28 二人の距離
やはり料理は冷めたものより温かいもののほうが美味しいのだな、とスフィアは口にしたスープをコクリと飲みながら思う。
どんなに生きる気力がわかなくとも、腹は減るもの。
一度受け入れた食事がさらに食欲を刺激し、スフィアの引きこもり生活は三日ともたずに終わった。自分の身体の正直さに少しげんなりしたが、予想以上にレイランド家の者達には心配を掛けていたようで、これで良かったのかもしれない。
「スフィア、他に食べたいものはあるかい? 料理長に言って用意させるよ」
「大丈夫ですわ、お父様。いつも美味しいものばかりで、むしろ食べたいものを探す方が大変ですもの」
ひきこもりが明けてからというもの、ただでさえ優しい家族が、まるで幼子を相手しているかのように異常に優しかった。
庭に出ようとしただけで、『スウィーティどこへ!? 僕も行こう!』と、まるで家出少女に過敏な家族の様相を呈している。
「そうだ、スフィア。明日は久しぶりに父様と領地を見回る予定なんだけど、スフィアも一緒にどうだい。籠もってばかりというのも身体には良くないからね」
スフィアはあの日から学院には行っていない。
両親に『春まで休ませてほしい』と伝えたら、二つ返事で了解をもらえた。
自分と彼女は、これ以上会わないほうが良い。
学院に行けば否が応でも会ってしまう。
ゲームストーリーでは、ヒロインと悪役令嬢は接触を重ねるごとに関係が悪化していく。であれば、そこをわざわざ踏襲してやる必要はない。
どうせあとひと月足らずで一年生は終わり、三年生は卒業する。その程度の期間なら、学院を休んだとて大した問題にもならない。
――でも……。
「どうですか、父様」
「そうだな。ジークハルトの言うとおり、屋敷にずっといてもつまらないだろう。良い気分転換にもなるかもな」
「気分転換に領地を……ですか?」
初めてそのような提案を受けた。
領地見回りなど侯爵としての仕事などには、まったく関わらせようとはしてこなかったというのに。
「あの、気分転換というのなら王都などでは……」
そう、普段であればスフィアを楽しませようとする場合、彼らが提案する選択肢は王都での買い物なのだ。
しかし、二人はお互いに顔を見合わせて「それは」と苦笑した。
「王都一辺倒では芸がないじゃないか」
「そうだよ、スフィア。それに今まで見せてこなかったし、一度くらいはと思ってね。なあ、レミシーもそう思うだろう」
にこにこと、パンをちぎりながら男性陣の会話を聞いていたレミシーも「ええ」と頷く。
「国境門に近付かないのであれば良いと思うわ。そういえばこの間、馬飼のマーシャが北のほうで雪うさぎを見たって言っていたの。せっかくだから獲ってきてちょうだい、二人とも」
レイドラグ王国の北端に位置するレイランド領は、他の地域よりも冬が深く、平野部にある屋敷と違って山岳部はよく雪が積もる。その白に紛れて、雪うさぎもよくいるのだとか。
スフィアとお揃いの首巻きにするの、とレミシーは事もなげに言っているが、さすがに男二人だけで、首巻き二つ分の兎を狩るのは難しいのではないかと思う。
狩れなかったら男の沽券に関わるだろうし、そんな簡単にお願いして大丈夫なもの――。
「分かりました、母様。十匹くらいでいいですか?」
あ、大丈夫だった。
シークハルトなら、いくらでも乱獲できるだろう。謎の確信がある。
「じゃあ、いつにしようか。新雪が積もっている時がいいし……二日、いや三日後とかはどうだい、スフィア」
「え、あ……三日後ですか」
ローレイが垂れた目尻に皺を作り、にこやかな表情で聞いてくるが、スフィアは困ったように表情を曇らせ逡巡を見せた。
「ちょっと三日後は……」
「何かする予定だったかい?」
「ええ、その……薔薇園の手入れがあと少しかかりそうで」
「ああ、あの薔薇園はスフィア自ら手入れしていたんだったか。昔から、スフィアは薔薇が好きだねえ」
「ええ……とっても好きなんです…………昔から」
深紅の薔薇が……何よりも。
「分かった。それじゃあ来週の頭にしよう。まだ寒さは続きそうだから大丈夫だろう」
スフィアは、楽しみですと言って少しぬるくなったスープをすすったのだった。
それから三日後。
スフィアは薔薇園の手入れに出たように装い、ひとりガタガタと馬車に揺られていた。御者には、庭の手入れで足りないものがあったからと、適当に言って出してもらった。
――本当なら、このまま会わない方が良いんだけど……。
窓の外に流れる風景を、スフィアはただただ瞳に映し続ける。
いつもなら、この道を通る時は早く着かないかなと、わくわくしていたというのに。今はまだ着かないでと祈るような気持ちでいっぱいだ。
だというのに、御者へ伝えた目的地は、しっかりと彼女の家あのだから、自分のちぐはぐな行動に苦笑も漏れる。
クシャ――と膝の上で紙がよれる音がした。
「あ、しまったわ」
手にしていた封筒に少し皺がついていた。
ウェスターリ大公領へと入ったあたりから、緊張で全身が強張っていた。どうやら手紙を持っていることも忘れて、手を握りしめようとしていたらしい。
「…………」
彼女から別れを告げられてから、幾度となく手紙を送ってきた。
返事は一度もなかった。
このまま諦めることを一度は考えた。
その方が良いとも思った。
しかし、彼女がデビュタントを迎えたら、もう本当に望まない限り会えなくなってしまう。
――お姉様に会いたい。
色々考えた末に残ったスフィアの心は、ただそれだけだった。
彼女を目の前にして、しっかりと喋れるか分からなかったから、言いたいことを全て文字にしたためてきた。
「ああ……いつ見ても美しいわね」
色を失う季節の中でも、彼女の家の青い屋根は、まるで彼女の瞳のように冴え冴えとしていて美しい。
玄関の前で馬車が止まった。
◆
グレイは、先ほどからずっと窓から離れず、遠ざかる馬車に視線を送るアルティナの背中を見つめていた。
屋敷の二階奥に位置するアルティナの私室。この部屋の窓からは、屋敷の入り口がよく見えるだろう。
客人の来訪だろうことは、馬車の音で分かっていた。しかし、誰だかまではグレイには分からなかった。そんな中、窓から玄関を確認したアルティナが、突然その場に縫い留められたかのように動かなくなってしまったのを見て、グレイは来訪者が誰だか察した。
「……どうして、そんなに頑なになる」
入り口横の壁に背を預け、グレイは対面にいるアルティナの背中にギリギリ届くくらいの音量で声を掛ける。
アルティナは窓に手を添え、馬車が屋敷を出て行ってからも見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
「そんなに会いたいのなら、行けばいいじゃないか」
まるで窓が邪魔をしている、とでも言いたげに窓に置かれた彼女の手は、最後はゆっくりと拳を握っていた。
「アルティナ、俺と君との仲だ。話してくれないか」
そこでようやく、アルティナの顔がじわりと振り向く。




