27 クソッタレが!!
「ガルツ! 大変だよ!!」
アントーニオ公爵家の扉を叩いた少年は、通されるや否や、応接室に現れた子息に向かって飛びついた。
「ぅおい! どうしたんだよ、ブリック!? 危ねえだろ!」
いきなり肩に掴みかかってきた来訪者――ブリックに体勢を崩されながらも、ガルツは倒れないようにと踏ん張る。
「ったく、なんだってんだよ。わざわざ俺の家まで来て」
予期せぬことに慌てふためくのはブリックの昔からの癖みたいなもので、学院かどこかでまた変な噂を仕入れてきたんだろうと、彼の『大変だよ』をそこまで重くは受け止めなかった。
しかし、肩を掴むブリックの手は痛いほどに力が入っており、見上げてくる顔色は焦り以上の、緊迫と言えるくらいの困惑が浮かんでいる。
「……何があった」
たちまちガルツの態度も変わった。表情からはおどけたものが抜け、声音は低く落ち着いたものになる。
「ひとまず落ち着け」
丁寧にブリックの手を肩からはずし、落ち着いて話そうとばかりにソファへと向かっていたガルツだったが、しかし、その背に向けて発せられたブリックの悲痛な叫びに、足を止めた。
「落ち着いてられないよ! だって、スフィアが!!」
「……スフィアが……?」
振り返ったガルツの金色の目は、これでもかというほどに大きく見開いていた。
『レイランド侯爵家令嬢は、その美貌をつかって他の令嬢達から彼氏を奪い取り、男遊びに興じている悪女である』
「――んだよ、その噂」
ブリックが今社交界の間で囁かれている噂の内容を教えれば、ガルツの整った眉宇が、これでもかと言うほどに歪んだ。
「なんで急にそんなことになってるんだよ。最近までそんな噂流れてなかっただろ」
「いや、噂はそうだけど……片鱗はあったよね」
あ、と思い当たる節を見つけたのか、ガルツは眉間の皺をさらに深める。
「新年会か……っ」
膝の上に置かれたガルツの手が拳を握った。
「階段での出来事は、理由は分からないにせよ、きっとスフィアへの嫉妬からだろうなって思うんだ」
「じゃあ、この噂ってあの時からあったってことか? スフィアがほかの令嬢達の彼氏を奪ってるって? まさか、ブリック……お前はそんなデマ信じちゃいねえよな」
「当たり前だよ!」
一段と低い声で、咎めるような目を向けられ、ブリックは思わず目の前のテーブルを叩く。
「どれだけ、スフィアと一緒に居たと思ってるの! スフィアがそんなことする子じゃないって、誰よりも知ってるよ。君だって同じだろ、ガルツ」
「そうだな、悪ぃ……冷静じゃなかった……」
お互い気まずそうにクシャリと前髪を握りしめる。
二人の視線はテーブルの上を彷徨い、沈黙の長さが、二人の戸惑いの大きさを表していた。
「でも、こういう恋愛のいざこざって普通女達の中だけで終わるだろ? 俺達男や、まして社交界だなんて、大人を巻き込んでまで発展するようなことじゃねえよ」
おかしい、とガルツの目がブリックを問いただしていた。
「他に何があった、ブリック。噂の広まり方が異常だ。それにお前は、ただの噂だったらここまで狼狽えねえ」
ブリックはしばらく言いにくそうに口をまごつかせた後、「実は……」とぎこちなく言葉を発する。
「アルティナ嬢の好きな人を、スフィアがとったって……。それでアルティナ嬢が、スフィアに絶縁宣言みたいなことを言ったとかで――」
「ありえねえだろ!」
言葉と一緒に落とされたガルツの拳は、テーブルを軋ませるほどの轟音を立てた。
部屋に反芻する余韻が、一時の静寂を運んでくる。
ガルツはぼそっと「悪ぃ」と呟くと、足の間に大きな溜息を落とした。
「それか。だから社交界まで巻き込んだ噂になってんのか」
アルティナ=ウェスターリ――言わずと知れた、大公家という王家に次ぐ特別的地位を持つ貴族家の令嬢であり、大公家の跡取りでもある。
貴族達のまとめ役であり王族との橋渡し役という、王家の親族だからこそできる唯一無二の存在は、周囲に王家に対するのと同等の仰望を抱かせている。
そこの令嬢を蔑ろにしたとあれば、確かにこの噂の広まりようには納得できた。
「だがよ、それこそありえねえだろ。あいつがどれだけアルティナ嬢を慕ってると思ってんだよ」
「昔からお姉様お姉様って、僕らもたくさん聞かされたよねえ。だけど、皆が皆スフィアが彼女を慕っていることを知っているわけじゃない。しかも、それまでにも令嬢達の間では色々あった様子だし……知ってるだろ、君なら。どれだけ貴族が権力に弱いかって」
令嬢達の間だけでよくある、色恋のいざこざで終わらなかったのは、大公家令嬢が絡んできたからだ。
もしかしたら、これを機に、侯爵家の中でも特別な北方守護家の凋落を狙おうという、大人の意図が絡んだのかもしれない。どちらにせよ、スフィア含めレイランド侯爵家は岐路に立たされていると言っていい。
「それでスフィアは……?」
「手紙を出したんだけど返事がなくて――って、ガルツどこ行くの!」
「決まってんだろ、あいつん家だよ!」
ソファから立ち上がるやいなや、ガルツは足早に応接室を出て行く。その後を、一歩遅れて立ち上がったブリックが、どこかホッとしたような表情で追った。
「良かった……君ならそう言ってくれると思ったんだ。ほら、僕ひとりじゃ、きっとスフィアも頼りなく思っただろうし……」
「そんなことねえだろ。ただまあ、二人のほうがあいつも安心するかもな」
そうして公爵邸を出て行こうとした時――。
「どこに行くつもりだ、ガルツ」
二人の行く手を阻むように、厳めしい男性が立ちはだかった。灰色が交じる硬そうな黒髪に、深い金色の瞳。
「……っ父様……」
ガルツをそのまま一回り逞しく、大きくしたような壮年の男性は、ガルツの父親であるアントーニオ公爵であった。
「すこし……友人の家に行って参ります」
一瞬、気後れしたようにたたらを踏んだガルツだったが、すぐに気を取り直し、公爵の横を通り過ぎる。
「レイランド侯爵家か?」
「――っ!?」
ガルツの足が止まる。
「どうしてそれを……」
振り向いた先で、公爵はゆるりと「愚かな」とでも言うように、首を横に振っていた。
「そこの……ラウロフ伯爵の子息が知っていることを、私が知らぬとでも? とうに私の耳には届いておる。血気だけしか取り柄がないレイザール行きを許したのが間違いだったかな? この程度の噂話を他人から教えられるなど恥と知れ、愚息よ」
「――っ申し訳ありませんね。しかし、噂をご存知ならば話が早い……そういうことなので、少々出掛けてき――」
「ならん!」
扉を開けて出て行こうとするガルツを、公爵の一声が遮る。
「行かせると思ったか! 今後レイランドの娘と……いや、レイランド侯爵家と関わることは許さん!」
「な……っ何故ですか!? 俺の交友関係にまで口を出すつもりですか!」
「何が交友だ。昔の女を手放せぬとは女々しい」
「昔とか関係……っありませんから」
「ったく、しっかりと弄ばれおって。噂が真実味を帯びるものだな」
「ですから彼女はそんなじゃ――っ!」
「残念ながら、大公家に嫌われてはこの世界ではやってはいけまい。そんな落ちぶれたものと、愚息とは言え、我が公爵家の跡取りに付き合いがあると思われては、家名に傷が付くというもの」
ドアに伸ばしかけていたガルツの手は、いつの間にか身体の横で拳を握っていた。俯き、何も言葉を紡げないでいるガルツを、公爵はふんと鼻から息を吐いて見遣る。
「ガルツ、見誤るな。お前が守るべき者は過去の女ではない。このアントーニオ家の者達だ」
公爵は、まるでガルツのこの後の行動が分かっているかのようにそう言い置くと、踵を返し屋敷の奥へと消えて行ってしまった。
唇を噛み俯いたまま動きを止めたガルツに、ブリックが心配そうに声を掛ける。
「ガルツ……」
「悪ぃ……ブリック……」
弱々しく呟かれたそれが、何を『悪い』と思って言ったのか、ブリックは瞬時に理解し、声を荒げた。
「待ってよ、君までスフィアから離れるつもりなの!? 確かに君のお父さんの言うことはもっともだけど、僕たちの関係ってそんなもんじゃなかったでしょ!?」
ガルツは、『行けない』と言っているのだ。
「三大公爵家の君が、スフィアについたら少しは噂も収まるかもしれないのに……っ、こんな時に肩書きを使わなくてどうするんだよ!」
「こんな時だからだろうがよッ!」
玄関ホールに反響する二人の激声が消え去れば、荒い息遣いのみが音として残る。
「俺だって……っ俺だって、スフィアを守るために使いてえよ……! だが、俺はどこまで行ってもアントーニオ公爵家の息子なんだよ……っ」
頭を抱えてその場に力なくしゃがみ込んだガルツを、ブリックは悔しそうに目を眇めて見つめる。初めて見る親友の弱々しい姿に、ブリックも言葉を返せないでいた。
「悔しいが、父親の言うとおりだよ……社交界でアントーニオ公爵家っていう信用を失えば、一気に落ちぶれる。そうなったら俺や家族だけじゃねえ……雇ってる何十っていう使用人達全員、路頭に迷わす可能性があるんだよ。それだけじゃねえ、使用人達の家族、公爵家を信用して取引してくれてた者達、それに連なる者達大勢を、俺の感情ひとつで、全部駄目にしちまうかもしれねえんだよ……っ!」
「……僕には……さ、君と違って使える肩書きなんてないから……君の肩に乗ってる責任の重さなんて分からない。むしろ羨ましいとすら思ったよ」
貧乏伯爵家の自分がスフィアについたところで、きっと噂は変わらずに流れ続ける。しかし、三大公爵家ならばどうだろうか。そんな思惑もあり、ブリックはガルツを訪ねたのだが、同時に彼を頼もしく思う反面、自分の無力さを不甲斐なく思う羽目にもなった。
彼に、自分より大きな責任があることは分かっていた。
でも、自分にはそれがどれほどのものかは理解出来ていなかった。
「だけど、そういうものでもないんだろうね。もう僕たちは僕たちだけで動けないほどに……本当に子供じゃなくなったんだね」
もう少し――デビュタントまでは猶予が与えられていると思っていたのに。
「……僕たち……こんなにも無力だったんだね……っ」
「ああ……どうしようもねえ……役立たずだな……っ」
お互いの声は震えていて。無意識か意図的なのか、互いの顔が見えないようにガルツは床を見つめ、ブリックは天井を仰いでいた。
「――ックソッタレ!!」
ガルツの心の底からの叫びが天井に吸い込まれていくのを、ブリックはただただ眺めていることしかできなかった。




