23 それ、前世ではブラックって言います
「なんと言いますか……社会人の恐ろしさを見事に体現されてますね、ロクシアン先輩」
「駄目だよ、姫。こんなのが社会人だなんて思ったら」
「ひょらよ~ほふはひょくべつってひうか、ひひょうってひうか~」
なんて?
げっそりと痩せた頬では力も入らないのが、口からは言葉よりも空気のほうがヒョロヒョロと出ている。おかげでなんと言っているのかさっぱりだ。
「ほら坊っ、しっかりおし! 女の前で格好付けるのが男ってもんだろう。可愛い後輩に情けない姿を見せないよ」
バシッ、とベレッタが気合いの一撃をロクシアンの背中で響かせれば、彼は「ひょい」と言って、幽霊のように丸まっていた背中を少しだけ伸ばした。
「せっかく会ったんだ。時間があるなら、家に来ないかい、姫?」
ベレッタの溌剌とした眩しい笑顔に、胸の内の悪心も浄化されていく。気付けばスフィアは「はい、喜んで!」と返事をしていた。
そうしてお邪魔したベレッタの家。
ここは以前、彼女と一緒に家捜しして決めた家だ。こぢんまりとした部屋にはベッドやテーブル、鏡台など、必要最低限のものだけが置いてあるのみ。あれから半年近く経っているが、部屋の中に彼女色はない。家というより宿の部屋のようだ。
そんなことを思い、部屋をキョロキョロと眺めつつ、ベレッタが淹れてくれた紅茶に口をつける。香りが良く、先ほどの店で出された紅茶より遙かに美味しい。
丸テーブルを囲んで隣に座るロクシアンは、帰り道で買ったパンと紅茶で気力を多少は取り戻したのか、心なしか出会ったときより肌つやが良くなっている。両手でカップを包み、一口飲んでは「生き返る」とぼそりと呟いているロクシアンは、いったいどんな生活を送っているのか。
「そんな死にそうになっても、別の場所で働こうとは思わないんですか?」
かつてプレイボーイだった面影は微塵もない。
「いやぁ、僕もこんなにもぐら生活になるとは思ってなかったけど……」
「けど?」
「激務にさえ目をつぶれば、結構やりがいもあって楽しい仕事なんだよね」
「つぶれるレベル超えてません?」
齢二十にして老衰死しかけているのに。しかし、楽しいと思えているのは良いことだろう。あとは寿命と楽しみ、どちらが長くもつかだ。健闘を祈る。
「それより、なんでスフィア姫はあんなところにいたのかな? しかもひとりで」
ロクシアンが不思議だとばかりに目を瞬かせれば、ベレッタも小さく頷く。
「ちょっと、その……最近ついてないことが多くて……気分転換に少し……」
「にしては、あまり気分が良さそうには見えなかったがねえ」
怒濤の嫌な記憶が蘇り、つい歯切れが悪くなってしまったのを、目ざといベレッタが気付いた。
「それはまあ……その……」
「あ、分かった! また色んな男に声掛けられたんだろう? 本当、昔から人目を惹くからねえ、スフィア姫は」
「ええ、そんなところです」
何と答えたものか悩んでいたところで、ロクシアンがちょうど良い感じに言葉をはさんでくれたので、ありがたく乗らせてもらう。
――まあ、嘘は言ってないしね。
実際、声を掛けられたのは本当なのだし。
掛けられたあとが、どちらとも問題だったわけだが、それについてはあまり言いたくない。
――話せば、今の私の立ち位置から話さないといけなくなるし。
昔から関係がある者達には、今の、よろしくない噂がまとわりついた状況は知られたくないものだ。
「ロクシアン先輩は、この間の新年会は出られましたか?」
もし、彼も出ていたら、あの騒ぎも見られていたことになる。ただ自分がドジを踏んで階段から落ちただけ――という体ではあるが、色々と鋭い彼のことだ。もしかすると、令嬢達との間で問題を抱えていることを、見透かされたかもしれない。
しかし、ロクシアンは「それが……」と、鬱々とした顔になった。
「例に漏れずに、あの日も仕事でね……新年会だよ? 年に一度の新年を祝うおめでたい日だよ? なのに僕たち情報省は、薄暗い部屋の中でカリカリカリカリカリカリカリカリ、ずっとお仕事をしてたんだよ。もう、いつ年が明けたのかも分からなかったね。だってずっと暗いんだもん。もぐらの方がまだ外出てるよ」
「そ、それは、お疲れ様です」
「急に夏から色々と忙しくなってね。やっと終わったって思ったら、あらぬ所からやばい案件が舞い込んでくるわ、一筋縄じゃいかないわ、色々制限されるわで、もう僕の家は情報省みたいな感じだよ。むしろ職場と家が同じだから通勤の手間が省けて助かるよね。ははっ……」
途端にロクシアンの笑いが下手になる。あんなに貴幼院の頃はキラキラしい笑みを湛えていたというのに。恐るべし情報省。
情報省の恐ろしさに顔を引きつらせていると、ふと頭に優しい温かさを感じた。
「姫、全部ひとりで抱え込まなくて良いんだよ」
ベレッタがスフィアの丸い頭を、ゆっくりと撫でていた。
「確かに、昔から姫は大人顔負けの賢さや行動力があって、なんでもひとりで出来てきただろうさ。だがね、姫はまだほんの十五歳の女の子なんだよ。姫の周りにはたくさん頼りになる大人がいるんだ。少しくらい頼っても罰は当たんないよ」
スフィアを見るベレッタの目は、ローレイやレミシー――親が子に向けるような慈愛に満ちていた。
頭を滑り落ちた彼女の手は、そのままスフィアの頬を撫でる。
「皆、姫のことが大好きだからさ。もちろん、あたしも坊もだよ」
ベレッタに目で頷かれる。ロクシアンの方を向けば、彼も口端をゆるく上げて小さく頷いており、二人の気持ちが面映ゆくて、スフィアはソワソワと膝の上でスカートを握りしめた。
「時には年相応に泣いてワガママ言って、お兄さんを困らせてやれば良い。いつも困らされてるんだろう? 愛情過多で」
ふっ、と思わず笑いが漏れてしまう。
「そして、また元気いっぱいな姫の笑顔を見せとくれ」
「ベレッタ姐さん……」
ぎゅうと抱きしめられれば、彼女の自分よりほんの少し高い人肌が心地よかった。温かさに包まれ、久しぶりに身体が緩まった心地だ。
なぜ急に彼女がこんなことを言い出したのか分からないが、もしかして、それほど深刻な顔をして街を歩いていたのかもしれない。
「姐さん、ロクシアン先輩……今日は誘ってくださって、ありがとうございました」
久しぶりに、心と身体に安らぎを感じることができた。
――嫌なこともあったけど、姐さん達に会えて良かったわ。
いろいろあったが、最後は良い気分転換で終れそうだった。
◆
あまり遅くなると例の兄が心配するから、とスフィアが帰った後もロクシアンはベレッタの部屋に残っていた。
しかし、顔に浮かべる表情は先ほどまでとはまるで違う。
気怠さも穏やかさもない、それは情報省の役人の顔だった。
「それで、坊。ブリュンヒルト家の動向は掴めたかい?」
「まったく、ただでさえ忙しいってのに人使いが荒いねえ、ベレッタは」
「何言ってるんだい。元々王様から依頼されたライノフ家の調査をやってたんなら、いずれ調べたことだろう。むしろ、こっちから先に調査対象を教えてあげたんだ。感謝してほしいくらいだね」
「それはそうだけどさ……でも、忙しい中でもベレッタのを最優先にした僕は、もっと褒められて然るべきだと思うんだけど?」
「何事もご褒美ってのは最後にあげるものだからね。ほら、話しな」
敵わないや、とロクシアンは肩をすくめつつ、調査結果をベレッタに話し始めた。




