22 良かったこのまま一日を終えずに!
「勝手に人の瞳で欲情するのはやめてくださいます?」
エノリアの口調も呼び方も、使用人のそれではなくなっていた。
二重人格ではなかろうか。
背を向けたら噛みつかれる。だからこうして睨み合ったまま後退するしかないのだが、如何せん、足の長さが違うため少しずつ距離が縮まっていく。
「ははっ! もしかして震えてんの?」
エノリアが喜悦に目を輝かせた。全くもって、どこに喜ぶところがあったのか理解しかねる。
トン、とスフィアの踵が何かにぶつかった。
「――っ!」
慌てて振り返れば、スフィアの背後には壁がありサッと顔から血の気が失せる。逃げ場など最初からありはしなかった。だから目の前のひょろ男は、捕まえもせず悠々としていたのだと理解する。
「はい、つっかまえた~」
トン、と顔の両側に手を置かれ完全に逃げ道を塞がれてしまった。
まさか、自分がこんな状況に陥るとは。一生の不覚だろう。
首を傾げながら顔を覗き込むようにして距離を詰めるエノリアに、スフィアは思い切り顔をしかめる。この状況にもそうだが、こんなおぞましい者がアルティナの傍に仕えているなどと、怒りでしかない。
「主にばれたら殺されちゃうけど、まあ、ばれなきゃ問題ないよな」
エノリアの下卑た視線がスフィアの胸元に落ちる。
瞬間、彼の頭は反発したようにスフィアから遠ざかった。その首には細く白い指が絡みついている。
「いい加減になさい」
スフィアの右手がエノリアの喉を鷲掴みにしていた。
スフィアの手など払おうと思えば簡単に払えるのだろうが、エノリアはそうできなかった。華奢な親指が彼の喉骨を的確に押さえていたからだ。
「ただでさえ虫の居所が悪いんです。これ以上、あなたのくだらない性癖になど付き合ってられません」
警告代わりに軽く親指の下にある骨を押せば、あんなに余裕を見せていたエノリアの顔が引きつる。
「あなたがドブのような性格だろうが二重人格者だろうが、お姉様の前で猫を被り、危害を加えず、誠心誠意勤める、もしくはとっととお姉様の前から消えるというのならこの場は見逃してあげます」
「随分と上から言うねえ」
「随分と状況を理解されてませんね」
喉を圧迫するスフィアの親指の力が増した。
途端、エノリアの口からはカハッと薄い咳が出る。
「お姉様のように慈悲のある令嬢だとお思いで? この私を?」
「あぁ~良いねえ、その強気。なるほどねえ、アレらが君に夢中になるわけだ。でも、可哀想に。君の大好きな大好きなお姉様からは最近距離を置かれ――――ッ!?」
エノリアがへらりとニヤついた顔で軽妙に喋る中、スフィアは躊躇無く親指に力を込めた。
彼は身体をくの字に曲げ、ゴホゴホと大きく咳き込みながらスフィアから遠ざかる。
「――っあー……まじで? 今の本気だったよね?」
「お喋りを自分で止められない病気かと思いまして。その骨を折って止めて差し上げようと思いましたの」
男は涙目になりながらも、口にいやらしい笑みを描く。
「っふふ! あははっ、ははっ!! いいねぇ! なるほど、侯爵令嬢とは思えない野蛮っぷりだ!! 主がしてやられるわけだ」
スフィアは、耳障りな笑い声を発するエノリアに顔をしかめた。
先ほどから彼は『主』という言葉をよく使う。彼の主人という意味ならば、雇用主のウェスターリ大公だろうが、そうすると話が合わない。
「あなた、何者なんですか」
ピタリと笑声がとまる。
「オレに興味持ってくれたんだ?」
「殺意と書いて興味と読むのでしたらそうですね」
「やっば、嬉しいかも」
この変態が、とスフィアは口の中で舌打ちをする。
もしや、これもヒロインだからということだろうか。特級の変態まで引き寄せてしまうとは、ヒロインという肩書きなどさっさと返上したいものだ。
「とりあえずあなたが何者だろうとどうでもいいです。ただ、もしお姉様に何かしたら……」
「ハハッ、安心しなよ。さすがに自分の雇用主のお嬢様にこんな事しないって」
正直、こんな男の言葉など信じられた者ではない。しかし、だからと言ってアルティナにエノリアを辞めさせろとも言えないため、ここはこれ以上言っても仕方のないことだった。
エノリアは咳き込んで乱れた髪を掻き上げていた。
拍子に、見覚えのある青い腕輪が袖から覗く。
「……それ」
スフィアにはどこかでソレを見た覚えがあった。
青ではない。しかし、確かにその腕輪には覚えがあった。記号だか文字だか分からないものが書かれている腕輪。
スフィアが静かに口にした言葉に、男は意味深に目を細めた。
「さて、本当はちょっと味見したかったんだけど、どうやら味見したら舌を引っこ抜かれそうだし、大人しく今回は退散するとするよ」
身なりを整え綺麗な笑みを作る男は、アルティナの屋敷で見る理知的な使用人にしか見えなかった。先ほどまでの狂気は影も形もない。
「今回は? 残念ながら次はないですよ」
また、エノリアは意味深に目を細めた。
「じゃあね、スフィアちゃん。今日のことは二人だけの秘密ね」
「あなたの変態じみた性癖を、わざわざお姉様に聞かせる趣味などありませんから」
「そう、良かった。じゃないとオレ、君の大好きなお姉様に何するか分かんないし」
「――ッエノリア!」
狭い路地に反響するスフィアの怒声など気にも留めず、エノリアは至極愉快そうな笑いを響かせながら大通りへと姿を消した。
「……帰ったら、マミアリアさんに注意してって言わないとだわ」
気分転換のつもりが、予期せぬ方向へ気分が転換してしまった。負から負へ水平移動しただけでどっと疲れた。
「なにも良いことがなかったわ……」
ぼやきながら、肩を落としてトボトボと路地裏から大通りへと戻ったスフィアだったのだが、彼女の曇った顔を晴らす一声が掛けられる。
「えっ、スフィア姫!?」
特徴的な呼び方に、声がした方へ顔を向ければ、そこには蠱惑的な美女が目を丸くしてこちらを見ていた。
「ベ、ベレッタ姐さん! ……と」
隣に、願望の優れたミルクティー色の髪をした優男を連れて。
「ロクシアン……先輩?」
語尾が疑問形だったのは、彼がげっそりと精気を失い、往時からは考えられないほど老け込んでいたからだった。




