25 言えない……
「そ……っれは……」
「突然、シネル先生が私の講師を辞められたの。どうしてか理由を聞く暇もなく、彼はいきなりいなくなって……もしかして私が何かしてしまったかしらと色々気にしたわ。でもね、色んな人に彼の話を聞く中で、なぜかあなたの名前が出てきたのよ」
アルティナの目はずっとスフィアを真っ直ぐに捉えていた。いや、真っ直ぐと言うより、本当は背けたいのに、しかし背けてはならないと言い聞かせたように、不自然なくらいにスフィアから逸らされない。
反対に、スフィアのほうが彼女の視線に耐えられず、顔を僅かに横へと背けてしまった。
その反応が、アルティナに一つの確信を与えてしまったのだろう。
「やっぱり、シネル先生と会っていたっていうのは本当だったのね」
「――っ!」
アルティナの声が震えていた。
否定したいのに、シネルと会ったというのは間違いのない事実なのだから、スフィアにはどうすることもできない。
「シネル先生は、私の好きな人だと知っていたでしょう」
もちろんだ。彼女の好きな人に決して近付かないようにするために聞いたのだから、忘れるはずがない。
「ねえ、新年会で私の好きな人を聞いたじゃない。……あれって、こうして私から好きな人を奪うためだったの?」
「違いますっ! 奪うだなんて、そんなことは決していたしません!」
そんなこと考えたこともない。
しかし、声を張り上げ否定しようと、アルティナの表情は少しも明るくならない。それどころか、疑念が瞳に浮かんでいた。
――どうしたら……っ!
焦りがスフィアの額に滲み、こめかみをツーと流れていく。
「以前ね、フェイツ侯爵令息とスフィアが実は裏で交流がある、なんて噂を聞いたことがあったの」
「誰がそんなことを……」
初耳だし、まるで身に覚えのないことだ。
そういえば、以前彼女から突然『フェイツ侯爵令息を知っているか』と聞かれた事があった。もしかして、その噂を確認しようとしていたのか。
――だとすると、半年も前から私に関する不穏な噂が流れていたってことになるわ。
「その時、あなたは彼すら知らないし交流もないって言い切ったわ。もちろん私もあなたの言葉を信じたし、根も葉もない噂だって思っていたのよ」
アルティナは眉根を寄せ、曖昧に笑った顔で見つめてきた。
瞬間、これは駄目だ、とスフィアの本能が警告を発した。
「――っ信じてください、お姉様! まったくの嘘です! 私がお姉様の好きな人を奪うはずがありません!!」
彼女の表情には『諦め』が浮かんでいた。
それは、今まで築いてきた関係を手放すということ。
それがこの世界で意味するところは――『敵対』である。
「私のは奪わなくても、皆のは奪ったのでしょう?」
「それも違います! 私は自分から関与したことはありません!」
どんどんと流れがまずい方へと向かっていた。
「では、アルハバル先生と二人で王都を歩いていたというのは?」
「それは……っ」
まずい状況が一気にたたみかけてくる。いったいどうしたと言うのか。
先ほどからずっとスフィアは、肯定も否定もできないでいた。
アルティナの認識は全て間違っているが、状況だけで言えば全て真実なのだ。
肯定すればアルティナの認識すらも肯定するということになってしまう。猜疑がある状況では、たとえいくら否定しようと完全には受け入れられまい。
「ねえ、スフィア……さすがに三度は言い訳がきかないんじゃなくて?」
「違います! お願いですお姉様っ、私を信じてくださいっ!!」
「信じて……?」
クッ、とアルティナが唇を噛んだのが見えた。
――あ……。
「――っでは、なぜシネル先生と会っていたの!? わざわざ貴族が行かないような店で、二人で向かい合っていたって聞いたわ! そこであなたが先生に言い寄って、フラれた腹いせに水を引っ掛けたってことも! 嘘だと言うのなら否定してごらんなさいよ!?」
初めて見せるアルティナの激昂は、スフィアから思考を奪い、声すらも失わせた。
「ほら……っ、否定できないんでしょ?」
二人で会っていたのは事実だ。しかし、決してシネルに言い寄ってなどいない。
「顔を近づけて楽しそうに話していたらしいじゃない。……私の気持ちを知っていて、よくそのようなことが出来たわね」
「っち、がい……ます」
かろうじて締まる喉からその言葉だけを紡ぎ出す。
「何が違うっていうの? 違うって言うのなら、何を話していたのか言ってごらんなさいよ!」
「……っお姉様」
言えるはずがなかった。
彼女の好きな人が、彼女を上辺だけで知った被って悪し様に言っていた、などとは。彼女を悲しませるようなことを、スフィアが言えるはずがないのだ。
「私が好きなのはお姉様だけです……お姉様が嫌な思いをすることを、私ができるはずないじゃないですか……!」
「……あなたのその好きも……」
――……いや……っお願い……!
「私には、もうよく分からないのよ」
首を傾げた拍子に、彼女の美しいブロンドの髪が肩を流れ落ちた。キラキラと輝くそれはいつもと変わらず美しいのに……どうして……。
「あなたは信じろと言うけれど、どう信じれば良いのよ……だって、スフィアは何も教えてくれないじゃない……っ」
アルティナは泣きそうに目を眇め、苦しそうに顔を歪めて笑っていた。
膝が抜けそうだった。
歯が震えた。
痛いほどに心臓は脈打っているのに、どんどんと身体は芯から冷えていく。
「ぉ……ねぇ、さ……ま……っ」
無意識だったのだと思う。
軋む手を伸ばし、少しでも彼女との距離を埋めたかったのだと思う。
しかし、それは彼女の言葉で遮られてしまった。
「スフィア……もう、私には近寄らないでちょうだい」
「――――ッ!!」
大好きなブロンドを翻し、愛する人が去って行く。
伸ばした手はそれ以上は伸びない。力の入らない足は、地面に縫い付けられたようにその場から動かない。呼び止めるためには口を開かないといけないが、開けば先に嗚咽が漏れそうだった。
そして、とうとうスフィアの膝は力を失い、折れるようにしてその場にしゃがみ込んだ。
「やっぱり自分からアプローチしてたんだわ」
「何が自分は何もしてないよ、嘘ばっかり」
「あーあ、俺も一度は迫られてみたいねえ」
「ほら、レイランドって北方守護家だろ。やっぱりソッチの血の気も多いってことじゃねえの」
「やめなさいよ、ふふっ」
「さすがにアルティナ嬢を貶めたんだ。これで彼女も終わりだな」
「いや、彼女だけじゃないさ。レイランドも終わりだよ」
四方八方から聞こえるヒソヒソとした嘲笑侮蔑。
しかし、そんなものがスフィアの膝を折らせたのではない。
「……わ、たし…………お姉様に……あんな……っ」
すると、始業のチャイムが校内に鳴り響いた。周囲で様子を見守っていた者達は蜘蛛の子を散らすように、スフィアだけを残してあっという間にいなくなってしまった。
「スフィア、大丈夫よ」
いや、一人だけ。ずっとスフィアの隣にいたリシュリーだけは、スフィアと共にその場に残っていた。
「あたしが傍にいるから。あたしだけが……ずっとずっと傍にいてあげるからね」
「リ……シュリ……ィ」
リシュリーは、地面を見つめ呆然としているスフィアを優しく後ろから抱きしめた。
「大好きよ、スフィア」
背中に感じる温かな体温が、今はありがたかった。




