうかしら」
家には戻らない。元よりそのつもりだったのだから。
このまま姿を消せば、娘が勝手しただけと、きっとレイランド家への風当たりも弱まるはずだ。
「南のフラウ王国もいいし、それよりもっと南へ行ってもいいわね!」
夜風が頬を撫でていく。雫が這う頬だけが異様に冷たかった。
「スフィア」
突然の馴染みのある久しぶりな声に、スフィアは足を止めて振り返った。
「リ、リシュリー!」
そこにはレモンイエローのドレスを着たリシュリーの姿があった。
「今来たんですか? リシュリーもパーティに参加されるんです?」
「ええ、すっごく楽しみにしてたから」
近付いてきたリシュリーの指が、スフィアの目元を拭った。
「……泣いていたの?」
彼女の言葉に、スフィアはハッとして目元を拭う。
「いえ、ちょっと夜風が染みただけです。それより、ホールに入るのならもう少しして入った方が良いですよ。きっと今はまだ混乱――」
「あたしが楽しみにしてたパーティーは、その部屋ではあってないの」
「え? 他にもパーティーが――――ッんぐ!?」
突然、リシュリーに抱きしめられたと思ったら唇を重ねられる。驚きでうっすら開いていた口からリシュリーの舌が侵入してきて、そのまま何かを飲まされた。
反射的にゴクリと飲み込んでしまえば、ゆっくりとリシュリーが離れていく。
「あたしはパーティーに参加しに来たんじゃなくて、参加させにきたのよ」
離れなければと思いつつも、段々と意識が朦朧としはじめる。背の高いリシュリーに腕も肩も抱きしめられ、身動きがとれない。
「リ…………」
朦朧とする意識の中で、『……ああ、お決まりの……日常茶飯事に殺人が起きる街のアニメだな』と思った。
名探偵はきっとこないから、このまま死ぬのだろう。
そこで、スフィアの意識は途切れた。
腕の中でぐったりとするスフィアを、リシュリーは慈愛に満ちた目で見つめた。
「とってもとっても楽しいパーティーだから、きっとスフィアも気に入るわ」
薄暗い世界の中、煌びやかな灯りに包まれている大ホールの建物を、リシュリーは一瞥した。
「こんな苦しい世界……スフィアには相応しくないわ。あなたはあたし達のお姫様なんですもの」
チッと舌打ちをすると、リシュリーは辺りを見回し彼を探す。
「あ、いたいた。もう、カドーレったら、早くこっち来て運ぶのを手伝ってよ。さすがにあたしでも、気を失った女の人を運ぶのは骨が折れるわよ」
薄暗がりの中から無言で近付いてきたカドーレは、リシュリーの手からスフィアを受け取ると横抱きにして持ち上げた。
「そういうところはちゃんと男なのね」
クスッと揶揄いを言うリシュリーに、しかし、カドーレは無反応だった。
「……まあいいわ。さあ、手はず通りにいきましょ」
カドーレの反応を面白くなさそうに一蹴し、リシュリーは先を行き始める。
カドーレはスフィアの耳元に口を寄せ、リシュリーに聞こえないよう「ごめん」とだけ呟いたのだった。




