30 スフィアVS世界(前)
ジークハルトは自分宛の手紙を読み終えると、溜息を吐いた。
「ことごとく面倒くさい」
しかも可愛い妹は、先日馬車で帰ってきてからまた元気がなくなっていた。
まさか王都に行ったのかと御者に確認すれば、領内での買い物とウェスターリ大公の屋敷への用事だけだとか。
「王都でなくて良かったと思うべきか……」
王都に行けば、間違いなくスフィアは注目の的となっていただろう。悪い意味で。
今や、王都の貴族達の間ではアルティナをスフィアが貶め、レイランド家ごと怒りを買ってしまったという噂ばかりなのだから。
皆、いつ北方守護家の座が空くか、今から野次馬的に目を輝かせている。実に下世話なことだ。
唯一の救いは、彼女が学院を自ら休んでいてくれることだ。
屋敷にいる間は、余計な噂話から遠ざけることができる。
「だが……根本的解決にはならないだろうからな……」
スフィアの身に何があったのかは、大方把握している。ただ、スフィアとアルティナの間が、本当はどのようになっているのかまでは分からない。自分ではアルティナとは遠すぎる。
もう一度、ジークハルトは溜息を吐いた。今度は長嘆と呼べるほどの長さで。
「仕方ない。今回だけは許してやるか」
そうしてジークハルトは一通の手紙をしたためた。
◆
グレイは目の前に立つ男の相変わらずな態度に、目の下を痙攣させた。
「……レイランド家は、手紙を送る上で二文字しか書けない呪いでも受けているのでしょうか」
もらった手紙には堂々たる文字で『来い』とのみ書かれていた。
いつぞやの彼の妹からの『不可』のみの手紙が思い出される。
「今回だけだ。今回だけは目をつぶっていてやる」
「呼び出した側の態度ではないんですがね」
ジークハルトのどこまでもへりくだらない言い方には、怒りや呆れを通り越して清々しさすら感じる。
まあ、彼からの手紙というのもかなり珍しいものだし、来いの二文字だけだとしても、兄ではなく自分に送ってくるとは余程の理由なのだろう。
「それで、私を呼び出した理由ですが……スフィア嬢ですか」
なんでもそつなくこなしてしまう彼の『余程』は限られている。その中で、自分を呼ぶほどのことなど想像に易い。
「……僕には無理だった。彼女は優しいが故に、僕たち家族に心配をかけまいと絶対に泣かない……いや、泣けないんだ。普段であれば泣かないのは泣く必要がないからだと気にもしなかったが、今回はわけが違う」
悔しそうにジークハルトの目が眇められた。
「昔から彼女は全て自分でやってしまおうとする。それも仕方ない。彼女はなんでも出来てしまうからな。だが、彼女は経験豊富な老兵でもなければ、悟りを得た求道者でもない。まだまだ小さくてか弱い十五歳の少女なんだ。ただひたすらに守られるべき存在なんだ」
「……彼女の中にはそんな意識なさそうですけどね」
「ああ。なんなら彼女は、生まれたときから庇護される側という自覚がない。どうしてそんな意識が染みついているのか分からないが、そろそろただの子供に戻してやりたい」
「だから、私を頼られて――」
「同じガキのお前にはうってつけの役目だと思ってな。常時格好悪いお前の前なら、スフィアも格好付けずにすむ」
「ジークハルト卿……」
ひくっと、目の下だけでなく口端まで引きつらせるグレイ。
「だから……頼んだぞ、グレイ」
向けられた目はかつてないほどに真剣なものだった。
「言われずとも」
グレイは、スフィアの部屋へと向かった。
◆
ドアがノックされ、マミアリアかジークハルトだろうと許可を出せば、現れたのは予想外すぎる人物だった。
「よく……兄様が許しましたね」
グレイはフッと淡く微笑むと、スフィアの隣に腰を下ろす。体重差か、ソファの座面がグレイの方へと傾く。
「いったいどのようなご用件でしょ――」
「もう少し周りを頼ったらどうだ」
言いかけた言葉を遮られて唐突に掛けられた言葉に、スフィアの目がみるみる丸くなっていく。
彼の来訪理由が分かった。
彼も当然だが、全て知っているのだろう。学院で流れていた噂も。彼の従姉妹を悲しませてしまったことも。
さすがの彼も幻滅しているかもしれない。
気まずくて顔を逸らしてしまう。
「アルティナだって本心じゃない」
「そんなこと……どうだっていいんです。お姉様を悲しませてしまった……っそれが……問題なんです。できれば、彼女が知らないうちに全てを終わらせたかった……彼女には何も悲しい思いなどさせず、ただ幸せに笑っていてほしかったんです。だからこれは私の落ち度であり……責め苦も甘んじて受け入れるつもりです」
言いながら、最後に見た彼女の苦しそうな顔が思い出され、スフィアは膝においた手をドレスごとギュッと握りこむ。
「待て待て、スフィア。話が読めない。終わらせたかったって何をだ、いったいなんの話をしている」
到底言えるはずもない。
ここがスフィアが前世でプレイしていた乙女ゲームの世界で、自分がヒロイン転生者で、アルティナが悪役令嬢なのだとは。
「……グレイ様、お姉様の様子をご存知でしょうか」
やや間があってグレイは「ああ」と頷いた。
表情から察するに、良いとは言いがたいのだろう。
「……私がお会いすることは……」
グレイの顔が俯いた。
彼のことだ。とうにアルティナの元へは行ったのだろう。それなのに、言葉にしてくれないということは、それだけ彼女――アルティナの悲しみが大きいということではないのか。
「――ッグレイ様、お姉様は泣いておられませんか!?」
「ちょッ、スフィア!?」
スフィアは飛びかかるようにして、グレイのシャツを握りこんだ。
手紙の返事がないのも、会ってもらえないのも我慢できる。
だが、彼女が泣いていたらと思うと、どうしようもなくなるのだ。
「お姉様は……っ! お姉様は……幸せに……笑っておられますか……っ」
笑ってくれていればいい。
たとえ彼女と一生関わることが許されなくとも、彼女が幸せに笑ってくれていれば、それでいいのだ。
それだけでいいのだ。
「スフィア……ッ」
次の瞬間、グレイに抱きしめられていた。
彼の顔は見えないため、表情からアルティナの様子を探ることは無理だ。だが、時として言葉よりも表情よりも、選択のほうが雄弁なこともある。
グレイはまるで『見ないでくれ』とばかりに、スフィアの腰と後頭部を強く引き寄せ、きつく抱きしめていた。
「俺は……アルティナの泣いている姿は見ていない」
嘘をつけない者がつく下手な嘘のお手本のようだ。
どうしてここで抱きしめる必要があったのか。
どうしてそんな回りくどい言い方をするのか。
彼女は泣いていたのだ。
彼女を悲しませたのだ。
誰が?
「っあ……ぁあああぁあああ……! っねぇ、様……お姉さまっ! ごめんなさい、ごめ、っなさい、おね、さ…っ、お姉様ぁ……っ! ごめんなさい……ぃ」
溜めていたものが次々と溢れてきて止まらなかった。
何度も何度も宙空に向かって「ごめんなさい」と言い続けるスフィア。
誰でもない自分が彼女を悲しませたのだ。
彼女に涙を流させたのだ。
「っお願いだ、スフィア……スフィア、泣かないでくれ」
グレイの腕の力がさらに強くなる。
耳元では彼の絞るような懇願の声が聞こえる。




