26 生きていたってしょうがないじゃない
いつもと違い、ノックをしても入室を許可する声は聞こえない。
「お嬢様、昼食をお持ちしました」
「ごめんなさい、マミアリアさん……今はいらないです」
内側から聞こえてくるのは、拒絶の言葉ばかり。
「しかしお嬢様、昨晩から何も口にされてないじゃないですか。少しでも何か食べませんと、このままでは倒れてしまいます……っ」
昨日、学院から帰ってきて「ひとりにしてください」と言って部屋に入ったまま、彼女は一度も姿を見せていない。
夜中に起きてくるかもと、セバストが寝ずにキッチンで待機していたのが、どうやらそれすらもなかったようだ。彼女用に作り置きされた夕食は、朝になっても手付かずで残っていた。当然、学院になど連れて行けない。
マミアリアが途方に暮れた声で、「お嬢様」と呟いたとき、「マミアリア」と呼ばれた。しかしそれは、彼女の主人の声ではなく、若い男の――主人の兄の声だった。
振り向いた先には、ジークハルトが険しい表情をして立っていた。
「スフィアは……」
マミアリアが首を横に振れば、ますますジークハルトの表情は曇る。
「スフィア、具合が悪いのかい。それとも、何か学院であったのかい」
「大丈夫です。ごめんなさい……少し、ひとりになりたいんです」
ドアを開けて今すぐにでも飛び込んで行きたいのを我慢するように、彼はドアノブをずっと眺めている。ノブが回るのを願っているのか、縋るような目で。
屋敷に来てから一年も経っていないが、それでも彼のここまで苦しそうな表情は初めて見た。唇を噛み、己の不甲斐なさを悔いるような感情はよく理解出来る。今まさに自分が同じ感情を抱いているのだから。
彼女の侍女なのに、主人が苦しんでいるときに寄り添えないことの歯がゆさは、自分ではどうにもできないからこそ、ただの痛みの苦しみよりも遙かに苦しい。
彼女に何があったのか。
彼女はどうしてしまったのか。
何をしていても心配でならない。
それはこの家に住まう者なら皆同じで、今朝からレイランド家はどこか落ち着かず空気が沈んでいた。
「……分かった。だけど少しは何か口に入れるんだ。ひとりになるにしても、食べなければ生きてはいけないのだから」
そうジークハルトが言ったのだが内側からの反応はなく。
「……ッスフィ――」
ア、とジークハルトが焦った声で名前を呼びかけた時、ドアが控えめな音を立てて開いた。
「スフィア!」
「お嬢様!」
やっと、と喜んだのも束の間、二人はスフィアの姿を見て、表には出しはしなかったが動揺を覚えた。
スフィアは制服姿だったが、それは登校するために着替えたというより、昨日からそのままという感じで、目は赤く腫れ、目の下にはうっすらと隈ができていた。
マミアリアが持つ食事の乗ったトレーを見た後、スフィアはジークハルトとマミアリアの顔を見てニコリと微笑んだ。
「……美味しそうですね、いただきます」
無理をしていると誰が見ても分かる、痛々しい笑みで。
「っああ……美味しいとも。だからしっかり食べて、ゆっくりお休み」
トレーを受け取った彼女は、小さく頷き、そしてまたドアの向こうへと消えてしまった。
パタン、と閉められたドアの音さえ、もの悲しさを訴えている。
「あっ……ジークハルト様!」
踵を返し立ち去るジークハルトの背中に、マミアリアが声を掛けるが、彼は少し顔を向けただけで表情は見えなかった。
「マミアリア、スフィアを頼んだよ」
悔しさが滲んだ声に、マミアリアも頷くほかなかった。
◆
生きている意味などあるのだろうか。
生きていく目標を失ったというのに。
「――ッ」
目を閉じて瞼の裏に浮かんでくるのは、彼女の苦しそうな表情ばかり。
「……ッたし、が……っ!」
彼女を幸せにすると、笑顔にしてみせると言っていた自分が、彼女にあんな顔をさせてしまった。
「お姉様……っ」
昨日は、あれからどうやって学院で過ごしたのか覚えていない。
気がついたら自分のベッドに倒れ込んでいた。そのまま何をする気力も起きず、この通り制服姿のままだ。学院も休んでしまったが、もうどうでもいい。
彼女を救えないどころか困らせてしまう自分になど、価値はないのだから。
蘇る周囲から向けられた目、目、目、目――。そのどれもがスフィアを批難していた。
あの目には覚えがある。
前世の涼花の時に向けられた目だ。
こうなってしまったのなら、もう彼女に近寄らないほうが良いのだろう。彼女も「近寄らないで」と言っていたし、このままヒロインは消えたほうがいいのかもしれない。
「……また私は……逃げるのね……」
自然と、自分に向けてクッと笑いが漏れた。
◆
「ガルツ! 大変だよ!!」
アントーニオ公爵家の扉を叩いた少年は、通されるや否や、応接室に現れた子息に向かって飛びついた。




