31 スフィアVS世界(後)
「っお願いだ、スフィア……スフィア、泣かないでくれ」
グレイの腕の力がさらに強くなる。
耳元では彼の絞るような懇願の声が聞こえる。
「スフィア、頼む。泣き止んでくれ……っ。君に泣かれると俺は堪らなくなるんだ」
「泣、いて……っません……」
「嘘にしては少々可愛すぎるぞ」
ゆっくりと抱擁を解いたグレイは、スフィアの目元を優しく拭った。
まつげについた透明な雫がグレイの指を濡らしていく。
「俺の妻になるか?」
唐突な言葉に、思わずスフィアの涙も引っ込む。
「大切にする」
いつもは自信満々でうるさいくらいに結婚しろ結婚しろと言うくせに。
本当、こんな時に限ってどうして、そう不安な顔して尋ねてくるのか。
「それは、グレイ様が風よけになってくださるということですか? 同情ですか」
「うっ……いや、妻にしたいのは本当なんだが……」
王子妃になれば、噂話などすぐになくなるだろう。王族と貴族の間には超えられない一線があり、だからこそ、王族が貴族の上に立つことを許されているのだから。
「どうして……こんなことになってしまったんでしょうか」
自分はどこでそんな大きなヘマをしたのか。
そんなに世界は、自分とアルティナを相反させたいのか。
そこまでして役目を全うさせたいのか。
しかしこれでは、まるで自分のほうが悪役令嬢みたいではないか。
「………………え」
唐突に何かが腑に落ちた。
この状況、自分は悪役令嬢みたいではなく、はっきりと『悪役令嬢』ではないか。
そして、味方を得て周囲から応援されているアルティナこそ、まさしく『ヒロイン』と言えよう。
世界があまりに言うことを聞かない自分に痺れをきらして、アルティナをヒロインに、スフィアを悪役令嬢に交代させたのか。
――そんなことがあり得るの?
答えは、恐らくあり得る。
前例がある。かつてスフィアは、世界から一度反撃を受けているのだから。攻略キャラと出会う時期がメチャクチャになるという、本来のストーリーから逸脱した仕返しを。
「ははっ……なんだ……そんなことだったのね……ははは」
「ど、どうしたんだ、スフィア」
突然笑いだしたスフィアをグレイが困惑顔で見つめていた。
スフィアは、笑いを飲み込むと、いつもの楚々とした令嬢の笑みに切り替える。
「グレイ様は、私の風よけになるために自己犠牲を申し出られたようですが……」
「だから、俺は元から君を妻に迎えたいと……」
「あいにく、風よけが必要なほどか弱い令嬢ではありませんから。よくご存知でしょう?」
赤くなった目で綺麗に微笑む。ね、と頭を傾げるとサラリと赤い髪が肩を滑り落ちていく。先ほどまでの、手を離せば壊れてしまいそうな姿はどこにもない。
思わず、グレイもクッと苦笑に頬を緩めてしまった。
「はは、確かに」
グレイの脳裏に、スフィアとの出会いから今までの記憶が走馬灯のように駆け巡る。
「……ひとつも甘い記憶がなかった。スフィアが強すぎる」
「それは大変よろしゅうございました」
「じゃあ、とりあえず君は今、大丈夫なんだな?」
意味深に目を細めたスフィアを見て、グレイは、はぁ、と息を吐いてソファを立った。
「分かった。今は涙を見せてくれるようになったことを素直に喜ぶとするよ。俺の胸にスフィア自ら飛び込んでくるのを気長に待つかな」
「あら、王子様が生涯未婚だなんて世間の目は厳しいですよ」
こんな時でも放たれる遠回しな拒否に、思わずグレイの顔も引きつる。
今日はレイランド家に来てから顔が引きつりっぱなしだ。明日は顔面筋肉痛に違いない。
「それに、グレイ様は約束を違えられるんですか?」
「約束?」
「私が社交界デビューするまでに、私の心を捕まえると仰ったアレは。その程度の覚悟だったんですね。へぇー」
「待て! まさか、あの時の誓いをまだ覚えているのか!?」
「そりゃあ、忘れたくとも間を置かずにアプローチされ続ければ忘れられませんよ」
チラッと横目でグレイを捉えたスフィアは、勝ち気を口元に描く。
「私は自分の望みのためなら、どんなことでも出来ますよ。そんな私とグレイ様では釣り合いませんね?」
彼女が幸せになるのならば、なんにでもなってやろう。
悪魔でも、悪役令嬢にでもだ。
スフィアの表情に、唖然としていたグレイの顔に精気が満ち始める。
「失礼した、スフィア嬢。どうやら俺も焼きが回ったようだ。先ほどの言葉は忘れてくれ」
グレイはソファに座るスフィアの足元で跪くと、騎士のように胸に手を添え、スフィアを見つめた。
「スフィア嬢、覚悟していてください。あなたが飛び込んでくるのを待ったりはしない。俺が腕の中に閉じ込めに行きますから」
「できるのでしたらご自由に」
いつも通りのやり取りに、ふっと二人が頬を緩めると、部屋に満ちていた重苦しい空気までもが緩んだようだった。
◆
グレイが帰った後の部屋で、スフィアは今までの重苦しかった気持ちが嘘のように晴れていた。
「アルティナお姉様がヒロインってことは、ヒロインとして幸せになる未来が彼女には待っているってことじゃないの……!」
自分が悪役令嬢として断罪されるのを引き換えとして。
世界は、シナリオを破壊し続けた自分へ罰を与え、退場させたいのだろう。
「なるほど……だからこの時期だったのね。確かにアルティナお姉様をヒロインにして、あるべき世界に戻すなら一番良いタイミングだわ」
ゲームシナリオは、ヒロインのデビュタント後からスタートしていた。
そして、奇しくもアルティナのデビュタントももうすぐだ。
アルティナをヒロインに据え、どこかから適当な悪役令嬢をもってきてやり直しさせるつもりだろう。微妙に配役が異なってくるが、自分にこのまま壊されるくらいならマシというところか。
「随分と世界も姑息なことするじゃない」
だが、世界は勘違いしている。
「あははははは! 私にとって断罪は罰になんかならないのよ! むしろお姉様をヒロインにしてくれて感謝しかないわ!」
これは予定調和の力に――世界に勝ったと言っていいのではないだろうか。
スフィアは天を仰いで息切れするほどに笑った。
笑いすぎて、ぜぇぜぇとベッドの柱に手をついて、ずるずるとしゃがみ込むほどに。
「………………っ良かったあ」
呟いた声は震えていた。
「ふふ、上等じゃない。悪役令嬢」
この先、自分には断罪される未来が待ち受けている。
だけど、世界の望み通りになんか動いてやらない。
自分は自分の意思で悪役令嬢を選ぶのだから。




