21 次から次へと!
「本っ当、世の中不愉快なことだらけだわ……!」
スフィアは荒々しい足取りで通りを歩いていた。すれ違う人が、スフィアの全身から発散される怒気におののき道を譲る。
「特に何が腹立つって、あの男がお姉様の想い人だってことよ! あんなクズ野郎、お姉様に全然相応しくないわ。たとえお姉様が好きでも全力で止めるっての! よくもお姉様を……っ」
ワガママなのではない。自分の意思がはっきりしているだけだ。
高飛車なのではない。大公家令嬢という名に相応しくあろうとする気高さだ。
彼女の良いところなど、数え切れないくらいある。分からないのは、上辺でしか彼女を見ていないせいだ。
「――っはぁぁぁぁ」
収まらない胸のムカつきを盛大な溜息で外へと流す。
せっかく気分転換が台無しだ。これなら家に居たほうがマシだったかもしれない。
「もう帰ろうかしら」などと呟いたときだった。
「あれ? レイランド侯爵令嬢様……?」
振り返れば、ひょろ長い男が立っていた。
「ああ、やっぱり。珍しいですね、中央部ではなくこちらにいらっしゃるだなんて」
「あ、なたは……エノリア……さん?」
いつもの黒い使用人服姿でなかったから少し戸惑ったが、にょろっと高い背と、長めの紺色の髪は見覚えがある。
「お気遣いなく。呼び捨てしていただいて結構ですよ」
彼が小さく首を傾げれば、肩口で髪がさらりと揺れた。彼の気遣いにスフィアは礼を言い、一応挨拶代わりに今日は休みなのかと聞く。
「そうですね、休みなので街を少しぶらつこうかなと」
「大公様領は隣ですものね。よく王都には?」
「ええ。色々と面白いものがあるので、よく見て回ってますよ。侯爵令嬢様は今日は……そのようにわざわざ平民が着るようなものを着られて?」
「私もあなたと似たり寄ったりですよ。気分転換にって」
「気分転換ですか。でしたら……」
「ひゃっ!」
突如、スフィアの頭にポスッとエノリアの手が乗せられた。驚きで目を閉じてしまったが、何だろうかとうっすらと目を開けると、視界の上半分が白で覆われていた。
「そのよく目立つお髪は、しっかりと隠しておきませんと」
「え、あ、私の帽子……?」
頭に乗せられていたのは、スフィアが被ってきていた唾広の帽子だった。そういえば先ほどの店で脱いで、そのまま忘れて出てきたように思う。ありがたく思うと同時に、ふと『なぜ彼が』という疑問がわく。
「……もしかして……あなたもあの場に……っ」
見上げれば、彼はニィと口を目一杯横に伸ばした。
「水をお掛けになった理由をお聞きしても?」
「それは……っ!」
言えない。
アルティナを侮辱することを言ったからだとは。
もし真実を伝えれば、スフィアはアルティナを守ったとして、今できている溝を埋めることができるかもしれない。しかし、そのためにシネルの言ったことが彼女の耳にでも入ったりしたら、彼女は傷ついてしまう。
好きな人にそんなことを思われていたとなれば、どれほどの衝撃か。
「あちらの男性は、確かうちのお嬢様のダンス講師だったとお見受けしましたが」
「……っ」
しかし理由を言わなければ、スフィアは単純にアルティナの想い人に暴力を振るったという事になる。
今のこの状況でそう思われてしまえば、果たしてどうなることか。
言っても言わなくとも、このことがアルティナの耳に入れば彼女は傷つく。
スフィアは唇を噛むと、エノリアに向かって頭を下げた。
「エノリア、お願いします。今日の出来事は、どうかお姉様には言わないでください」
「侯爵令嬢様!?」
「お姉様に仕える方でしたら、お姉様が悲しまれるようなことはしたくないはずです。理由は言えませんが、お姉様を思うのでしたら、どうか何も見なかったことにしてください」
彼さえ今日のことを黙っていれば全て丸く収まる。
「……顔を上げられてください」
エノリアの手がスフィアの肩に触れた。
手に促されるようにしてスフィアも顔を上げたのだが、そこで目にしたものにスフィアは目を瞠った。
「あー……ほら、言わんこっちゃない」
エノリアは歪な笑みを浮かべていた。
一瞬で別人にすり替わってしまったのかと思うほど、いつもの彼の丁寧な雰囲気は微塵もない。
「その健気な一途さったら、たまんないっての」
クツクツと喉を鳴らしながらいやらしくつり上げた口からは、聞き慣れない粗雑な言葉が発せられていた。
「エ、エノ、リア……?」
何が起きているのか。頭を下げた隙に本当に別人に入れ替わってしまったのか。いや、それにしては顔は彼で、着ているものも変わっていない。であれば、自分は夢でも見ているのだろうか。この全身を粟立たせている寒気も夢だというのか。
エノリアはその大きな手で己の顔を覆い、肩を震わせていた。
「やっばいね、その顔」
ごろつきのような口ぶりと一緒に指の隙間から向けられた目を見て、スフィアは反射的に逃げなければと踵を返した。
しかし――。
「ったく、こんなの味見するなってほうが無理だっつの!」
「――ッきゃあ!」
掴まれた手首を力任せに引っ張られ、横にあった路地裏へと投げ入れられてしまう。
この展開にはいくらか覚えがあった。
よく自分を物陰に引っ張り込む、灰色髪の男がいたから。
その行動を強引すぎると常日頃思っていたのだが、彼がどれだけ自分を優しく扱っていたのか、大切に思っていたのだなと、まさかこのような状況で再確認することなろうとは思わなかった。
エノリアがスフィアを投げた力は強く、引っ張られた手首はヒリヒリと痛み、壁にしたたかに背中を打ち付けたせいで上手く息が吸えない。
それでも、苦しさに倒れてしまわなかったのは、スフィアの意地だった。
「ああ、なるほど。きっと主もその瞳に惚れたんだろうね」
ふらついた足で汚い地面を踏みしめ、キッとゆっくりと近付いてくるエノリアを睨み付ける。
「しょんべん臭いガキんちょは対象外なんだけどさぁ、やっぱり主が目を付けるだけあってそそるねぇ、スフィアちゃん」




